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 ピーター・ポルラムの妻ケイトが死んだのは十三歳の誕生日――中人式を迎えてすぐのことだった。
 ポルラム夫妻は一年前にハンよりひとつ年下の一人娘ユリエを亡くしていた。ピーターの家族は妻と娘だけだったので、彼は妻の死によって独りになってしまったのだ。
 これは彼の幸せのための殺害計画だった。
 ハン・ヘリオス・リボルダムは盗んできた重たい猟銃を抱えてピーターの寝室の前に身をひそめた。
 少女の鼓動はどんどん早くなった。
 幸運にもドアには鍵がかかっていなかった。部屋を見張る使用人もいなかった。
 ピーターはやはり殺されることを望んでいるのだろう。
 天国で妻と娘と家族三人で幸せに暮らしたいに決まっている。彼の居場所はそこなのだ。
 か細い腕を震わせて銃を持ち上げ、水平を保つ。そして一歩ずつ前に、前に、進んでいった。
 ピーターはベッドで安らかに眠っているようだ。よかった。このまま苦しまずに天国に行ってほしい。
 薄明かりの中、粗末なネグリジェを着た黒髪の少女は自分を生んだ博士の前でおののいていた。
 銃口が大きくぶれる。
 そのとき金色の視線が急に向けられ、ハンはひるんで一歩後ずさった。銃が重たくて身体がよろけ、思わず尻餅をついてしまう。
「ハン。私を殺したいのか」
 ピーターはサイドテーブルの上のサラマンダー・ランプを指でたたいて灯りをつけた。オレンジ色の光が天蓋のカーテンの中を隅々まで浮かび上がらせた。
 彼は眼鏡を手に取り眼窩にはめる。そして鮮明になった視界で、自分を殺そうとしているちっぽけな子どもを改めて見つめた。
 絶対正義の金の瞳――。
 座ったまま、ハンは動けないでいた。
 たがいに見つめあう博士と『キメラ』。恐ろしい数秒がゆっくりと過ぎた。
「博士、わたしは天国であなたに幸せになってほしいの。天国にはユリエちゃんとケイトママがいるわ。ふたりともあなたを待っているわ」
 消え入りそうな声を振り絞ってピーターに銃口を向けた。
 しかし引き金を引く指に力が入らない。
 焦りといら立ちと、それ以上に恐怖がつのった。
 ピーターは眉間にしわを寄せ、みすぼらしいものを憐れむように見つめた。
「撃ちたいなら撃てばいい。しかし私を撃てばお前は今よりもさらに苛められるぞ、使用人に」
 目をひんむかんばかりに見開き、小さな暗殺者は歯の根が合わなくなった。これから死ぬかもしれないポルラム博士がいやに堂々としていたからだ。
 博士は目の前の“作品”を凶器ごと大きな体で包み込んだ。
「そうと分かっていて、どうしてそのようなことをさせようか」
――化け物なんかを抱きしめて博士は一体何を考えているのだろうか。
「あっだめっ」
 ピーターは緩みかけたハンの腕から猟銃を取り上げた。そして憐れみを浮かべて彼女に銃口を突き返したのだった。
「辛かっただろう。ユリエにもケイトにも苛められ、ふたりが居なくなっても誰かに苛められ……」
「やめて! こわいわ! パパ!」
 ハンは必死に首をふり無茶苦茶に叫び、泣きちらかした。
 真夜中に灯るサラマンダーの温かな光。何も持たない少女にひどく美しい顔をした男は不気味に微笑んだ。
「これから目一杯お前を愛してあげよう」
「やめて! 痛い! そんなこと望んでない!」
 左腕に激痛が走り、銃口からは煙が立ちのぼった。
 天使の歌声が耳に残る――。
 ハン・ヘリオス・ポルラムは息を思いきり吸うと同時に目を開けた。
 どうやら嫌な夢を見てしまったようだ。カーグがピアノを練習する音が聞こえてくる。
 そうか、朝か。
 左腕が痛いのは銃で撃たれたからではなく、錬金炉に入ったからだ。
「だいじょうぶ、ただの夢よ。わたしは二十歳。パパはもうこの世にはいないわ」
 左腕は動かせないが、右手は治ってきたみたいだ。動く。
 しかし力は入らなかったから、枕元に垂れ下がる呼び鈴の紐を鳴らすことはできなかった。
「だれか! わたし起きたわ。カーグ! カーグお兄さま!」
 ここから遠くピアノの部屋に向かって子どもの声で思いっきり叫んだが、反応はなかった。
 ベッドから身動きが取れないハンは、ただ待っていることしかできなかった。しかし希望はある。そのうち使用人が暖炉の石炭でも足しにくるはずだ。
「パパは天国でユリエちゃんとケイトママに会えたのかしら」
 あり余る退屈な時の中で少女はまぶたを閉じた。

 一台のグランドピアノが部屋中を妖精の宴で満たす。エマは壁沿いの椅子に腰かけて無造作に脚を組み、カーグの演奏を聴いた。家庭教師とは思えない素晴らしい腕前である。
 曲が終わるとエマは疎らな手拍子のようなやる気のない拍手をした。
「何ですか?」
 弾き手はいつの間にか部屋に入っている白髪の女性に怪訝な顔をした。
「あんた、そんなに練習して何になるつもり?」
「なにってハンナに教えるためですよ」
 エマは青年の返答に思わずふき出した。
「そーんな高度な曲あの子弾けないわよ」
「僕のです。上手くないと教えられませんから」
 カーグは楽譜本をたたんで適当なところに置くと、黒く艶やかな鍵盤蓋を両の手で閉めた。そこへエマは持ってきた紙をすかさず差し出した。
「これに署名してくれない?」
 青年は眉をひそめて紙切れに目を通す。
「『私はシルゾルト公国のナール進出に反対します。今後一切蒸気機関車には乗りません』……無理ですね。別にどっちに支配されようがナールは植民地のままですし。それに蒸気機関車に乗らないだなんて現代では生きていけませんよ」
「ああ、そう! 分かったわよ! ハンナに署名してもらうから!」
 エマはカーグの手から署名用紙を取り上げると顔をぷいとそむけて部屋を出て行った。
「ちょっと! ハンナはまだ意識が、先生!」
 呼び止めも空しく、扉は勢いを持って閉じた。カーグは前髪のかかる額に長い指を添え、ため息をついた。

「先生が代筆して、わたしがここに血判を押せばよいのね?」
「そうよー。助かるわさ、あんたが署名に参加してくれて」
「ペガーズのためですもの。蒸気機関車に乗れないくらい大したことないわ」
「ハンナ!」
 エマの計画が成就しようとしたそのとき、部屋のドアは開かれた。
「カーグ」
 大好きな兄の顔を見たハンはやつれ顔で笑みを作った。カーグはすぐさまベッドの上に駆け寄った。
「わたし五日も寝ていたらしいわね。なにか飲みたいわ」
「あっ私は紅茶にジャム入れてー」
「先生は駄目です。ハンナ、何が飲みたいですか? 病み上がりなので、白湯を持ってきましょうか」
 エマを冷ややかな目で一瞥した後、百八十度態度を変えてカーグは横たわる妹に柔らかく微笑んだ。そしてふっとそこから目を落とすとエメラルドの瞳を丸くした。
「ハンナ、その右手……」
 言われてハンは包帯だらけのそれを見た。
「先生がね、右はもう治っているかもって教えてくれたのよ。まだ完全ではないけれど少し動かせるわ」
「よかった。本当によかった」
 カーグはハンの右手をそっと包み込み、目を潤ませて安堵している。
 ハンは眉間にしわをよせ胸を締めつけた。
「ありがとう……お兄さま」
「いいんですよ。そんな顔しないで下さい。白湯を持ってきますね」
 カーグが部屋から出ていくと、ハンはそばにいるエマに聞こえるか聞こえないかの声でか細くつぶやいた。
「わたしカーグを殺すかもしれないわ」
「ん? なあに? ごめん、耳が遠くて」
「使用人がそう言っていたもの」
「使用人が何だって?」
 あお向けの少女は充血した瞳で白衣の錬金術師を見た。
「カーグはわたしの――化けものの世話をすることは……ないと思うの」
 さびしそうな顔をする少女の頬を冷たい両手が優しく包んだ。
 カーグが白湯と一緒に持ってきた新聞の一面には、予測していた事件が載っていた。
「ザックさん、わたしが眠っているあいだに所長に就任したのね!」
 ハンが読んだことを確認するとカーグは新聞を下げて畳んだ。
「宿題、覚えていますか? 君が出かけるまえに僕が出した」
「ええ。でももう少し考えさせて。ザックさんが所長になったでしょう」
「そうですか? ザキルカさんはあまり関係ないと思いますけど。まあいいです。疲れているでしょうし、ゆっくり考えて下さい」
「結論は大体出ているわ。でもまだ迷っているの」
「分かりました」
 小首を傾げながら悩ましげに口角を上げるハンに、カーグはいつもと変わらない温い微笑みで答えた。

 三日後、物が普通に食べられるようになったハンはギプスを装着して晩餐の席につくことになった。
 三人の侍女に助けられて入浴を終えた彼女を待っていたのはエマだった。
「先生」
 少女は目の前の女性を上から下から食い入るように見た。
 腰より長い垂髪はきちんと結われ、縦に巻いた髪が首筋をつたっていた。流行のドレスの腰はコルセットで絞められ、スカートの丈は足首を隠している。
 痛々しい手術痕さえなかったら、だれがどう見ても着飾ったブリンガルの淑女であった。
「とてもきれいだわ」
「久しぶりのディナーでしょ? 私もハンナのためにこの国の正装をしようと思ってねー」
「ありがとう、先生」
「さ、あんたもドレスに着替えるのよ」
 繊細なレースのたっぷり入ったナイトガウン姿でハンはゆっくりうなづいた。侍女の手を借りて化粧台に座る。
「先生、パパの車椅子に座らないで」
 先刻からずっと感じていた不満を口に出すと、エマは「ごめん」と言ってその場を離れた。
「あんまり座り心地良かったから、ついね」
「ええ。でもパパの大切な遺品だからだめよ」
「遺品ねえ……」
 今は亡きピーターと妻とその娘の面影を残すハンの部屋を見回してエマは苦い笑みを浮かべた。
 ハンは鏡に映る自身の黄色い瞳をじっと見つめていた。
「お嬢さま、今夜のドレスはいかが致しましょうか」
 そばの侍女が気まずそうに話しかける。その後ろの侍女にいたってはハンから目を背けてしまっている。
「ユリエちゃんの喪服を着るわ。彼女の部屋から適当に見つくろってください」
「かしこまりました。すぐお持ちいたします」
 侍女は丁寧なお辞儀をしたが表情はどこかひきつっていた。
 彼女らが部屋を出て行くと、ハンとエマはふたりきりになった。エマはすかさず切り出す。
「ねえ、あんたこの屋敷にいて楽しいの? 私は滞在八日目にして疲れたわ」
 ふたたびハンは鏡の中の幼い顔を見る。――ほくろひとつない顔。
「……楽しいわけがないでしょう。カーグと遺品がなかったらわたし死んでいるわ」
 少女は抑揚をつけず淡々と言葉を紡いだ。そして目を伏せた。
「なんだ分かってるじゃない。あんたもカーグも、使用人に見捨てられてるのよ」
「やめて。本当のこと……だけど言わないで」
 華美に飾られたナイトガウンにサンダル、香りのよい入浴剤、曇りのない鏡、そして侍女。里子時代には手の届かなかったものを今、自分は手にしている。
 しかし上辺だけだ。
 やはり自分は生まれながらの淑女にはなれない。なれなかった。
 カーグが必死に自分を淑女にしようとしてくれたから、ここまでずるずるとやってきたのだ。
 彼には悪いことをした、本当に。
「ごめんなさい、カーグ」
 少女はひとりごちた。鏡に映るのは張りぼての淑女なのだ。

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