-4-

 深い白霧の墓地の中、ハンは立ち止まるとあたりを見回した。
「たしかこちらへ歩いていったわよね」
 色あせた草原を踏みしめ歩く。茨の柵で区分けされた中には同じような墓石が並んでいて、その前面には故人の名前がしっかりと刻まれていた。このぬかるんだ地面の中には『キメラ』開発の功労者とその家族が大勢眠っているらしい。
 いつも屋敷で見ているどんよりとした白い霧がここでは神秘的に見えた。
 馬車が見えなくなったころ、かすかな破裂音が耳から耳へと抜けた。しばし虚ろに思いを巡らせる。
 あれは銃声のようだった。
 聞き違いかもしれない。ハンは小首をかしげた。すぐ近くの教会には太陽と竜のシルエットが浮かび上がっていた。神の監視下に置かれたこの土地で堂々と発砲するだろうか。それとも獰猛な猪でも出たのか。
 散漫に歩くブーツの足が止まった。
「まさか……ツカサおじいさまが」
 ハンは両手で口もとを覆った。口論になった末に逆上したツカサがザキルカを撃った――ハンの脳裏に最悪の場面が浮かぶ。
――おねがい。無事でいて!
 友人が被害者になるのも祖父が加害者になるのも怖い。かけがえのないふたりなのだ。
「はやくザックさんを見つけないと」
 緊迫感と祈りで歩調は速まる。何ごともなければよいのだが。
 規則的に並ぶ墓。右も左も似たような景色でおまけに視界が悪い。辿り着けるだろうか。不安は刻々大きくなった。
「きゃっ」
 小石につまづき、ハンは前に倒れこんだ。治りがけの複雑骨折の指をかばうように腕から不器用に着地。耐えがたい激痛に歯を食いしばった。
 冷たい水の感覚が包帯やスカートごしにじわじわやってくる。ハンが転んだのは大きな水たまりだった。
 両手の白い包帯は泥水色に染まっていた。
 あの日を思い出す――。
 いつだったか。ハンとカーグがピーター一家の隅で肩身狭く暮らしていた、里子時代。
 裏庭でハンと一緒に雪遊びをしていたカーグが滑って転んでしまったのだ。ハンは女中に嫌味を言われながら借りてきた救急箱を持ってカーグの部屋に向かった。当時、屋敷の使用人はピーター一家のものだったから手当ては自分たちふたりでやった。
 椅子に座らせたカーグの膝の泥水を拭いて、軟膏を塗り包帯を巻きつけた。
「よし、これでいいわ」
「ありがとうございます。ハンお嬢さま。――なにか?」
 幼いハンは思いきると、ずっと気になっていたカーグの手の平を取り、深刻そうに見つめた。
「やっぱりお手々もちゃんと手当したほうが」
「いいですいいです。ただのあかぎれですから。この時期は女中とかみんなこんなですよ」
「でも……」
 少年のがさがさした手の平は真っ赤になっていてところどころ血が滲んでいた。
「いたいのにがまんしてるでしょ。包帯を巻かせないとゆるさないから!」
「はいはい」
 ハンは大人しく観念した子守の少年の手にぐるぐる包帯を巻きつけていった。
「巻きすぎですって、お嬢さま。これじゃ手が使えません。これから宿題やらないといけないのに」
「あら、ほんとう! ごめんなさい」
 恥ずかしくなって下を向いてしまったハンを慰めたカーグの笑顔。今でもはっきりと思い出せる。その一方であかぎれだらけの痛ましい両手も思い出せた。
 傷の治りが人より早いハンはいつも手が荒れている少年時代のカーグに胸を締めつけられたものだ。
 そしてよく思ったものだ。

――どうしてたすけてくれないの、ポルラムはかせ――
――カーグをいじめないで、ポルラムはかせ――
――もうカーグにちかよらないで……ポルラムはかせ――

 今でも思う。カーグの二十年はぼろぼろの傷だらけだった。七年前にあかぎれは治ったが、代わりに心の傷が深くなった。
 ハンをかばっていたからだ。護っていたからだ。
「わたしの傷は治っても、カーグの傷は治らない。なぜカーグばかりが傷つくの……」
 立ち上がったハンは外套の泥水を軽く払った。しかし包帯や衣服にたっぷり吸い込んだ泥水が残っていて気持ち悪かった。
 ぴゅうと吹く北風がさらに冷たく感じられた。
 ここはピーター・ポルラムが眠る墓地。ハンは唇を噛みしめながら黒ずんだ包帯の両手を見つめる。
「ハンナさあーん!」
 ザキルカの声だ。助けを求めているのだろう。ハンは声のした方へザキルカを探した。
 歩いているとザキルカの声は聞こえなくなった。声が出なくなってしまったのか――気を失いその場に倒れ込んでしまったザキルカが脳裏によぎる。ハンは首をふって不安を払った。
――わたしがしっかりしないと。わたしがザックさんを助けないと。ザックさんまで失ってしまったらわたしは……!
 ハンはがむしゃらに駆けだした。

 まただ。『ジャン・デュポン』。さっきから同じところをぐるぐる回っているようだ。墓石に同じ名前ばかり見かける。
 くたびれたハンはその場にしゃがみこんで頭を抱えた。
「霧がはれないと探しようがないわ」
 弱音をこぼしたそのときだった。
「ハンナさん!」
 ザキルカがいた! ハンは黒いフロックコートに抱きついて涙を流した。
「よかったわ。ぶじで。とっても心配したのよ」
「うわ、冷たい。どうしたんですか!」
 自分の外套が泥水まみれになっていることを思い出し、ハンはあわてて身を引いた。
「ごめんなさい。ころんでよごしてしまったの。あとで弁償するわ……」
 しょんぼりとうつむいたハンに、ザキルカは安堵の息をついた。
「あげますよ」
「ほんとう?」
 ハンに満面の笑顔が戻るとザキルカは目を細めてひとりごちた。
「そんな物より君の命の方が大事だからね」
「なあに?」
 ハンが聞き返すとザキルカは両手をふってはぐらかした。
「いやいや。それより勝手に出歩いちゃだめですよー。探したんですからね!」
 少女に見える二十歳は頬を膨らませた。
「わたしが迷子みたいに言わないで」
「ふふ」
 思わず笑い声をこぼしたザキルカにさらにむっとなるハン。
「なによう!」
「いや、ハンナさんって昔から変わらないなあって思って。中身も十三歳みたいですよ? いやもっと幼いかな」
 遠慮のたがが外れたザキルカは思いっきり笑いはじめた。
「たぶん、鏡を見るたびに十三歳だからよ」
 不老の少女はさびしそうにほほえんだ。笑い声が止んだ。
 ザキルカはハンの湿った外套を脱がせるとみずからの外套を脱いでハンに着せた。
「風邪ひきますよ、ご婦人」
「ありがとう」
 ハンは自分より一回り大きなフロックコートに、自分を追い抜いて大人になってしまったザキルカを感じていた。
 うつむきながらついて歩く。
「ザックさん」
 ハンは消え入りそうな声で言った。ザキルカは友人の不調を感じ取ったのか、すぐにふり向いた。
「何ですか、ハンナさん」
「やっぱりわたし帰るわ。パパのお墓に行きたくないの」
 肩をすくめてザキルカは困った笑みを見せた。
「ごめんなさい」
 自分の気持ちに嘘はつけなかった。ハンは下を向いたままでいた。
「ピーター師匠は待ってるんですよ、ハンナさんのこと」
 ハンはザキルカの“作った微笑み”を見つめた。
――父親ではなく研究者として待っている、でしょう。
 思わず本音が口から出そうになる。それを飲みこんでハンはザキルカにうなづいた。
「行くわ」

 ザキルカの正しい道案内で到着した墓の前をハンは何度通り過ぎたことだろう。それくらいほかの墓と変わりない墓だった。言ってしまえばただの石だ。この下にともに暮らしたピーター一家が眠っているだなんてとても信じられなかった。
「あんなに偉大だったポルラム博士も死んでしまえば冷たいお墓の中なのね……」
――でも死んでよかったのよ。こうしてケイトママやユリエちゃんと一緒になれたのだから。
「死んでいません。脳死です」
 背後からの声にハンはふり向いた。
「酷いことに、肉体がまだ生きているのに埋められてしまったんです」
「え……」
 不道徳ながらピーターの死を喜ばしく思っていたハンの心臓は激しく高鳴った。
「まだ生きていたの」
「死んだと思ってたんですか。ポルラム博士はそう簡単には死にませんよ」
 ハンは墓石の前でしゃがみ、息を止めた。白くなる頭の中で様々な思いが交錯していた。
 ザキルカは人の気も知らないで話し続ける。彼はいつも以上に熱っぽく饒舌だった。悲しみと怒りが混じる声。尊敬する博士が死んだのだ。しかも生き埋葬――死んでから埋葬されたのではなく、埋葬によって殺されたのだ。悔しくて当然だろう。
 ハンは墓石に刻まれた博士の名前を見つめた。
 晴れない死に方。
「せっかく生きていたのに、冷たいところに一か月も閉じ込められて……死んでしまったのね」
「生きてますよ」
 かわいそうに。愛しすぎて死の事実を受け入れられないでいるなんて。ハンは憐れみの眼差しをザキルカに向けた。
 立ち上がって親友の両手をしっかりと握る。
「パパは死んだのよ」
「ははっ」
 とうとう正気を失ってしまったのか。親友の正気を取り戻そうとハンは冷たい手を揺さぶった。
「しっかりして! ピーター・ポルラムは死んだのよ!」
 ザキルカは落ちてきた前髪をかきあげた。少女の手を払い、ふらっと一人墓石に歩みよった。
「馬鹿だなあ、ハンナさん。最新式の『安全棺』だから大丈夫ですよ」
 見るとザキルカが手で示した先、ピーターの墓には真新しい鉄の鐘がついていた。
「安全……ひつぎ?」
「はい。うちが用意した、まだ一般には出回っていない最新式の『安全棺』です。絶妙な配分でサラマンダーを組み込んだ棺は温かいから凍えることはありません。中には新鮮な空気が通るし、水と非常食もちゃんと入ってます。目を覚ました師匠が中の紐を引っ張ればそこの鐘が鳴る仕組みです」
 何でも手に入るお金持ちザキルカが自信満々に解説するのだ。ザキルカが希望を交えて話すほどに、ハンは青ざめていった。
「パパが大好きなマカロンも入っている? お菓子がないとさびしくて死んでしまうわ」
「それはもちろん! ありとあらゆる缶詰類が詰まっています。この『安全棺』なら半年は暮らせますよ」
 嬉しそうに両手を広げるザキルカ。ハンは口もとに手をそえた。カーグが苦しんだ意味は。
「ピーター・ポルラムは復活します!」
 全身を恐怖が包みこみ、両脚はがくがくと震えだした。それでは報われない。カーグが報われない!
「悪夢だわ!」
 叫んだ少女にザキルカは笑みを消した。
 子どもの真っ赤な頬に涙がつたっていた。
「わたしとカーグがどれだけパパに苦しめられたと思っているのよ!」
 涙とともに本音をぶちまけてハンはピーターの墓から逃げるように走った。
「待ってください! ハンナさん!」
 ザキルカは拳を握りしめると霧に消えたハンを追いかけた。また迷子になってしまわれては困るのだ。

Return to Top ↑