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「紅茶を飲みにきませんか」
 ハンは一階の隅にひっそりとたたずむ個室の前にやってきた。
 正面玄関からは死角となるここは使用人の通り道になっている。辿り着くまでの間に家女中と鉢合わせること四回。掃除用具を持った女たちは自分を見つけると隠れるように逃げていくか、苦虫を噛み潰したような顔をあからさまにこちらに見せる。ハンはそのたびに下を向いた。
 日当たりが悪い上に暖房設備も無いため、木の葉の舞うこの時期に突っ立っているのは耐えられない。ドアの前でしばらくためらっていたが、一刻も早く使用人の目と寒さから逃れたくてハンは木製のドアをノックした。
「どうぞ」
 ノブをそっとひねりドアの隙間から顔をのぞかせると、壁一面の棚の前で兄は大好きな紅茶の香りをかいでいた。
 ハンは吸い込まれるように室内に足を踏み入れた。
 この部屋の棚には紅茶店かと見まごうほどに色とりどりの缶が所狭しと並べられている。
 ここで紅茶を飲むのは日常のティータイムとは意味が違っていた。ここは談笑しながら菓子とともに誰が淹れたのかも分からぬ茶を楽しむ場ではない。カーグの手で淹れられた茶そのものを味わう特別な場だった。
 ハンの背筋は自然と伸びていた。
「わたしをこの部屋に招いてくれてありがとう。おに……カーグ、何年ぶりかしら」
 うっかり『お兄さま』と言いそうになったハンに、カーグは思わずくすりと笑んだ。
「ここでは緊張しなくていいんですよ、ハンナ」
 右手でギプスを弄りながらハンははにかんで頷く。
 薄暗くこじんまりとしているカーグ専用の茶室。彼の好きなもので満たされているこの空間はハンにとっても居心地よく感じられた。
 もしこの部屋が世界の全てであったならカーグは幸せでいられただろうか――。
 何者にも邪魔をされず安らげる場所がカーグにはあったのに……やっぱり自分のせいだ。
 うつむいて瞳に影を落とした少女の頭を温かな手がなぐさめる。
「せっかくなので一番高価なティーセットでお茶を飲みましょう」
 見上げると横に広がるエメラルド色の瞳。最後まで優しい兄だ。
 ハンは妹らしく甘えるように頷いた。
 空き缶コレクションを見ながら足をぶらぶらさせて紅茶を待った。
 時折小さな窓から冷たい風が吹き抜けるが、不快には思わなかった。カーグの淹れるとっておきの一杯が待っているから冬の寒さなど全く気にならなかった。
 ただ、いずれ過去になるこの時間に、刻々と迫る別れのときに恐怖を感じていた。
「もうじきカーグとおいしい紅茶をいただけなくなるのね」
「何です? 心変わりしましたか?」
 ふと零れた寂しさにすかさずカーグは引きとめの言葉をかける。本当はそうしたい。別れたくない。
 少女は誘惑を払うように首をふった。
「いいえ」
 青年は何も言わずにティーポットの湯を捨てた。
 紅茶の準備をするカーグの後ろ姿を目に焼き付けるように見つめた。砂時計を置き、抽出時間を確認するカーグ。まくった袖から覗くしなやかな前腕。絶対に忘れたくない。
 ハンはひじを突いた右手の甲にあごを押し付けた。
 そのあいだ交わした言葉はなかったが兄妹はずっと互いを意識していた。
 間もなくして繊細な花模様が鮮やかに描かれたティーカップとソーサーが一客、ハンの前に差し出された。
「まあ……きれい」
「綺麗でしょう。これは公爵家御用達のティーセットの中でもかなり上等なものです。でも、あいにく一客しか残っていないんです。僕は別のティーカップでいただきますね」
 ハンのものとは異なる一客をカーグは木造りの机上に置いた。
「なぜ一客しかないティーカップを選んだの?」
「あなたにはこの一番高価なティーセットで飲んでいただきたいのです。どうしても。僕は――あなたは淑女であるべきだと信じていますから」
 砂時計の砂がすべて落ちたのを確認すると、カーグはティーポットを持ってきて二客の異なるデザインのカップに丁寧にそそいだ。
 香ばしく甘い香りが鼻をくすぐる。
「叔父が口をつけたカップは全部割りました。だから一客しかないんです」
 流れ落ちる琥珀色の液体から視線を上に移した。白く実体の掴めない湯気の中、伏す顔に落ちる影は一層深く感じられた。
「ごめんなさい」
「僕も苦しかった」
 ハンは目を見張り息を止めた。
 低く重たい声に兄の顔を直視できなくて、紅茶に視線を戻す。
「ごめんなさい」
 ギプスを抱きかかえてもう一度許しを請うた。
「謝らないでください。悪いのはあの男です」
「ちがうわ。パパは……もうどうしようもなかったのよ」
 向かいに座ったカーグはハンの前に砂糖入れを置いた。
 砂糖ばさみでそれの中から角砂糖を一個取り出し紅茶の中に落とす。
 赤い湯の中に沈んだ砂糖は角を失い転がされ、その後じわじわ溶けていくしかなかった。
「僕だってどうしようもなくなっていました。でもあの男は死んだ」
「ころした……の?」
「いいえ。でも死ねばいいとずっと思っていました。ずっと……ずっと……ふたりで安心して暮らせる日を望んでいました。やっとその日が来たのに――」
「いい加減にして! 化けものがお屋敷で暮らしていくなんて無理なのよ」
 四個めを落とすと砂糖入れをカーグの方へやった。
「何人死んでもわたしが化けものである事実は変わらないわ」
「あなたは逃げているんだ。正しくないことを認めて、屈してしまった弱い人間だ」
 ハンは黙りこみ、紅茶を飲むことだけに専念した。涙をこぼさないように紅茶の香りを嗅ぎ、普段の紅茶よりどこが格段上なのかを探った。
 しかしカーグの言葉が頭の中で延々と繰り返し自分をとがめた。
 この高級紅茶は味わえば美味しい紅茶なのだろう。けれどいつもより早く流しこんでしまったので実際のところはよく分からなかった。
 ハンはティーカップを置いて立ちあがると後ろを向いた。
「それは叶わない夢なのよ、カーグ。……さようなら。はやく出ていって」
 ドアを開けて部屋から――カーグから逃げる。荒く乱れる心臓の音を聞きながら、ハンは左腕を抱きかかえて階段を駆け上がった。

 写真の中のピーター・ポルラムは身なりが良く、整った顔に威厳の感じられる理想の養父だ。シルクハットをかぶって杖を携える養父の隣には清楚で淑やかな妻が、ふたりの間には養父と同じ金髪の癖毛を持った愛らしい少女が座っていた。
 ハンは三人の家族写真が大好きだが、それを話すとカーグは激怒した。彼らに除け者にされ弾かれていることを悔しく思わないのかと。
 全く思わないと言えば嘘になるが、そんな風に考えることはとてもできなかった。
 物心ついたころには彼らは三人でひとつの家庭を築いていたし、ハンにはちゃんとカーグという家族がいた。わざわざ世界の違うピーターの娘にならなくても、自分のそばには自分を愛してくれる兄がいる――じゅうぶんだった。
 どうしても超えられない壁がある。奴隷が公爵になれないように、『キメラ』は絶対に人間にはなれない。
 夢を見れば傷つくだけなのにカーグはわざわざ傷つく夢を見ている。
「こちらでございます」
「ありがとね、ロロット」
 室外から聞こえてきた声に少女は慌ててアルバムを閉じた。エマ先生が来る。
「ハンナ!」
 エマはノックもこちらの許可もなしに養父の書斎のドアを勢いよく開いた。
 机に向かうハンの脇へとやってくる。
「先生。どうしたの?」
 溢れんばかりに幸せといった顔にハンは何気なくたずねた。
「カーグのね、次の職場が決まったのよ」
「そう、よかったわ」
 上機嫌な声に口角を上げて微笑むとため息をついた。
「どうしたのよ」
「こんなに早く決まるなんて」
 あれからカーグは出ていく準備を着々と進め、順調にことの終わりを迎えようとしていた。
「明日の朝出ていくらしいわ」
「そんな!」
 首をふって思わず立ち上がる。
「向こうの家が一日でも早く来てほしいんだって」
 責めるようにエマを見るが彼女を責めても仕方がない。ハンは左腕を抱きながら唇を噛んだ。

 当主ピーターを亡くしたばかりのポルラム邸では客人のエマ以外は喪服を着なければならなかった。勿論これから出ていく人間にそのような義務はない。二週間ぶりに色のついた外出着に身を包んだカーグは最後の紅茶をすすった。
「あのっ」
 鉄柱とガラスでできた緑の生い茂る温室の中でハンは足元に置いていたものを取り出した。
 青い薔薇が一輪入ったガラス容器だ。花は光をふんだんに浴びて生き生きと咲いていた。
「この『エリザベス』をお守りに持っていって。これは水をやらなくてよいのよ」
 カーグは革の手でそっと容器に触れた。
「ユリエちゃんの部屋で見つけたのよ。お日さまにあてるだけで、とくに世話をしなくてもよいの! いそがしいカーグにぴったりでしょ。ね。持っていって」
 シルクハットのつば下からぬるりと碧い目がその存在を表し、鋭くハンをとらえた。
「要りません」
 突然の否定にハンは瞳を大きく揺らして胸をざわめかせた。
「どうして? 『エリザベス』は幸せのばらなのよ?」
「幸せの薔薇ですって? 違いますよ。その薔薇は『エリザベス』――ピーターの母親の名前です。あの男の欲望の薔薇だ」
 カーグはガラス容器から手を放すとハンには決して向けることのない冷ややかな目で薔薇を見た。
「パパを……許してあげて、カーグ」
 青年は嘲るように口角を上げた。
「ハンナ。あの男は最期にあなたに何て言いました」
 兄を見上げてハンは重たい唇を開き、震える声で答えた。

「エリザベス」

 歩けなくなったころから養父は自分の名前をよく間違えていた。それは養父ではなく阿片が言わせているものだと、阿片が生んだ言葉だと、そう思い込むようにしていた。
「ツカサが言ったでしょう。“化け物”だと。それはあなたがエリザベスにあまりにも似ていたからです。エリザベス――死んだ彼の妻、ピーターの母親に」
「なにが……カーグ、なにが言いたいの?」
 泣きそうな声で訴えるようにハンは問いかけた。
 なんと非情ないとこだろう。小さな握りこぶしを震わせた。
「ピーター・ポルラムはしょせん研究者です。研究者にとってあなたは検体なんです。人ですらない。そこの、エマ先生だってそうですよ」
 頭が真っ白になった。乾いた氷の眼を放られたエマはそれに否定することなく頷いた。
「ですから。研究所に住むだなんて馬鹿な真似はおやめなさい!」
 反射的に少女は身を引いていた。目の前で鉄のテーブルを叩きつけた両手があったからだ。
 立っているカーグを見上げ、身を隠すようにエマに寄り添った。
「何がおかしいのですか?」
 ハンを抱きながら面白がるように含み笑うエマをカーグは睨みつけた。
「どんなに必死に頑張っても結局は空回りに終わるのよ、あんたって子は。可哀想ね。見なさいよ、ハンナが怖がっているでしょう」
「ハンナ……どうしてつらい方に行くのですか? 研究所なんかに……行かないでください。僕は……あなたに……人として生きてほしいのに。そのための二十年でしょう?」
「どうしてそこまで信じているの……? わたしが人になれるとでも? なにを根拠に?」
 ハンはエマにしがみついたまま涙をためてエマと一緒にカーグを見た。
 彼はこの矮小な『キメラ』に期待を託しすぎなのだ。
「わたしはずっとおとなにならないわ」
「分かりました。約束の時間なので僕はもう行きます」
 ハンは悲しそうな兄の顔をただ見上げていた。
 テーブルの上に一枚の紙切れが置かれた。彼の新しい住みこみ先の地図だった。
「あなたが望めば僕は急いで帰ってきますから」
 カーグは帽子のつばを上げてハンに柔らかな笑みを向けた。しかし微笑み返すことができなかった。
「さようなら」
 別れの言葉を返すこともできなかった。
 激しく泣いていたからだ。
 紅茶はまだ残っているのにカーグは行ってしまった。
 大切な兄を失ってしまった。

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