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 闇が解けて白みがかった霧の中で屋根がほんのり赤みを帯びはじめる。広大な草木の緑が清々しくあたりを覆い囲っていた。
 七色の鶏冠をもった象牙色のカエルが喉を鳴らし、まとまらない輪唱が始まった。大きな猫がみずからの寝息に混じる炎の温度に驚いて飛び起きる。花壇に咲くコスモスたちが二本足の根ですたこらと小火から逃げていった。
 様々な音が銘々に騒ぎだし、彼らは喪に服す屋敷の気も知らない――いつもの朝が来た。
 見たこともない不思議な動植物たち――『キメラ』――が暮らす壮大で豪華な庭園は、その中心にある屋敷の前当主ピーター・ポルラムの作品である。
 彼は一週間前に事故で帰らぬ人となり、昨日葬式が執り行われたばかりだった。
 カーテンが次々に開かれ、新鮮な陽光が朝食室の窓いっぱいに取りこまれた。
 癖毛の青年カーグ・ソーンはテーブルクロスの前に着席し、持ってきた新聞を広げた。彼はピーター・ポルラムの甥で、この屋敷に遺されたピーターの家族の一人だった。青とも緑ともいえないような爽やかな色の瞳でじっと紙面を見つめ、静かにそれをめくって瞬きをする。
「おはよう。お兄さま」
 明朗な朝の挨拶の余韻が青年の耳から消えないうちに、愛らしいお下げ髪の少女が真向いの席についた。十代前半に見える彼女はピーターの養子ハン・ヘリオス・ポルラムだ。彼女はピーターとの血縁を持っていなかった。
 この屋敷にはカーグとハン、そして前当主に雇われた二百人余りの家事使用人が住んでいた。
 燕尾服の青年たちが熱々の料理を載せたワゴンを押して部屋に入ってくる。使用人の中でもひときわ華やかな彼らは重たい皿をひとつずつテーブルの上に並べていった。義兄妹の目の前に朝食の用意が着々なされていく。
 カーグは言付けとともに執事に新聞を預け、確認の視線を送った。白髪混じりの執事は意味深長な顔でうなづいて、速やかに部屋を出ていった。

 ハン・ヘリオス・ポルラムはうやうやしく立ち上がった。
「皆さんありがとうございます」
 令嬢はかしこまり姿勢を正し、部屋中の使用人たちに向かって深々と頭を下げた。まるで食卓に招かれた旅客であるかのように。
 着席すると今度は焼きたてのパンや肉料理に向かって、小さな手を固く組み目を閉じた。
「いただきます」
 食事のたびに行われる妹の儀式を困った笑みで見守りながら、兄はナプキンを手に取った。
 養父はいなくなったけど今朝も変わらず料理は美味しい。クロワッサンにブリオッシュ、次はどれを食べようか。幸せな朝食である。
 そして五分経たないうちに問題は発生する。兄はフォークとナイフを皿の上に静かに置き、正面に座る妹を見た。
「ハンナ。そんなに口に詰めこんで食べてはいけません。お行儀が悪いですよ。小さく含みなさい」
「ごめんなさい、お兄さま。このパンがあまりにおいしかったものだから」
 兄は厳しい教師の口調でさとす。顔を赤くして下を向くと給仕の忍び笑いが聞こえてきた。兄は笑い声の主を不機嫌な目で探すが特定は難しく、あきらめて食事を再開した。
「ねえお兄さま。昨日のことなのだけど……わたし悪いことをしたわ」
 沈んだ声でそう切りだして、ハンは一口大に切ったハムを頬張った。
 カーグは目を伏したままティーカップに口をつける。
「葬式に出席しなかったことですか?」
「それもそうよ。でもそれではなくて、ツカサおじいさまのことよ」
「ああ、それはあの人が悪いんですよ」
 悲しそうな顔をする妹に、兄は何事もなかったかのように淡々と言葉を返した。
「でもやっぱり申しわけなかったわ。わたし、お手紙を書こうとおもうの」
「お止めなさい。どうせ破り捨てられます。それにあの人に出て行けと言ったのは僕ですから、あなたはなにも悪くありませんよ」
 ふたつに割ったスコーンにリンゴのジャムを塗りつけながら、カーグはさとした。
「でもわたし書くわ」
 真剣な瞳で兄を見つめ、まばたきをする。
 カーグのジャムを塗る手が止まった。
「分かりました。書きなさい」
「ありがとう。お兄さま」
 口角を上げた兄はやはり優しい。ハンは満面笑顔になった。
 食事を終え、ティーカップとソーサーが給仕によって下げられると席を立った。
「待ってください、ハンナ」
 朝食室を出ようとしたハンはカーグの声に引きとめられた。黒く重たいスカートが半弧を描きながら翻る。
「これを」
 受けとったのは小さく折りたたまれた新聞の切れ端だった。
「なあに? これは」
「今日の一面記事です。馬車の中で読んでください」
「分かったわ」
 タイプライターの無機質な印字を見ながら小首を傾げたが、あまり深くは考えなかった。
「では行ってくるわね」
「天才と謳われたピーター・ポルラムが亡くなり、世の中に変化が起こっています」
 端正な顔をさらに整えて唐突に話しはじめたカーグにハンは眉根を寄せた。新聞の切れ端とエメラルドの瞳とを交互に見る。
「なにが書いてあるの?」
 慌てて新聞を開こうとするとそれをカーグの片手が阻んだ。
「今読まなくてもいいです。僕が言いたいのはですね――」
「お話が長くなるようなら帰ってから聞くわね。遅刻してしまうわ」
 新聞を口もとに当てながら留守番の兄に上目使いを送り、踵を返す。
「世の中以上にこの屋敷も大きく変わりました。使用人たちの動揺をあなたも感じているでしょう?」
 困惑の表情を浮かべてハンはふり返った。ふたつの黒い毛束が顔まわりで揺れた。
「でも心配はいりません。あなたは一人ではないから。ですが、その記事を読んであなたにも少し考えておいてほしいのです。帰ってくるまでの宿題ですよ」
 ブランケットのように温い声にハンはこくりとうなづいた。
 ドアの前で立ち止まると新聞の切れ端を再び見つめ、ふと後ろを見た。
 銀細工の髪。カーグは養父ピーターと同じ“癖毛”だ――自分とは違う。
 なんて姿勢が良いのだろう。しわの無いスーツが良く似合う。彼は紳士だ。
 ハンの視線に気付いたカーグは、わざとらしく胴衣のポケットから懐中時計を取り出して蓋を開けた。
「い、行ってくるわねっ」
 小言を予感したハンは急いで朝食室を飛び出していった。

「マルスマルスマルス! なんてかわいいのかしら。はやくあなたと一緒にお空をとびたいわ」
「お嬢さん!」
 白鳥の翼を持つ立派なペガーズの首もとにハンが頬をすり寄せていると、馬丁の青年が注意を促した。
 山高帽の幼なじみにハンは瞳を細めた。
「もう少しこの子といるわ」
 馬丁が肩をすくめて苦笑いしていると、屋敷の方角から軽快で美しい音色が聞こえてきた。
「ほら、カーグさまがピアノの練習を始めちゃいましたよ。早く行ったほうがいいですって!」
 少女はうざったそうに音源を見上げた。
「もうカーグったらこの寒いのに窓をあけて。わかったわ。行くわ。この子をよろしくね、パシャ。ほかの子たちも」
 馬丁に別れを告げ厩舎を出たハンは手袋の手を擦りあわせて白い息を吐いた。
「はやく行かなくっちゃ」
 外套姿で待機する御者を見つけたハンは大きく手を振った。ブーツの足で小走っていく。
 赤屋根の田園屋敷ポルラム邸の正面玄関前にて、二頭立てのペガーズ馬車がハンを出迎えた。少女は凛々しい白馬たちに円らな瞳を輝かせた。
「お早う御座います。遅いですぞ、お嬢さま。さては、また厩舎に寄られていたのですね?」
「ええ、ごめんなさいカバネル。でもエマ先生ならきっと大目に見てくださるわ」
 呆れ顔の御者に舌を出してはぐらかし、側面のドアから黒い箱の中に乗り込んだ。
 シルクハットの御者が手綱を引くと二頭の白いペガーズが大きな翼をゆっくり上下させ、駆けはじめた。青い犬達が馬車に向かって吠える中、ペガーズ馬車は風を切って助走した。
 ハンは長椅子の端にある金属の手すりを固く握り、体勢を低くした。
 離陸とともに目をつむる。あご下のリボンと一緒にお下げ髪が飛び跳ね回り、両足が床からふわりと浮いた。
 足が着地すると座面に乗り上がって窓の外を覗き見た。
 馬車は白霧の空を走っている。あんなに大きかったポルラム邸が積み木の家みたいだ。
 少女は窓に引っついて外の景色に夢中になった。
「すてき……! 楽しい! あの雲のむこうには何があるのかしら。あの海のむこうには何があるのかしら」
 景色はどこまでも無限に広がっているように思えた。
 馬車の揺れが安定するとハンは窓に映るボンネット頭を整えた。
 なめし革の手袋を外して、膝に載せたゴブラン織りの手提げ袋から例の新聞を取り出す。インクの香りのするそれをどんどん開いていき、最後に端を引っ張って折り目を伸ばした。
 細かくびっしりと入った印刷文字の紙面から真っ先に飛び込んできたのは大きな写真の中のよく見知った顔だった。
「ザックさんだわ」
 ハンが「ザックさん」と呼ぶ身形の良い青年ザキルカが新聞の一面を飾ること自体にはさほど驚かない。なぜカーグはわざわざこれを読むように言ったのだろう。
 少女は揺れに身をまかせて大文字の見出しに目をやった。
「うそ……ザックさんが?」

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