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 着付けをしているのはハンがピーターの養子になる前からこの屋敷にいる女だ。今は亡き彼の妻が連れてきた使用人であった。
 ふてぶてしい顔をして、侍女は黙々とハンを飾っていく。それが仕事だから。仕事でなければきっと近寄りたくもないのだろう、こんな化け物。
「お嬢さま。御髪はどうなさいますか?」
「そうね。今日は結いあげてください」
 もう一人の侍女は手持無沙汰らしく、エマとおしゃべりをしていた。仕事そっちのけで何やら楽しそうだ。話の内容はよく聞こえないがふたりはかなり盛り上がっていた。
 ハンの肩につく細い黒髪が美しく編み込まれていく。髪を結い上げると気持ちがしゃんとした。
「あらあらーユリエお嬢さまのお洋服がぴったりじゃないの!」
 陽気なエマの声がこちらに飛んできた。
「ユリエちゃんが九歳のときの服よ、たしか。わたし小柄だから着ることができてよかったわ」
「その髪形いいじゃない。お下げなんかより断然大人に見えるわよ」
「今日だけよ。わたし見ためは子どもだから明日からまたお下げにするわ」
「そう。ところでハンナ、身支度はこれで終わり?」
 エマに訊ねられた着付け状況をハンはそのまま老練の侍女に問うた。
「耳飾りと髪飾りをつけたら終わりですよ、お嬢さま。オリアーヌ、喪服用の装飾品を取ってきて」
「はーい。ジョゼットさん」
 油を売っていたオリアーヌはのんびりした声でそう返事すると、装飾品を取りに部屋を出て行った。
 話し相手のいなくなったエマはそろそろとハンの座る化粧台に近づいた。
「ねえ貴方。オリアーヌから聞いたんだけどね」
 突然話を振られた侍女ジョゼットはまばたきをした。
「何でしょう、ホールデン博士」
 ジョゼットはしかめっ面で、侍女とは特に接点のない錬金術師エマ・ホールデンを見る。関わり合いになりたくないらしかった。
 エマはハンをちらりと見てからジョゼットに口角を上げた。
「貴方なら知ってるんじゃない? ピーターが死んで使用人が減ったでしょ?」
「そうな……の? ジョゼットさん?」
 わなわなと震えはじめたお嬢さまと不気味に微笑する継ぎ接ぎ女を交互に見て、侍女は観念したように目を伏した。
「それは真実ですよ、お嬢さま。ええ、博士。おっしゃる通りかなり辞めていきましたわ」
「かなり……やめた……」
 なんとか言葉を繰り返すとハンは口もとを両手で覆った。月の瞳に涙がためられる。
「へえ、何人くらい?」
 ハンの気も知らないでエマは興味津々に質問を続けた。
「さあ。詳しいことは判りませんが。旦那さまが亡くなってから毎日のように辞めていってますからね」
「半月だから相当な数だわね! まだまだ辞めていきそうねー。ねえハンナ」
 ハンは返事の代わりに涙をこぼして首をふった。
「私はハンナに意地悪したいわけじゃないのよ? 事実を知ってほしいんだわさ」
 少女は何度もうなづく。そのたびに水滴がぽたぽたと落ちた。侍女が事務的にハンカチで顔を拭くので余計に涙が零れた。
「涙を乗り越えて強くなりなさい、ハンナ。この屋敷の実態が分かったでしょう」
 顔がほてり、息がうまくできない。苦しい。侍女が心配してベッドに寝かせようとしたが、シルクの手で断った。
 薄笑いを浮かべるエマは……残酷だ。
 耐えきれなくなりハンは椅子から立ち上がった。そしてそのまま駆け出していった。
「お嬢さま! まだお仕上げが!」
 侍女の言葉では立ち止まれない。ギプスで固定された左腕を抱えてハンは部屋を飛び出した。
 廊下を駆け抜ける。途中ですれ違った従僕もいずれ辞める予定なのだろうか。
 分かっていた。彼らは化け物が怖いから辞めていく、解っている。
 薄暗いので途中でつまずいて転んでしまった。しかし誰も来ない。気付けるほど人はこの屋敷にいないのだ。片手で何とか起き上がるとまた走る。廊下の灯りはところどころ消えていた。そこまで手が回らないのだ。人がいないから。
 ハンは髪をふり乱して階段を駆け下りた。そして行き着いた場所は、養父ピーターの大きな肖像画の前だった。
 少女は白衣姿の男に向かって叫んだ。
「パパ! なぜわたしは化けものなの? わたし……化けものなのよ? どうしてわたしを作ったの? わたし化けものなのよ!」
 嗚咽を漏らしながら画に額をつける。擦りつける。大きな肖像画がほんの少しだけ濡れた。
「わたし……化けものなんかに生まれたくなかった」
 頭と左肩で画にもたれかかるとそのまま下に崩れ落ちた。
 ギプスと喪服と止まらない涙、冷たい床に寝転がる自分――なんて無様でちっぽけな存在だろうか。このまま消え入ってはくれないだろうか、立派な養父の肖像画の前で。
「わたしを、勝手に生んで勝手に……死なないでよ。わたしを……置いて……いかないでよ。わたしを連れていってよ……パパ……」
 ハンは天を見上げた。サラマンダーが強く眩しく輝くシャンデリアは自分を照らしているのではない。養父を照らしているのだ。床に敷かれた赤じゅうたんも同じ。
 ここは自分のための――化け物のための屋敷ではないのだ。
 少女はうずくまり、まぶたを閉じた。

 正装の燕尾服を着たカーグ・ソーンは横に長い食卓の上に頬杖をついた。
 柱時計の長針は晩餐会の予定時刻から半周進んでいた。ハンの身支度が終わっていないらしい。自分はドレスを着たことがないから分からないが、左腕が不自由な分大変なのだろう。
 目の前にはろうそくの光に照らされて輝く純銀の燭台と趣味のよい花々が絢爛に置かれていた。
 しばらくして両開きの扉が大きく開かれる音がすると、カーグは期待に満ち満ちた目でその方を見やった。
 立派なシャンデリアの下、黒いドレスを着た結い髪のハンがエマに支えられてこちらに歩いてくる。
 微笑みかけるとハンは柔らかく微笑み返した。
 それはとなりにいる形だけの淑女とは違う。真の淑女の仕草である。
 カーグは立ち上がり、揃えた白手袋の指で小さな淑女を席に案内した。
「遅れてしまってごめんなさい。お兄さま」
 落ち着いた声でハンはカーグに会釈をする。そして彼女は燕尾服の使用人がひいた椅子にしずしずと腰かけた。
 真正面には普段より幾分かましな格好をしたエマが座っているが気にしないことにした。
 待ちに待ったハンのいる晩餐会。となりに座る妹はテーブルクロスを飾るどの花よりも可憐だった。
「もう私お腹ぺこぺこよー」
「先生もごめんなさいね」
「謝ることはないのですよ、ハンナ。その人は勝手に晩餐会に出席している招かれざる客なのですから」
 場を乱すエマのよく伸びる声はカーグの癇にさわった。エマさえいなければ品のよい晩餐会になっていたはずなのだ。
「あらー冷たいわね、カーグ」
「そうよ、お兄さま。せっかくの晩餐会なのよ。けんかをしてしまっては台なしでしょう。エマ先生はお客さまなのよ」
「……申し訳ございません」
 ハンの言動はたしかに正論だったので、カーグはエマを渋々受け入れるしかなかった。
「フォワグラのテリーヌです」
「まあ、おいしそう! ――先生、パンでとって食べるのではないわよ。こうやってパンにのせて……」
 ハンがエマに前菜の食べ方を教えている。その光景に目を細め、カーグはワイングラスに口をつけた。
「ハンナのとなりに座るのは久しぶりですね」
「そうね。いつも向かいあわせだったわよね。……ほんとうに死んでしまったのね」
 ハンはさびしそうに下を向いた。白く細い首筋が露わになっているためか、彼女のその仕草はいつにも増して儚げに見えた。
「すみません、ハンナ。忘れて下さい」
「ええ」
「そして前に進みましょう」
 淡い瞳でハンはこくりとうなづいた。
 デザートはハンの大好きなアイスクリームであったが、彼女は眉をしかめながら黙っていた。顔からは笑みが消えていた。
「どうしたのですか、ハンナ」
「あのね、あの……」
「早く言ってしまいなさいよー」
「せ、先生はだまってて! あのね。お兄さま。いいえ、カーグ」
 エマが途中で口をはさみ、ハンはわざと自分への呼び方を言い直した。
 嫌な予感がした。ハンは今、二十年間共に過ごしてきた自分に対して妙に緊張しているのだ。
「宿題の話ですよね?」
「ええ。ええ、そうよ」
 青年は小首をかしげた。ハンはエマと打ち合わせたらしい告白をなかなか口に出せないでいるようだ。
「このお屋敷の将来についてですよね?」
 確認するようにハンに訊いた。しかし彼女はそこで押し黙ってしまった。
 カーグは首をゆさぶり、指を額にそえた。
「僕の言いかたが遠回しすぎたのですね。僕はあなたにお父さまのあとを継いでいただきたいと言いたかったのです。それが宿題でした」
 少女は黄色い瞳を大きく見開いた。
「わたしがあるじだなんて……そんな……考えもしなかった」
「ではいったい何を考えていたのですか? 僕に何を伝えようとしているのですか? 怒りませんからはっきりと言って下さい」
「アイスクリーム溶けちゃうわよー?」
「うるさい」
「だまってて。先生」
 カーグはハンを責めるように見つめ、ハンは重い口をなかなか開けずにいた。
 ふたりの長い沈黙の中でエマは自分のアイスクリームをぺろりと平らげていた。
 妹はようやく切り出す。
「カーグ。わたしはあるじにはならないわ。だって……わたし……このお屋敷を出ていくのだもの。け、研究所に住むのよ」
「研究所?」
 カーグはエマの方をきっと睨んだ。
「ハンナに何を吹き込んだんですか?」
「ちがうのよ、カーグ! 自分で決めたのよ! ザキルカ所長になったでしょう? だから研究所は安全なところなのよ」
 脳内が一瞬真っ白になった。
 冷静に対応する準備をしていたがとてもそのようにはなれない。頭に血がのぼる。
「僕よりザキルカさんをとるんですか!」
「ええ! そうよ!」
「まさかここでザキルカが出てくるとは……」
 カーグは頭を深く抱え込んだ。エマが上手く言いくるめたに違いない。
「本気……ですか? ザキルカさんがあなたを四六時中見てくれますか? 研究所はそんなに居心地いいところですか? 自分が被験者だと――化け物だと感じずにはいられないところでしょう」
「それは……」
 言ってはいけない言葉を使ってしまったが、その言葉によってハンは見事に戸惑ってしまった。
 このまま思い直してくれればいいとカーグは必死に念じた。
 しかし、沈黙は長く続かなかった。

「わたし、化けものとして生きていくと決めたの」

 顔を上げたハンに迷いは一切感じられなかった。

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