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 ベッドの中で濃いめの目覚まし紅茶を飲んでいると、窓をこづく存在に気がついた。三階の窓の手前で翼を動かして滞空しているそれは十中八九伝書鳩だろう。
「ちょっと待っててね」
 小花柄の壁紙になじむクリーム色に塗られた窓枠を下から上に引き上げる。とたん、一羽の鳩が室内に飛び込んできた。それを両手で容易に捕まえると、前足についている小筒から一枚の紙を取り出した。
 広げて目をみはった。それは……自分がツカサに出した手紙だったからだ。
 脱力して手を放すと紙は丸まって床に落ちた。よく見るともう一枚あったようだ。

『手紙不要』

 電報の通信文のような素っ気ない文にハンは落ち込むしかなかった。養父の父と仲良くしようとすることは間違いなのだろうか。ここ数日で自信を無くしていたハンは、ツカサに二度と手紙は出さないと決めた。
 化け物であること、それは変えられない事実なのだから諦めるしかないのだ。
 ハンは朝から深いため息をついた。

「家女中二名に従僕が一名、今日いっぱいで辞める予定です。いつも通り私どもで退職金の手配を致しましたので、お嬢さまはこの紹介状にサインをお願いできますか」
「ダルトワさん。ロロットさんは今月いっぱいでやめてしまうのでしょう? あなたもやめてしまうの?」
 微笑みを貼りつけた家政婦ダルトワは質問には答えずに三枚の紹介状をハンに押し付けた。
「私は忙しいのです。速やかにサインを」
「わ、わかったわ」
 あわてて羽根ペンをインク壷につけた。臨時で女主人のようなことをしているが、周りからは子どもの外見から大人扱いされず、屋敷のことには意見できないでいた。
 家政婦が部屋を出ていくとハンはまたため息をついた。使用人は辞めていくばっかりだ。カーグが辞めてから退職希望者は目に見えて増えていた。
――だれもわたしを必要としていない。
 そう思ってしまうのは自然な流れだった。

 毎朝、カーグの代わりにピアノを弾いた。彼には到底およばないたどたどしい演奏であったが、弾いているとカーグの小言がこちらに飛んでくるような気がした。それに何より、屋敷を離れて研究所に住むという近い未来への不安を紛らわしたかったから弾いた。
 つっかえる。同じところを何度も間違えてしまう自分に苛立ちを覚える。
――化け物……人殺し……――
 ハンは鍵盤に涙を落とした。
――お前は行きずりの娼婦の娘で、私とは縁もゆかりもないのだよ。お前がこの屋敷に住むことをだれが許した? ここは私の屋敷だ――
 演奏の手が止まる。
 だれもかれもが自分を責める。責めつづける。
――あんたは『キメラ』なんだから、疎まれて当然よー。でもね、生きる道がひとつあるのよ。『エリクシール』として奴隷制に貢献しながら生きればいいの。あんたにはそれしかないんだわよ、ハンナ――
「パパ。エマ先生。なぜわたしには感情があるの。つらいわ……つらいわ」
 グランドピアノから重たい不協和音が響いた。

――パパはわたしを愛していたのかしら。
 そこはカーグの茶室――ピーター・ポルラムがカーグのためだけに作った茶室の前だった。
 なんだかんだ言って兄は養父に愛されていたのだ。彼らには確かな血のつながりがあったから。
――わたしはなぜここにいるのかしら。ここはわたしの居場所ではないのに。
「ちょっと。掃除の立ち入りも許さなかったカーグさまの茶室に……」
「しっ」
 聞こえてきた小声にふり返るとだれもいなかった。見当はつく。どうせ自分の存在が気に食わない家女中だ。
 ハンは手の中の鍵を見た。どうしてカーグは部屋の合鍵を自分に渡したのだろう。
 疲れきった頭でいくら考えても答えは出なかった。
 とにかくここは使用人の通り道、とりあえず中に入ってみることにした。内からドアの鍵をかけ、自分を疎む声を遮断する。
 茶室の中は変わらず薄暗くしんみりとしていた。
 すぐ目についた壁一面の棚を飾る色とりどりの紅茶缶。ハンは目を細めた。
――カーグはきっと自分の夢をたくしたのだわ、わたしに。ふたりで和やかなティータイムをすごす夢を。
 胸の高さにあるダージリンの缶を手に取り、ふたを開けた。
「これがカーグの……」
 夢ではない。夢ではなかった。
 息を止めて缶の中身を見つめた。そっとふたを閉めて、目をとじる。
 あたりを見回して人を探した。だれもいない。
 高鳴る鼓動とともに、部屋中の扉を片っ端から開けていった。
 しゃがんで開けた何個目かの扉に息をのむ――。
 想像を超える現実がそこにはあった。
 包帯の両手を胸にあてて、ハンは眉根をよせた。
――僕も苦しかった――
 収納棚からはみ出した管を押し入れて、転げ落ちていたクッションで静かにふたをした。深呼吸をする。途中で見つけた四角い砂糖を一粒口にやり、甘さで自分をなぐさめた。
 すべての扉を閉めて元通りにすると再びあたりを見回した。
 鍵をかけているのだが、だれかがそこにいて見ているような気がしてならない。
 室内にだれもいないことを確認すると、ハンは安堵の胸をなでおろした。
「だいじょうぶよ、カーグ」
 部屋に別れを告げ、鍵穴に鍵を差しこむ。
「わたしの命もあなたとともにあるのよ」
 外からしっかり鍵をかけていると、家女中の視線が背中を刺していた。
「旦那さまとカーグさまの愛の巣にこの化け物め」
 非常に小さな囁き声でよく聞き取れなかったが、ハンにはそう聞こえた。ふり返るとやっぱりだれもいないので、声の主は隠れるのが上手いらしい。
「お兄さまは愛するパパを失って、傷心をいやす旅にでたのよ!」
 姿の見えない家女中に笑顔でそう伝えて、ハンは階上へ駆けていった。

 * * *

 もうすぐナール総督の生誕祭だというのに、ここのところ雨ばかりだ。
 給仕の従僕たちが見守る中、ハンは一人で朝食を食べた。いつもはエマがいるのだが、今朝は具合が悪いらしく客室で食べるそうだ。
 思えば会話のない一人きりの食事は初めてだった。室内には使用人がいるものの、彼らは気が置けない間柄ではない。いつもは美味しいスコーンも今朝はどこか味気なかった。
 研究所に移ったらエマは一緒に食事をしてくれるだろうか。こんな風に、一人で食事をするのだろうか。
 ハンは朝食をただただ口に運んで席を立った。
 耐えきれるはずがないのに研究所に住むなどと、どうして言ってしまったのか。想像するだけで無理だ。
――今日こそエマ先生に言おう。
 窓ガラスを叩く雨音がやわらいだころ、ハンはエマがいる客室のドアをノックした。
「先生。調子はどう?」
 返事はなかった。代わりにうめき声と咳が聞こえてくる。
 あわてて中に入ろうとドアノブを回した。しかし鍵がかかっている。もどかしい。開かないドアのノブを何度も回した。
「開けて! 先生!」
 ドアを激しく叩こうとしたが、直りがけの複雑骨折に激痛が走り、一回の弱い音を起こしただけに終わった。
「先生ーっ!」
 ちからの限り、祈るように声をふり絞った。
――どうして開けてくれない!
 ドアの前でしつこく粘っているとエマはようやく鍵を開けた。
 エマの姿を見てハンは絶句した。想像以上にひどい。
 朝食にはまったく手をつけていないようだ。
 床に置かれた洗面器は真っ赤に染まっていた。エマはその中にふたたび血を吐き出した。
「先生、だいじょうぶ?」
 うずくまるエマの背にそっと手を置いた。口もとを手で拭いながら彼女はハンを見て言った。
「あんたはいいわよね……あんたには……老いの苦しみなんて分からないでしょ。人間じゃないんだからね」
 垂れる白髪越しに水色の眼が冷たく光ると、ハンは後ずさった。荒い息が空間を支配した。
「わかるわよ。くるしいの、わかるわよ」
「分かんないわ。現にその両手、もうすぐじゃない。あんた見てると……人間が馬鹿らしくなる」
 エマはハンから顔を背けると強く咳きこんだ。
「先生!」
「ごめん。今は一人にして。ハンナ」
 ハンは微笑みを作った。
「……わかったわ」
 そっとドアを閉めた。さっきのがエマの自分に対する本音だろう。結局のところ自分は『エリクシール』――不老不死の霊薬――なんかではなく、ただの“化け物”なのだ。頭の中が真っ白になる。
 いつも優しいエマの本性を見てしまうと、自分が何のために生まれてきたのかが分からなくなった。
 解けそうになる視界。意識をなんとか保ちながら、しばらくその場に立ちつくした。
「ハンお嬢さまーっ!」
 エマの部屋をあとにしたハンのもとへ息を切らしながらやってきたのは、今月いっぱいで辞める予定の執事だった。
「あら、ロロットさん」
 少女は彼の緊張など知らない風にのんびり小首をかしげた。
「ザキルカさまがいらっしゃいました」
「まあ、ザックさんね。応接室にお通ししてください。お茶の準備も」
 執事は焦った様子で首をふった。
「すでにお待ちいただいております。お嬢さまに今すぐ喪服で外出できないかとのご伝言でございます」
 ハンは自分の着ているドレスを確認した。
「まだ服喪期間だから喪服に決まっているでしょう」
「ごもっともです。さあ早く応接室へ」
「外出用のドレスに着がえてくるわ」
「あとで侍女を遣わしますから、そのままお行きください!」
 執事に背中を押され、急かされるままハンは早足で廊下を進んだ。
 大階段を下りる前に一度ふり返った。執事ロロットにとって来客のザキルカは仕えるハンより順位が上らしい。それはザキルカが大事な大事なお客さまなのか、はたまた自分が彼にとって化け――。
 ハンは首をふって余計な思考を断ち切った。

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