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 時計の針はとっくに予定している帰宅時間を過ぎていた。カーグ・ソーンはため息をつくと、叔父であるピーター・ポルラムの遺品整理を再開した。
 エマは何をやっているのだろう。大切な妹を預けているのだ。心配で心配でたまらない。――だめだ。ちっとも集中できない。あの女、ハンに何かあったら一体どうしてくれるのだろうか。
 青年は頭を抱え込んだ。脳裏に悪びれもせずにたりと笑う、顔中縫い目だらけのエマの顔が浮かんだ。
 危害を加えるかもしれない人物にハンの健康管理を頼らなければならないことがとても悔しい。
 気持ちが落ち着かないので難しい錬金術の書類は後回しにしようか。
 カーグは鍵を使って叔父の机の引き出しを開け、迷いなく一冊の日記帳を取り出した。
 残っている中ではこれが最も古く、七年前のものだった。
 それ以前のものはきっと七年前のあの日に全部燃やしてしまったのだろう。七年前、叔父がハンを養子にした日に。
 ランプの下、カーグは片手で適当にページをつまんでめくっていく。
 この年の日記にもハンの出生の秘密――錬金術――に関する記述は無いようだ。
 叔父の娘が死んだ日を見つけた。
 カーグは頬杖をやめるとそこから慎重に遡っていった。ハンが苛められる日々――知っていたのならどうして何もしなかった? つかむ指を震わせて紙を繰る。日ごとに増していく彼の苦悩。よく分からない詩。落書き。
 そして日記帳の序盤部分に一枚の褪せた白黒写真がはさんであった。
「ふたつの家族……?」
 写真の裏に隠れていた言葉に疑問符が口をついて出た。
 カーグは小首を傾げる。その写真に写っていたのは叔父と妻と娘だけだったからだ。
「もうひとつは僕たち。僕とハン」

『ふたつの家族を纏めるのは困難に思えてくる』
『どちらか一方を選ぶなど私には出来ない』

 七年前に書かれた今は亡き叔父の筆跡に苛立ちを覚える。
 銀糸を耳にかけるとカーグは遡っていたページを逆方向にめくってあの日を探した。
 あの日。叔父ピーターが妻と娘を捨ててハンを養子にした日――。
「いやよ、私。あの化け物に近づくのは。それだけは勘弁して」
 カーグは日記帳を閉じて顔を上げた。
「一人だったら嫌だけど皆でやるから怖くないわよ」
「変な病気うつされたらどうしよう」
 女使用人の話し声が聞こえてくる。
 すぐさま立ち上がり、ドアに向かって歩いていった。
「いつもすぐ治るんだから放っておいてもいいんじゃない?」
 自分たちはピーターの屋敷になめられている。
 カーグはドアを睨み勢いよく開け放った。
「おっと」
「うわっ」
 目の前に急に現れた執事に気が動転してしまった。それは執事も同じだったらしい。心なしか彼はよくない汗をかいているように見えた。
「これは失礼いたしました。カーグさま」
「僕になにか用ですか? ロロットさん。ハンナの悪口が聞こえました。何かあったのですか?」
 ドアから身を乗り出し訝しげに廊下を見回したが、先ほどのささやき声の主たちは見あたらなかった。
 その代わりに普段とは違うざわめきがあった。
「実は先ほどハンお嬢さまが高熱でお倒れになりまして。私どもで担いで部屋までお運びしようとしていたのですが……」
「高熱で倒れたんですか?」
「はい。しかし、お部屋まで担げる者がいないのです。このようなことは初めてですし」
 脇挟んでいた日記帳を思わず落としそうになって再度つかみなおした。その拍子に例の家族写真がひらりと床に落ちた。
 執事は当たり前のごとく屈み、カーグの目の前でそれを拾い上げた。
 白手袋の中の写真に初老の執事は目を細めた。
「懐かしいですね。旦那さまと奥さまとユリエお嬢さま」
「遺品ですから見ないでください」
 カーグは執事から写真を奪い取る。
「それで、“担げる者がいない”? “担ぐ者がいない”の間違いでしょう」
「はい」
 平然とした髭面を見ながらカーグは憤りを必死に抑えていた。身体の中で何かが渦巻き乱れている。
「あなたたちには……この家に仕えているという自覚はないのですか」
「私どもがお仕えしていたのはそのお写真に写っていた方々――ピーターさまとケイト奥さまとユリエお嬢さまで御座いますから」
「僕たちには仕えられないと?」
「半分はそうで御座いましょう。現に“担ぐ者がおりません”」
 癇にさわる執事を追い出したカーグは日記帳を机上に乱雑に置き、叔父の書斎を飛び出して廊下の柵からホールを見下ろした。
 人だかりだ。慌てて大階段を下りていく。
 群がる使用人の中に押し入って中心部に辿り着いたカーグは唖然とした。
 高熱どころか、外套の中はギプスと包帯だらけではないか。
「誰か――ロロット! エマ先生を呼べ!」
「はっ。しかしこの時間はお休みに――」
「叩き起こして連れてこい」
 温和な青年の見たことのない口調と表情に執事は慌てて飛び出していった。
 場の空気が引き締まる。いたわる手で青白い顔の少女から帽子を外すと、カーグはどよめく屋内の使用人に向かって柳眉を逆立てた。
「君、担架を持ってきなさい。男たちは運ぶのを手伝いなさい。慎重に運ばなくてはいけません」
「でも」
――それでもハンには関わりたくない――
 簡単に読めてしまう使用人たちの心の中。
 カーグはもやもやする全てをふり払うかのように声を張り上げた。
「いま化け物だとか何とか言ってる場合じゃないだろ!」
 いつもより高めで抑揚のある声に周囲の雑音はぴたりと止んだ。
 いつの間にか感情を荒げなくなっていたから、みな驚いただろうか。青年は小さく咳ばらいをした。
「カーグさま。担架を持ってまいりました」
 高熱に苦しみぐったりしてしまったハン。両腕のギプスと血の滲む包帯、焦げたスカートの裾が痛々しかった。
 兄はそっと優しく小さな身体を抱きおこした。

 ハンの専属医師エマ・ホールデンは黒い手提げ鞄と革のトランクを初老のポルラム邸執事に持たせ、ペガーズ馬車を降りた。
 夜もすっかり更けた静かな星空の下、薄気味悪い葉の影に光る眼がいくつも見受けられ、不調和な寝息がどこともなく聞こえてくるのだった。
「ホールデン博士。私はもう年ですのでこのように重たい荷物は――」
 執事は間違いに気づき、言いかけた言葉を途中でやめた。
 エマはふり返らず長い垂髪をかきあげた。
「私は起きてるだけで辛いのよ。あんたまだ五十そこらでしょう? 九十二のおばあちゃんになに酷なことさせようとしてんのよ」
「申し訳ございません。見た目がお若いので失念しておりました」
 執事はトランクをふたつ、自分よりも若い御者に持たせた。四十代くらいの御者の男は四苦八苦している。
「ひとつお伺いしても宜しいですか? 何泊なさるおつもりで?」
「さあねー」

 暖炉の灯った温かいけれど悲しい遺品だらけの部屋。
 薄暗い中、ベッドの天蓋はオレンジ色の光を穏やかに零していた。エマは壁にもたれかかるとその中に居るらしき人影に話しかけた。
「具合はどう? カーグ」
 たしかに彼はこの部屋にいると聞いたのに、返事がない。
 カーテンをくぐり入ってみると、ベッドの端に喪服の青年がうつ伏して眠っていた。看病の途中で睡魔に負けてしまったらしい。
 生成り色のベッドの中にはふかふかの枕に埋もれて眠る幼い少女の顔があった。小さな額には濡れタオルが載っている。
「その喪服は誰のために着ているのかしらね、カーグ」
 エマは無垢な青年の寝顔に薄い笑みを浮かべて、柔らかな銀弧を白い指で撫でた。
「美しい兄妹愛だわね」
 眼鏡の奥に冷ややかな瞳を携えて魔女はとろかすように囁いた。

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