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 有刺鉄線と三つ頭の巨犬セルベルを連れた警備員たちが厳重に護っている建物は植民地ナールが誇る『キメラ』の研究所だ。
 女性は白衣のポケットに両手を突っ込みながら、工場のように煙を吐き続けるレンガとレンガの間を歩いていた。足を一歩踏み出すたび、毛糸のマフラーと蜘蛛の糸が冷たい風に泳いだ。
「ビールとタラの揚げたやつちょうだい」
「フィッシュ・アンド・チップスですか?」
「そうそう、それちょうだい」
 女性は前のめりに肘をつき、カウンター越しにパブの主人に話しかけた。
 長く垂らした白髪に大きく開いた胸元。素肌の上を無数に走る手術痕。屈託のない笑み。――主人は彼女の正体を確信した。
「あいにくですがホールデン博士、貴女の主治医から酒を飲ませないよう言われておりまして」
 数秒、ホールデンの口はぽかんと開いたままになっていた。
 主人の手からは見覚えのある一枚の診断書がぶら下がっている。
「はあ? なんであんたがそれ持ってるわけよ?」
「伝書鳩が届きました」
 彼女はカウンターにがっくりとうなだれたが、またすぐに起き上がった。
「それ無視していいわよ。肝臓はこの前取り換えたから。ねえ私ビールが飲みたいのよ」
 黙って首をふった主人を眼鏡越しに、睨む。
 ホールデンは再びうなだれて今にも死にそうな声を出した。
「さーけええ……」
「大人げないわよ先生。そうね、緑茶にしてあげて」
 突然後ろから聞こえてきた、酒場にはまだ早すぎる声にホールデンはふり返った。
 揚げ物が載った皿を一人用の丸テーブルに運び、よっこいしょと腰を下ろした。
「エマ先生。緑茶に桃のジャムを入れてもらったわよ」
 目の前にティーカップが置かれるとエマ・ホールデンは青い目を細めた。
「まあありがとう、ハンナ。ついでに肩も揉んでくれない?」
 甘い声でエマが困って見せると、ボンネット頭の女の子ハンはちょこちょこと彼女の背後に回った。

「ああ気持ちいい。胸が大きいから肩凝っちゃって」
「でもうらやましいわ」
 会話にさり気なく入っている自慢を受け流しつつ、ハンはエマの肩を慣れた手つきで揉んだ。エマはジャガイモを「あふい」と言いながら美味しそうに頬張っている。
「早い昼食ね、先生」
「あんたが遅かったからよ。また厩舎とかそこの番犬とかと遊んでたでしょー」
 真実をずばり言い当てられ、ハンは小さく苦笑いを浮かべた。
「遅れたことは謝るわ。でも勝手にパブに行っちゃう先生も悪いわよ」
「だって研究所の中にあるのよ? 暇が出来りゃ酒好きは行っちゃうわ。そう、あんたが遅刻したせいよ」
「しつこいわよ、先生。謝ったでしょう?」
 エマの肩はひんやりとしている。自分の手が冷たいのか、はたまた彼女の白衣が冷たいのか――いや、どちらでもないだろう。冷たいのは彼女の身体が壊死している証拠なのだ。
 ハンは優しくいたわるようにその肩を揉んだ。
「ねえ、先生。ザックさんが所長候補になっているの知ってる?」
 行きの馬車で読んだ大事件をハンはさりげなく口に出した。
 黙ってエマの返事を待つ。
「知ってるわよ」
 エマの返事は思いのほか素っ気なかった。
 読んだ時からずっと頭を離れない重大な情報であったのに。ハンは言葉を失った。
 ハンの外套を羽織ったエマは寒風吹き荒ぶ研究所の中庭に出るとぽつりと言った。
「必死に反対したけど駄目だった」
「反対?」
 ハンは借りたマフラーの中に埋もれた子どもの唇から疑問の言葉を発した。
「ザキルカを所長に推したのはシルゾルト公国なの。だから私もザキルカ本人も反対したわ」
「本人……も? ねえ先生どうして? ザックさんが所長になるって知ってわたしうれしかったのに、どうしてだめなの?」
 白く透き通った髪束を風の意のままにされながらエマは空を見上げた。つられてハンも上を向く。
 煤混じりの煙が絶え間なく天に昇り続けている。その中、遠く上空に一両のペガーズ馬車が走っていた。
「あの子は政治の駒なんだわさ。シルゾルトがナールの植民支配権を強奪するためのね」
 ボンネット帽からはみ出したお下げが荒れ狂っていた。
 シルゾルト公国は北世界の三大勢力を誇る国のひとつで、蒸気による機械文明を躍進させた国である。
 シルゾルトの蒸気機関は人々の海や陸での長距離移動を簡単にした。そして、ここナール研究所でもそれは大きな助けとなっていた。だがしかし――
 ハンは不安げな面持ちで、ねずみ色に染まる空を見つめた。
「蒸気機関が吐くどす黒い煙と行き過ぎた石炭採掘は“裁き”を早めるわ。ハンナ、シルゾルトの空にペガーズはいないのよ」
 この世界を構築した神々が起こす最悪の悲劇、それは裁きと呼ばれる。エマの祖国レッガスの地も百年前に氷漬けという形で裁きに遭い、多くの死傷者を出した。
 エマは神の裁き――生態系を崩した代償として受ける天罰――をだれよりも懸念し、それの予防に努めてきた研究者だった。
「確かにシルゾルトの機械による文明は、生命を犠牲にする従来の『キメラ』文明よりも倫理的にはいいのよね。でも“魔神”的にはどうかしら」
 だからエマは反対したのだ。
 ザキルカの所長就任が汚染の煙をこの地に招くきっかけになりうると彼女は言いたいのだ。
 理に適っている。しかし、ザキルカがそう簡単に駒になるとは思えなかった。彼なりになにか考えているはずなのだ。
「ザックさんが政治の駒にならないよう、わたしたちががんばればよいのではないかしら」
 幼い声が中庭に響くと、エマはブーツの底をかつかつと鳴らし早足で歩き始めた。脚の短いハンは彼女の二倍ひょこひょこ脚を動かして、彼女の背中に付いていった。
「理想だわね」
 エマは鉄製の扉を開けた。
「でもザキルカの所長就任がほぼ確定しちゃった以上、あんたの言う通り私たちが頑張るしかないのよね。難しいんだけどねー。シルゾルト側は蒸気機関車の運賃を値下げするとか言ってるから、ナール庶民は支持しちゃうだろうし」
 建物の中に入ったふたりは研究室のドアが規則正しく並ぶ神木の板張り廊下を歩く。ハンは白衣の研究者とすれ違うたび、エマの後ろに身を隠していた。
「わたしは支持しないわ」
「そうね。あんたにはピーターが遺した莫大な財産があるものねえ」
「そういう意味で言ったのではないわ。わたしはただペガーズがきもちよく飛べるお空を守りたいだけよ」
 おちゃらけながらふり返ったエマは自分を見上げるハンの膨れっ面に頬を緩ませた。ボンネット帽とマフラーに埋もれながらのそれは、エマにとってかなり滑稽だったようだ。

 行き交う研究者の人間ではないものを見るような視線に耐えながら、ハンはふしだらな垂髪をなびかせて歩くエマの後ろにくっついていった。
 彼らの視線を集めてしまう原因は恐らく自分一人だけではないだろう。
 髪だって胸だってそうだが、エマが履いている膝下丈のキュロットスカートも動きやすそうではあるが――すごく目立っている。
 ハンは下を向いた。
 ふたりは飾り気のないコンクリート製の階段を単調な足どりでおりていく。
「そういえば昨日カーグに見え透いた嘘をつかれたんだけど、あんたどうして出なかったわけ?」
「えっ……」
 仮病で欠席した養父ピーターの葬式のことである。たしかに“腹痛”は見え透いた嘘だった。
 ハンが体の不調で寝込むなどありえないからだ。
 それは彼女とつき合いが長ければ、だれでも知っていることだった。
「まあ、いいけど」
 なかなか答えを出さないハンに見切りをつけ、エマはその問題を曖昧でよしとした。
「ピーターの葬式代、私が出すって言ったのにザキルカが出したのよね。そこが気に食わない葬式だったけど、まああんたが出なくても大したことなかったわ」
「そう」
 微笑みをふくんだ眼鏡越しの垂れ目にハンは胸をなで下ろした。
 地下一階の廊下をしばらく歩くとふたりは自身の尾を噛んで環になっているヘビ――ウロボロス――の絵が描かれたドアの前に辿り着いた。ここが錬金術師エマ・ホールデンの研究室である。
 エマはハンに外套を返すと豊満な胸の谷間に手をつっ込んで鍵を取り出した。
「先生。そんなところに鍵を入れていたの?」
「ん? そうよ」
 ハンは顔を真っ赤にしながら口もとに両手をそえた。
「恥じらいを持ったほうがよいわよ、先生」
「おばあちゃんには恥じらいなんて要らないのよ」
 どう見ても三十歳くらいにしか見えないエマおばあちゃんは軽く笑いながらドアを開いた。
「さ。一週間も待ってたんだわよ、ハンナ。お入んなさい」

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