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 応接室に足を踏み入れると、若い紳士が葉巻きタバコの灰を灰皿に落としていた。
「ザックさん。おまたせしたわね。おひさしぶりね」
 ハンが駆け寄ると、ソファーでくつろいでいた紳士ザキルカはあどけなく微笑んだ。
「お久しぶりです、ハンナさん。このたびはご愁傷さまでした」
 北世界の権力を握る七大貴族の直系ザキルカ・ラズリ=キリミネは雲の上の人だ。たとえ馬から転げ落ちて泥まみれになろうが、露店のジャガイモを買い食いしようが、使用人と馬鹿騒ぎしようが、ザキルカの“貴族の息子”という事実は変わらない。
 その上、ザキルカはこのたびナール研究所の所長になったのだ。最近では新聞の紙面でしかお目にかかれない、ますます手の届かない人になっていた。
 ザキルカとハンは身分違いの友達だった。
「ハンナさん、うちで侍女を貸すからすぐに出られますか? お昼には戻らないといけないので」
 懐中時計で時刻を確認して、ザキルカは言った。
「え、ええ。でも一体どこへ?」
 口もとに包帯の指をそえて、ハンは小首をかしげた。
 青年は立ち上がって、喪章のついたシルクハットを頭に載せる。
「ハンナさん、ピーター師匠の葬式に出ませんでしたよね。だから今から墓参りに行きません?」
 ハンは思いがけない状況に目を丸くした。
 ザキルカは本当に時間が惜しいらしく、気付けばポルラム邸の使用人から受け取ったフロックコートに袖を通していた。
「行くよ! ハンナさん」
「ちょっと待って! ザックさん! わたし行くって言ってない!」
 応接室を早々と去るザキルカを慌てて追った。
 黒檀の杖を小脇に携え早足で歩くザキルカとそれを追いかけるハン。ぴかぴかに磨かれた広い玄関ホールにふたつのせわしい足音が響いた。
「所長!」
 背後からのエマの声にハン一人がふり返った。
「ザキルカ所長!」
 ザキルカはようやく自分が呼ばれていることに気付き、立ち止まってふり返った。
「そっか。俺、所長なんだよな。慣れないなあ」
「……」
 とぼけたような陽気な声が玄関ホールに響いた。
 寝間着に付いた血を隠すようにガウンを羽織ったエマはザキルカを機嫌悪そうに見つめている。自慢の透き通る白い垂髪はぼさぼさだ。
「ハンナを連れて……どちらへ行かれるのですか、所長」
「嫌だなあ、ドリー」
「ホールデン」
 エマは笑みを消して自分の呼び名を訂正した。青年は苦く笑う。
「これからポルラム博士の墓参りに行くんです。堅苦しいから今まで通りザキルカでいいですよ、ホールデン博士」
「そう、分かったわ。言っとくけど私が死ぬまでその子は私の物だから」
「亡くなられた後は? いまのところハンナさんは俺が引き継ぐことになってますよね」
 ザキルカは睨むエマに口角を上げた。ハンは聞いていない情報に戸惑いながらふたりを交互に見た。
「安心して。あんたの出番は無いわ、ザキルカ。死ぬ前に私の意思を完璧に継ぐ研究者を必ず見つけるわさ」
 エマはザキルカに向かって人差し指を突きつける。それを避けるようにザキルカは小首をかしげた。
「やっぱり貴女もポルラム博士を失って苦労してるんですね。同情します」
 微笑みを見せてザキルカはエマに握手を求めたが、差し出された黒革の手はひっぱたかれた。
 殺伐とした空気である。
 エマにふられたザキルカはハンに「ひどいですよね」といった表情を見せた。どちらか一方の肩を持つことはできず、ハンは控えめに苦笑いをした。
「博士も墓参りに行きません?」
「いい。年寄りだから忙しい所長さんの足を引っ張るし」
 皮肉交じりに断ったエマの気持ちも分かるような気がする。ザキルカはあっけらかんというか、ひょうひょうとしているというか……。
 墓参りを断るタイミングを逃したハンはザキルカに手をひかれて正面玄関を出てしまった。
 しかもいつの間にか彼の女使用人によって勝手に外套と帽子を身に着けさせられていた。さらに玄関前に待機する豪華絢爛な箱馬車を目の当たりにしてしまうと、とても後戻りできそうになかった。
「わたしが行ってよいのかしら」
 乗りこみ口の前で躊躇していると、馬のいななく声が聞こえた。うつむいたハンの顔は自然に上げられる。
「その声はセレーノね」
 馬車につながれた二頭のうちの片方のペガーズにすり寄って優しくなでた。
「よく覚えてますね。あのときは馬小屋だったのに」
「かわいい子を忘れるわけがないでしょう。よかったわね、お前。馬車デビューしたのね」
「ハンナさん、出発しますよ」
 ペガーズとの話が長くなりそうなハンを急かしてザキルカは箱馬車に乗りこんだ。
「行くわね」
 ハンとペガーズはもう二度と会えないかのように別れを惜しんだ。
 少し遅れてようやくハンが箱馬車に乗り込む。
「相変わらず馬が好きですね、ハンナさん。今度一緒に競馬観戦にでも行きましょうか」
 向かい合わせに座るザキルカはいたずらっぽく笑った。
「わたしが人混みがだめなこと知っているでしょう。ザックさんのお家に……」
 ハンは口ごもって下を向いた。研究所に身を置いたらエマは許可してくれるのだろうか。自由とは言わない。せめて今程度の外出を。
「どうしたんですか?」
「いいえ、なんでもないのよ」
 首をふって作り笑いをした。ザキルカは深く勘ぐらずに微笑み返した。
 ペガーズ馬車が曇り空を駆ける。ハンは心ここに在らずといった風に黙っていた。
「さてと。俺は到着まで寝ることにします。着いたら起こしてください」
 沈黙の時間を破ったザキルカは杖先で天井を小突いて御者に合図すると、腕組みをしてさっさと眠ってしまった。
「あ……。風邪ひくわよ、ザックさん」
 とりあえず、無防備に眠る紳士に自分の外套をかけてやった。
 窓の外を眺める。馬車はハンの想いとは裏腹に流れる曇の中を突き進んでいた。
 不安げな少女の顔が窓ガラスに映っていた。

「ザックさん、着いたわよ」
 馬車が着地すると、ハンは死んだように動かないザキルカを揺さぶって起こした。ザキルカは眠たそうに小さなあくびをした。
「着いたのか」
「ええ、そうみたい。霧がかかってよく見えないけれど」
 顔にかぶせていたシルクハットを手に取り、ザキルカは外を見た。
「田舎の霧は綺麗ですね。師匠のお墓が田舎でよかった」
 ザキルカにとって濃い霧はさほど問題でもないらしい。ハンにとっては不気味で仕方がない墓地の霧なのだが。
 後続の馬車が到着したようだ。
 ザキルカがドアを開けると彼の女使用人が薔薇の花束を手渡した。あの思い出したくもない幸せの薔薇『エリザベス』だ。
 何も知らないザキルカにとっては幸せの薔薇なのだろうが、カーグいわく研究者ピーターの欲望の薔薇である。
 『エリザベス』はカーグが去ったあの日から好きにはなれない薔薇だった。
 光の当たらない『エリザベス』の花はザキルカのフロックコートよりも真っ黒だった。
 ザキルカは魔女に誘惑されて堕ちていく純真な子どもに見えた。
――そのばらに触れてはだめよ!
 ふり返ったザキルカは身を乗り出したハンを見て不思議そうに首をかしげた。
「なんですか?」
「そのばらは……パパは……」
「なんて美しい薔薇だろう」
 薔薇の花に――ピーターに魅了されるザキルカにけおされて、ハンは言葉を失った。
「ザキルカさま!」
 前方から男使用人が駆け寄ってきて、焦った表情と身ぶり手ぶりで何かを伝えていた。うなづきながらそれを聞くザキルカ。
 しばらくして友人は帽子のつばを少し上げ、ハンに困った笑みを見せた。
「ハンナさん、ピーター師匠のお墓に先客がいるそうで」
「だれかしら」
 ザキルカは数秒ハンを見つめて瞬きをした。
「『ツカサ・アルジャン』。どうします?」
 黄色い瞳が大きく見開かれた。
 小刻みに首を震わせる。
「むりだわ。ツカサおじいさまはわたしのことをきらっているもの」
「じゃあ、俺挨拶してきますから馬車の中で待っていてください」
「ええ。ええお願い」
 馬車のドアが閉まり喪服の紳士が濃霧に消えていくのを見届けると、ハンは椅子に座ってうずくまった。両手で耳を塞ぐ。
 ツカサに会えばまた『化け物』だと言われる。ツカサの前妻エリザベスと生き写しである自分はピーターを悪魔の創造主たらしめた原因。絶対にツカサは微笑みかけないだろう。
 ハンの脳裏に葬式の日のツカサが浮かんだ。分かりあえるはずがない!

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