震える手袋の指を落ち着けようと、互い違いに絡ませた。
 その中に顔をうずめる。
――黒いドレスは特別な日に着るドレスだ。
 ノックの音にハンは顔を上げて、相手が名乗る前に「どうぞ」と入室をうながした。だれなのかはもう分かっている。ドアは開きながら甲高い悲鳴を伸ばして、それはしばらく耳に残った。
「ハンナ」
 聞き慣れたバリトンの声がハンの愛称を呼んだ。声の主は彼女へと続く絨毯を踏みしめ、徐々に足音が近づいてくる。彼女はレース編みを見つめてベッドの端に腰かけたまま、じっと声の主を待った。
 視界を遮っていたカーテンが左右に開かれると、ハン・ヘリオス・ポルラムは上を向いた。そこには青年の柔和な微笑みがあった。ハンはそれに向かって今にも泣き出しそうな顔を作る。するととびきり幼いこどもに見えた。
「もうすぐ式が始まりますよ。どうしたのですか?」
 日溜まりのように温かく品のある声の主は、ハンの手をみずからの手でそっと包みこんだ。
「カーグ。わたし行きたくないわ」
 ハンは小さな頭を黒い背広の胸にうずめた。
「わたしが生きていることなど……だれも望んでいないもの」
「そんなことありません。あなたはなにも悪いことをしていないでしょう?」
 カーグは腕の中にハンを抱きながら、脆く壊れそうな背を優しくあやした。ふと手を止めて、
「――分かりました。“お腹が痛い”のですね。式には出席しなくていいですよ。その代わり、安静にしていてくださいね。先生を呼んできましょうか?」
 「先生」という言葉にハンは慌てて起き上がり、青年に首を振った。
「寝ていればだいじょうぶよ。先生は呼ばなくてもよいわ。――お兄さま、わたしの代わりによろしく頼むわね」
「……はい」
 透き通るまつ毛を伏せて、噛みしめるようにカーグはうなづいた。
 ふわりとした銀の髪が喪服の黒に映えていた。足を整えたカーグがドアノブに触れようとしたとき、
「待って」
 その場にカーグを留めて、ハンは部屋の隅に駆けだした。ワンピース・ドレスの黒いフリルが膝下で波立っていた。隅の植木鉢には植え替えられたばかりの薔薇の木がある。そこからささやかに咲く薔薇を一輪頂戴して芳しい匂いをかぎ、少女は口もとをほころばせた。
「『エリザベス』をおまもりに持っていって」
「ありがとう」
 両手を伸ばしてハンが差し出した薔薇の花は、喪服と同じ色をしていた。物腰柔らかに礼を言うと、カーグは受け取ったそれを左襟に飾ってみせた。
「どうでしょう?」
「にあうわ」
 ふふ、と無邪気に笑うハンに兄は微笑みを返す。そして姿勢を正して表情を畏まらせた。
「それでは叔父さんに――ピーターさまにお別れを言ってきますね」
 同じく畏まったハンは恭しく一回うなづいた。
 寝室と外界を繋ぐドアが金切声をあげながら開いて、呆気なく戻っていった。

「そうそう、ザキルカさまがさっきいらっしゃったんだけどさ。理由は“腹痛”でいいんだよな?」
「いいんだろ。上が“腹痛”って言ってんだから」
 階下から聞こえてくる使用人の声でハンは目を覚ました。
「なんで急に“腹痛”になったんだろうな」
 耳を地階に向けて横たわっているからだろうか。意味ありげにくつくつと笑う声がいやにはっきりと聞こえてくる。
「殺っちまったから出づらいんだろ」
「怖いなーおい。そのうちオレ達も殺されるんじゃねえ?」
 ハンは耳を塞いだ。そして目も塞いだ。しかしそれは塞いでも塞いでも指のあいだをすり抜けて、耳に入りこんでしまうのだ。
 掛け布団に頭を潜らせて、少女は暗い闇に身をひそめた。縮こまって、じっと耐え忍んでいた。
 それからどのくらい経っただろうか。頃合いを見計らって、ハンはそろそろと頭を出した。まぶたを閉じて耳をすませる。
――だいじょうぶ、もう聞こえない。
 安堵の息をついて、彼女は汗ばんだ黒髪を無造作にかきあげる。
 隅の『エリザベス』にふと目をやると、暗い花びらが日の沈む前の強い光に透かされて本来の色を見せていた。まるで赤いベールに散りばめられたサファイアのよう。この世のものとは思えないほど美しいその光景は、ひとの手で作られたものだった。
――ハンナ、『エリザベス』は幸せの青い薔薇なのだよ――
 作り手はもうこの世にいない。ハンは寂しい微笑みを浮かべた。
 首筋に手をやると、かなり寝汗をかいている。ハンは枕元にぶら下がる呼び鈴の紐を二度引っ張った。しばらくすると、侍女がふたりがかりでポットとヒップ・バスを三階の彼女の部屋まで運んできた。雑然とした室内に鋳鉄のヒップ・バスが置かれ、その中に腰が浸るくらいの湯が注がれた。
 たちこめる白い湯気が入浴するハンの表情を隠している。透明な湯に浸した貧相な腕をハンは指でそっとなぞった。
 傷ひとつ無いまっさらで不自然な――人形みたいな肌。
 何度見ても同じこと。非情な現実を再確認するたび、ハンは塞ぎこんでしまうのだった。気を紛らそうと、浴槽に湯を足している黒髪の侍女に話しかけた。
「お兄さまはまだ戻られていないの、ジョゼットさん? もうすぐディナーでしょう?」
「ええ。来客がございましてね」
 つっけんどんに答える侍女からハンは目を逸らした。この女は初めて会ったときから嘲るように話すのだ。それは彼女に限ってではないのだが……。さらけ出した幼すぎる自分の身体を、ハンは厭うように、隠すように抱きしめた。
 朝と同じ色の慎ましやかなドレスに身を包んで、ハンは寝室をあとにした。玄関ホールに面した赤絨毯の大階段をおりていくと、男性の口論が聞こえてきた。片方は兄カーグのものである。一階に着くやいなや、ハンは声のするほうへと足を速めた。
 その声は応接室から聞こえてくるようだ。ハンはドアノブへとシルクの手を伸ばしたが、ためらい引っ込めた。それを口もとにやり、しばし考える。ドアにひっつき耳をそばだてれば、まだ口論は続いているようだ。
「貴様も強情なやつだな。一生こんな薄気味悪い屋敷で“あれ”と暮らしていくつもりか」
「あなたにとってはそうかもしれません。でも僕にとっては育った家ですし、あのかたは僕の生きがいなんです」
 ハンは両手でドアノブを掴むと一気にひねった。
「お兄さま!」
 声とともに飛び込んだお下げの少女に部屋中の視線が集まった。
 ガス灯が青白く照らす夜の応接室には、カーグとふたりの客がソファーに腰かけていた。三人とも喪服である。
 兄と向かい合わせに座るふたりのうち、ハンは見知らぬほうを訝しげに見る。おそらく、いや間違いなく兄と言い争っていたのはこの男である。シャンデリアの部屋に不似合いな、無精髭を生やした大柄な初老の男だ。白髪交じりの金髪が浅黒い肌に映えている彼もまた、養父の葬儀に出席したらしかった。
 そのとき銀色の目玉がぎょろりと動いて、ハンは背筋を凍らせた。目が合ってしまったのだ。男はそのまま初対面のハンを、彼女を蔑む養父のような目で怪訝そうに見ていた。そのようなものは飽きるほど見てきたけれど、男のそれには堪えかねた。
「ハンナ。紹介しますね。父のジェミンです、覚えてますよね?」
 カーグの一声で男の視線から逃れられ、ハンは安堵する。
 カーグはまず例の男でないほうから紹介した。ハンはこくりと頷き、兄と同じ髪色で、薄幸そうな笑顔に気の弱さがにじみ出ているようなジェミンおじさんに会釈した。彼とは二度――養父ピーターの妻と娘が亡くなったとき――しか会ったことがなく、ハンはなにを話したらいいのか言葉に詰まった。だから彼とは「大きくなったね」とか、交流の無い親戚の決まり文句を二、三交わす程度で終わってしまった。
 問題はその隣であった。流れでカーグの紹介は例の男へと移ってしまう。カーグも男も、気が進まないといった様子だ。だったらやめればいいのに――ハンだって紹介されることを望んでいないのに、カーグは無理にぎこちなくしゃべった。先ほどの口論を引きずっているようだ。
「こちらのかたはピーターさまのお父さまで――絶縁されてますけど――あなたのおじいさまにあたるツカサさまです」
――おじいさま!
 怪訝に見るはずだ。どうりで養父に似ていると思ってしまったはずだ。ハンは瞳をわななかせた。
「……カーグ何を言っている」
 ダマスク織のソファーに我が物顔で腰かけているツカサは足を組み直すと、眉間のしわをさらに深くして真向いのカーグを睨みつけた。
「形式として事実を述べたまでです。あなたのようなひとにうちのお嬢さまを近づけるなど、頼まれても願い下げます」
 再びツカサとカーグの衝突が始まった。カーグの父が慌てて仲裁に入るが押しが弱く、それはあまり意味を成していなかった。
 ハンは彼らと距離を置いたまま黙って立ちすくんでいた。しかし――
「はじめまして、ツカサおじいさま。パパのお葬式に来てくださってありがとうございました。ジェミンおじさんも」
 思い切って一歩踏み出した。拙い声をひと息に振りしぼり、ハンはふたりの来客に頭を下げた。
 だが……その後、顔を上げる事が出来なかった。寸足らずの足は小刻みに震えている。

「ピーターめ、本物の化け物を作ってくれたな。このままずっと歳を取らない……だと……あいつは悪魔か」

――化け物。
 ツカサが吐いたその言葉は、ハンの胸を深くえぐった。
 冷ややかな銀眼。そして養父と同じ、黄金色に波打つ髪の毛。
 『ツカサ・アルジャン』――ブリンガル公爵家の“恥”――その名はあまりにも有名だ。彼は自分と同じ迫害を受ける側の人間で、自分の理解者なのだと勝手に思いこんでいた。
 揺れる瞳に熱いものがこみあげてくる。
「ツカサさま! お帰りください! 早く僕たちの前から消えてください! ――ハンナッ」
 カーグは今にも倒れてしまいそうな妹をツカサから守るように抱き包んだ。
 すぐさまツカサは立ちあがった。彼は大きな体躯から青年と少女を見下し、ひどく睨みつける。
「言われなくてもこんな屋敷、さっさと出て行くわ! 行くぞジェミン」
 威圧的な剣幕で怒声をあげ、ドアを乱暴に開け放してツカサは出て行った。そのあとをカーグの父が慌てて追いかけていった。
 嵐が過ぎ去ったかのように、あたりはしんと静まりかえっていた。
「カーグごめんなさいごめんなさい」
 涙はせきを切ったように溢れて止まらない。
「あなたはなにも悪くありません。だいじょうぶ。心配しないでください。僕があなたを守りますから――なにがあっても」
「ごめ……なさい」
 ツカサたちを乗せた馬車をひくペガーズの、翼を羽ばたかせる音が聞こえた。ハンは顔をカーグの胸に押し付けたまま、ぎゅっと目をつむり息を殺した。
「ハンナ?」
 兄は妹の沈黙に付き合うことにした。
 ハンの背中に添えたカーグの手が少しずれた。柱時計の針は休むことなく、確かな時を刻み続けている。
 腕をそっと解いてハンは顔を上げた。柔らかなエメラルドの瞳が微笑んでいる。目頭が熱くなり、ハンの視界はぼやける。
「ハンナは泣き虫ですねえ」
 頬をつたう一滴を黒革の指がそっと拭った。
「どうして? どうしてそんなに優しいの? カーグ」
「あなたが大好きだからですよ」
 再びにじみはじめた視界に映る温かな微笑。幾重にも弧を描く、透き通った銀の髪はまるで天使だ。ハンだけの守護天使だ。
「夕食にしましょうね」
 泣き顔に笑みを浮かべてハンは頷いた。
 兄妹は手を繋いでだだっ広い階段を上がった。そして踊り場の、先刻旅立った前当主ピーター・ポルラムの肖像画のまえで足を止めた。
「パパ……」
 白衣を着て椅子にゆったり腰かける養父を、ハンは改めて眺めた。養父の三つ編みは金髪の癖っ毛である。
「お兄さま。パパとツカサおじいさまは似ているわね。髪の毛とか、肩はばの広い感じとか」
「そうですね。似てます。――ツカサさまのことをもっと知りたいですか?」
 陰鬱な雲を払うかのごとくハンは首をふった。そして目一杯、晴れやかな顔を作った。
「いいの」
「そうですか」
 もう一度ふり返り、養父の肖像画に別れを告げると、ハンは大好きな兄の手を取って歩きはじめた。

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