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 ハンが研究室に入るとエマはドアを閉めて鍵をかけた。
 暖炉の温かさが残る薄暗い部屋には生臭さが立ち込めていた。ハンはいてもたってもいられず歩を進めた。
「換気したほうがよいわよ、先生」
「天井に通気口あるじゃない」
「だめよ。ひどい悪臭だわ。今度はなにを殺したの? プロペラを回さないと」
 部屋の主は斜め上を指差したが、かまわずどんどん歩いていった。本と書類の山を横目に、コンクリートの床のあちこちに転がる酒瓶を避けながら、通気口の下で足を止めた。
 革手袋を外して手提げ袋にしまうと、ハンは換気扇のスイッチを一気にひねった。
 プロペラが回り出した。うなるように耳障る旋回音とともに壁の奥から音がする。普段は特に気にも留めていなかったが、熱い水煙を吐いて動くその音が今日はやけにひっかかった。
「それも蒸気機関よ。今この瞬間にも煙は外に出てるわ」
 机に向かって資料を眺めているエマを見てあきれるように溜め息をついた。
「これはしかたがないでしょう、先生? 生きていくために換気は必要よ! 先生はずっとこの部屋にいるから分からないのだろうけど、来るたびに変なにおいがするわ」
「えー寒い。煩い」
「このくらいでペガーズは死なないわ」
 口をとがらすエマを無視して、ハンは蒸気機関で回るプロペラに話しかけた。
 背伸びをして外套とボンネット帽を出入り口の壁にかけた。そしてハンは気づく。開いた口に手をそえた。
「先生、わたしコルセットをつけてきてしまったわ」
 奥の机に背を向けて座るエマは、前面に折りひだの入った寸足らずなキュロットスカートの脚を組み直した。
「しょーがないわね。あっちの部屋で外してきなさい」
 優しい先生に謝罪と礼を言って、ハンは本棚と本棚のあいだにあるドアを開けた。 中にはとても衛生的とはいえない血の染みついたベッドが二台置いてあった。
 ドアの横の姿見――自分がねだって買ってもらった――の前に立ち、首元のボタンに手をかけた。どんどん外していく。
 未発達の幼い身体が露わになっていく。
「先生、このにおいの正体はなに?」
「そうね、毒ヘビ十五匹と――」
「なにか来た!」
 スカートの裾を引っ張られている感覚。
 足もとを見ると頭部がハンの膝上まである猫科の生物が無邪気な顔を上げた。
 思わず顔がほころぶ。
「おいで、かわいい子」
 上着がはだけているのも忘れて少女はその場にしゃがみ込み、そっと生物の頭を撫でた。
「それ、虎と亀の『キメラ』よ」
「ほんとう?」
 エマの声にハンが嬉々としてふり向いたすきに、虎と亀の『キメラ』はその場を離れていってしまった。
「まって」
 急いで『キメラ』を追いかけた。それが向かった先には“炉”があるのだ。
「ハンナ! そっちに行っては駄目よ!」
 理性を失ったハンにエマの荒ぶ声は聞こえなかった。
 巨大な炉の扉は――運悪く開いていた。
 『キメラ』に追いつくと少女は前のめりになって飛び、もう離すまいと抱きついた。その直後、虎と亀の『キメラ』は苦しそうな呻き声をあげ、腕の中に確かにあったものがするすると無くなっていった。
 ハンの血の気がさっと引いた。

 遅かった。自分たち『キメラ』は中に入ってしまったのだ。入ってはいけない錬金炉の中に。
 あたりを見渡すとそこには三角形や星型正多角形の入った魔法円がぐにゃりと歪みながら四方八方に浮かんでいた。
 炉の中は外から見るよりもずっと広かった。地平線が見えないそこは明らかに外の世界とは違う空間だった。
 その場に崩れ落ちたちっぽけな自分以外何も無かった。
 意識が朦朧としてくる。円が歪んで見えるのはもしかしたら自分の目がやられてしまったからかもしれない。
 自分も先程の『キメラ』みたいに消えて無くなってしまうのかもしれない。
 恐怖で固まるよりも早くハンは頭から倒れ込んだ。
 すごく気分が悪い。吐き気がして眩暈がする。もう、目を閉じてしまおうか……。
 遠い意識の中で体が解けていくように感じた。

 創造主の意図せぬ生命を創り出す悪魔のような道具。
 エマはそれを使って虎と亀の『キメラ』を創った。錬金術師は白鳥と白馬を入れてペガーズを創った。
 それは大男でさえすっぽりと飲み込む巨大で恐ろしい錬金炉だった。
 これと同じ炉が二十一年前、雪の降り続ける研究所にあったらしい。
 炉に入れられたのは若い娼婦だった。彼女が何と一緒に入ってどういう方法で錬成されたのかは解らない。しかし、出てきた彼女は一生大人になることのない人間――ハンを身ごもり産んだ。
 ハンはペガーズと同じように錬金炉で錬成され生まれた生物、不老人間だった。
 だからハンが化け物と呼ばれるのはあながち間違いでもなかった。
 錬金炉で生まれた『キメラ』は錬金炉に敏感に作用してしまう。炉の中はハンにとって生命を脅かす禁断の領域だった。
 しかし、放っておけなかったのだ。本能が同胞を救うよう訴えていたから。

 消毒剤が鼻につく。
 ハンは暗い闇から光のある方を見ようとしていた。しかしそれが中々難しい。彼女は開きかけたまぶたを不可抗力に従って、閉じた。
「……ンナ……ハンナ!」
 弾ける音とともに頬にびりびりと痛みを感じて目を開いた。薄暗い天井を背景に白く長い髪を垂らした大人の女性が見える。
 エマ先生だ。
「ハンナー! 生きてた! 良かった!」
 先生はがばりとハンに抱き付いた。こんなに固く抱きしめられたのは久しぶりだった。
「――っ!」
 窮屈さに微笑んだのも束の間、左腕に耐えがたい激痛を覚えてハンは涙目になった。
 慌てて体を離すエマ。
 その顔に先ほどの温かさはなかった。生死を確認したとたん、心配をやめてしまうのがいかにも研究者らしい。
「先生! わたしの左腕どうなってしまったの!」
「右手もよ」
 言われて右のそれを見るとびっしり包帯が巻いてあり、痛くて指を動かすことができない。唯一動く首を起こして見回すと、ここは着替えていた部屋のベッドの中だった。
「腕。普通の人間ならもう駄目になってるとこだけど、あんたの再生能力なら一か月もあれば動くようになるわよ。良かったわね、そういう体質で」
 ハンの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「なあに? 腕もげた方が良かった?」
 少女は黙って首をふった。
「わたしが腕をやられたのなら、あの子はどうなってしまったの?」
「あの子? 虎と亀の?」
「そう。その子よ」
「まあ、急激な変質に耐えられなくなって死んじゃったわね」
 ハンは目をつむって唇を噛みしめた。
 溢れてくるのは同胞を助けられなかった後悔の涙なのかもしれない。負傷した患部がじんわりと熱くなった。
「折角完成した『キメラ』だったのに。まあ檻と炉に鍵をかけ忘れた私が悪いんだわ」
「…………」
「でもハンナが生きてて本当に良かった。倒れてたときは私ショック死するかと思ったわよー」
「先生はわたしが大事だものね」
 冷たく吐き捨てるように返して白衣の女性からそっぽを向いた。
 当たり前の変わらない真実に込み上げてくる涙は怒りだろうか。歯がゆさだろうか。
「もう。またそうやって拗ねる。いい? あんたは世の中の役に立つための『エリクシール』、貴重な研究材料なのよ。奴隷制を確――」
「そんな遠回しな名前で呼ばずに、はっきりと“化けもの”と呼べばいいのに」
 ぐちゃぐちゃの心を隠すように顔を毛布の中に埋めた。
 いつまでも老いることのないハンは大抵人から敬遠されるが、研究者だけは彼女を歓迎し大切に扱う。
 敬遠されても歓迎されてもそれは人間としてではない。人とは違う生き物としてなのだ。
 そのことに気付いてからはエマに求められてもあまり嬉しくなかった。
「今日はもう帰りなさい。ギプス作ってあげるから」
「え。まだなにもしていないのに?」
 ハンは顔を出してエマの方を見た。炉に入ったのは確か昼前だったはずだ。
「いま何時なの?」
「十九時よ。こんな調子じゃメンテナンスのしようもないし、そろそろカーグが心配するわ」
「ごめんなさい」
 ハンは急に自分が恥ずかしくなりエマを真正面から見られなくなっていた。今日、研究所で自分がしたことはエマに迷惑をかけたことだけではないか。
「わたし、もう二十歳なのに」
「いいのよ」
 エマの声は優しいがそれは本当の優しさなのか判らない。でも今は優しく感じた。

 瞬きはじめた星空を渡って、ペガーズ馬車がポルラム邸の正面玄関前に到着した。
 左腕と右手が不自由なハンは御者に助けられながら玄関扉の前に立った。すると何かにスカートの裾を引っ張られた。
 心当たりのあるその方に目をやる。
 シメールだ。彼はハンの柔らかい笑みに気付くとライオンの口角を上げて熱風を吐いた。足元が温かい。彼は毒ヘビの尻尾を振ってハンを見上げていた。
「ごめんね、ヴァン。今はなでてあげられないの」
 頭を撫でてもらうのが習慣になっていたヴァンは溜息交じりに小火を漏らした。その火は途端に黒いスカートに燃え移り、御者が慌てて帽子を落とし外套を脱いでどうにか消し止めた。
「ほら、お嬢さまになんてことするんだ。シッシッ」
「やめて、カバネル!」
 シメール――ライオンの頭に山羊の胴体、毒ヘビの尾を持った『キメラ』――はその容姿に似合わず怯えたように庭園の中へ逃げていった。
「ですが、お嬢さま。火は恐ろしいものです」
「そうね。でもあの子はおそろしくないわ。あの子はさびしがり屋なのよ。そんなひどい追い払いかたはないと思うわ」
「たかがペットでしょう」
 御者が最後に呟いた独り言に聞こえなかったふりをした。
 シメールが隠れた庭園をぼんやりと見つめる。

――『キメラ』がこんなにも愛おしいのは、わたし自身が『キメラ』だから。

 少女の心を反映するかのように負傷した腕はずきずきと痛んだ。
「冷えますから、中へ入りましょう」
「ええ」
――わたしの同胞よ、天国でお幸せに。
 澄みきった静かな夜の星空に祈った。

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