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 事を長引かせたくはなかった。長引けば決心が揺らいでしまう。
 ハン・ヘリオス・ポルラムは今、人生の岐路に立っていた。それは二十年間共に過ごした兄との別離であった。
 彼のためにも成功させなければならない。
「僕は……どうしたらいいんですか?」
「あなたには温かい家族がいるじゃない。お葬式の日、ツカサおじいさまはあなたを連れもどしにきたのよ」
 兄の真っ直ぐな瞳から視線を外し、ハンは説得を続けた。
 教師でもある彼に弁論で勝てるとは到底思えないのだが、ここで引くわけにはいかなかった。
「わたし、あの手紙を読んだのよ」
「手紙?」
 ハンはカーグの戸惑っているであろう表情を確認せずに、エマに向かって催促の合図を手で送った。
 エマは待っていましたとばかりに満面の笑みでうなづいた。コルセットで寄せ上げた胸の谷間から小封筒を引っ張り出して中身を広げ、カーグの目前に突き付ける。
 これは切り札のひとつだ。中にはツカサが後妻の孫カーグの近況を気にしている内容が含まれていた。
「勝手に人の手紙を読んだことはここでは置いておきましょう。それで僕に実家に帰れと? 何度も言っているでしょう。僕はここで育ちました。今更あそこには馴染めませんし、ともかく、あの人は好きになれません」
「ツカサおじいさまはあなたには優しいわ。あなたに化けもののわたしと離れて、一緒にくらしてほしいのよ」
「ハンナ。人が嫌がることを無理強いするのは淑女ではありません」
「わたしは化けものよ! 淑女ではないわ」
 互いにため息をついた。このままではらちが明かない。どうして分かってくれないのか――同じことをきっと相手も考えているだろう。
 カーグは片肘をついてくしゃくしゃの頭を抱え込んだ。
 早く、早く何かを言わなければ彼に反論されてしまう。焦ったハンは懇願の眼差しをエマに向けた。
「先生はハンナに何を吹き込んだんですか? 彼女の言動がおかしくなったのはあなたのせいですよね?」
 エマよりもさきにカーグが突っかかった。エマはすまし顔でゆっくりと首をふった。
「私はただ事実をこの子に教えてあげただけよ。中の使用人がどんどん辞めてってるんですってねーえ」
「また新しく雇えばいい話です」
「十年以内に三人の人間が死んだ。そしてその容疑はハンナにかかっているわ。そんないわくつきの屋敷にどうやって?」
 カーグは口ごもった。数秒、視線が定まらなくなった。
 しかし再び目に強い光を宿らせて、壁の前で待機する十余人の給仕に全員部屋から出ていくよう命じた。
 広い食堂には三人とティーセット、そして溶けかけたアイスクリームだけが残った。
「給金をもっと上げましょう」
「カーグ!」
 カーグの提案が現実的でないのは彼自身も知っているだろう。
 もうピーターが生きていたころのように屋敷で暮らしていくのは無理なのだ。
 ハンは自分を見つめる兄に向かって眉をゆがめて首をふった。
「わたしが研究所に住み、カーグが実家へ帰るのが一番よいのよ」
「そうよー。その方が私も楽だし、無駄な出費も抑えられるわ。この屋敷はピーターの資産だけで維持してるんじゃないのよ。『キメラ』の庭は研究所のお金で――」
「働きます! 維持費は僕がどうにかします」
「やめて! カーグ!」
 ハンの脳裏に不安がよぎった。カーグの『どうにかする』の言葉に底がないことを知っていたからだ。
「そうそう。言っとくけど家庭教師の給金じゃーとても無理よ」
 違う。
「先生も部屋からでていって。ふたりきりで話したいの。せっかくの晩餐会がこのようなことになってしまって申しわけないのだけれど」
「そう。いい返事を待っているわよ、ハンナ」
 仰々しく目を細めてエマは立ち上がると、慣れないフルレングスの裾をひきずりながら両開きのドアにむかって歩いていった。
 ふたりきりになった部屋でハンは椅子を横に向けて座り直した。姿勢を正して目前のカーグをまっすぐ見つめる。
「カーグ。わたしは化けものなのよ? ずっとわたしといるから麻痺しているのよ」
 突いた頬杖から頬を離し、カーグは呆れ顔でハンに向かった。
「まだそのようなことを言っているのですか」
「わたしは目が覚めただけよ!」
 胸に手をあてて身を乗りだした。カーグの顔が近くなる。こんなに優しい兄なのにどうして別れようとしているのか一瞬わからなくなってしまったが、また思い出した。
 優しいからだ。
「わたしはね、カーグ。あなたを殺してしまうかもしれないわ」
「どうして?」
「耐えられないからよ。ユリエちゃんのときもそう。ユリエちゃんは本当はわたしが殺し――」
 急に繊手が伸びてきてハンの口を押し塞いだ。それは息が出来ないほどに強く鼻口を圧迫した。
「ユリエ・ポルラムは川で頭を打って死にました。それは周知の事実です。忘れたのですか?」
 抑揚のない声に、ハンは顔を真っ赤にしながら首を縦にふった。押し付けられた手から解放されると、空気を一気に吸い込んだ。
「念のために言っておきますと、ケイト・ポルラムは病死です。そしてピーター・ポルラムは先日事故で死にましたが、当時精神を患っていましたから自殺だと考えてもよいでしょう。ですから」
「わたしとカーグは三人の死とは一切関係ない」
「そうです」
 最後の切り札までカーグのペースに変えられてしまった。
 どう言えばカーグが自分と別れてくれるのか思いつかず、ハンは口もとにシルクの手を添えてうつむいた。
 なにも言えなくなってしまった。
 瞳がゆらぎ視界が曖昧になる。
「でも、わたしたち離れたほうがよいと思うの……。だって……いいえ、あなたを守るためなの化けものから」
 カーグが納得する言葉なんてもう出てこない。
 目頭が熱くなる。――めちゃくちゃだ。
「泣かないで下さい。そこまであなたが思い詰めていたとは知りませんでした。分かりました……別れましょう」
 弁論で理性的に決着をつけたかったのに、涙は勝手にこぼれてしまうのだった。
 そんな自分がくやしかった。
「今から諸々の整理をして今月の二十二日までには出ていきます」
「待って! 二十三日まで、いて」
「誕生日なんて祝われたら別れづらくなるでしょう。だからその前に出ていきます」
 カーグは目前で速やかに立ち上がると椅子をテーブルに入れた。
 ハンは急いで兄を引きとめる。
「アイスクリームは? 食べていかないの? せめてお茶でも飲んでいったら」
 首をふる青年のその表情を自分はよく知らない。
 彼は愛想笑いもせずに静かに食堂を出ていった。隣がぽっかり空き、そこには隙間風が吹いた。
 一人、テーブルに突っ伏した。
 本当にこれで良かったのだろうか。
 縦横に広い食堂に、自身のすすり泣く声だけがむなしく響いていた。

「ずっと聞いていたんですね」
 食堂を出てすぐのところでカーグは壁によりかかるエマを見つけた。彼女は目じりを下げて上機嫌に言った。
「えらい簡単に引き下がるのねー涙に弱いの?」
「押しても駄目なようでしたので、引いてみただけです。勘違いしないで下さいね、先生。ハンナが研究所に住めるわけがないでしょう」
 カーグは表情を失ったままエマのもとを去った。なびく燕尾服の裾をエマはずっと見つめていた。

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