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 あの小さくて頼りなかった少年ザキルカも今や十八の青年。少女のままのハンより力が強いのは当然だった。
 ハンはザキルカに腕を引っ張られながら馬車までの帰路を歩いた。
「ハンナさんはピーター師匠を憎んでいるんですか」
 長い長い沈黙のあと、ザキルカはハンに静かな怒りをぶつけた。
「憎んでいるわ」
 ハンはこちらを見ようともしないザキルカの後ろ姿に答えた。その声は少し震えていた。
「でも当然のことよ。あなたはポルラム博士のうわべしか知らない。博士がわたしとカーグになにをしたのか知らない」
「君こそ知らない。ピーター師匠は貴女を守っていたんですよ」
 口数の少なくなった友人の背中にハンは毅然と首をふった。
「大切な『エリクシール』としてでしょう。エマ先生と同じだわ」
 ザキルカは立ち止まり不機嫌な顔でふり返るとハンの腕をより強く引っ張った。
「『エリクシール』という物質に可愛らしい容姿は要りません。なのに師匠は貴女を可愛く作ったじゃないですか」
 胸の奥がくずおれるほどにざわめいた。ザキルカの手をふり払おうとしたが出来なかった。
 底の見えない藍色の瞳はおびえるハンをじっと見つめていた。
「いま、なんて?」
「師匠が君を可愛らしく作ったのは君を愛していたから」
 光を帯びた迷いのない眼差しだった。思わず目を逸らすようにうつむく。後ろめたかった。
「――そうよ。問題はそこよ。ポルラム博士は子どもが好きなのよ。亡くなった年若い母親も好きだった」
 やっと出せた弱々しい声でハンは祈るように訴えた。
 声を出すことはこんなにも難しかっただろうか。悲痛とともに絞り出す声。
「それで自分の欲望のために……わたしを……。でもわたしのことはかまわない。でも……。彼は……彼は奉公にきた甥のカーグを……。その……」
 顔が赤らんだ。ハンはその先の言葉を上手く紡げず黙りこんだ。無垢な瞳からからい涙がこぼれる。
――わたしはなにをいっているのかしら。
 ザキルカは沈黙したまま泣きじゃくるハンを引っ張って歩き続けた。

 ペガーズ馬車が墓地を遥か上空にして駆けだした。冷たい空、窓ガラスは白く曇っていて景色は見えない。
 ザキルカは突いた杖に両手と顎を載せ、つばが落とす影越しにハンを見た。
「誤解してるよ、ハンナさん。カーグさんがピーター師匠を誘惑したんです。財産目当てでね」
「カーグはそんな人じゃないわ」
 ザキルカはあきれたといった風にため息をついた。
「カーグさんも『ツカサ・アルジャン』の家の人間です。国家を裏切ったツカサたちの生活は想像以上に貧しくつらいものでしょう。卑しい身分のものが春を売るのはよくあることです」
「やめて! ちがうわよ! わたしを守るために身代わりになったの!」
 話を聞きながら震えていたハンは思わず身を乗り出した。
「ハンナさんの言うことは曖昧でよく分からないな」
 ザキルカの頬を手でひっぱたいた。指が骨折しているのでそれは撫でるような形となった。
 どうして自分の思うほうからこんなに逸れてしまうのか。歯がゆかった。
「ザックさん急に変わったわ。なぜカーグを憎んでいるの」
 ザキルカは撫でられた頬に黒革の手をやった。
「自分の胸に聞いてみるといいよ。ただし一人で考えるんだ。カーグさんに相談せず一人で」
 心臓が高鳴った。ザキルカの瑠璃の瞳は自分を全部見透かしているようだ。
 わなわなしながらハンは唇を噛んだ。
「ポルラム博士は事故死よ、ザックさん」
「罪人をかばうのも罪になるんですよ、ハンナさん」
 ハンは下を向いて黙りこんだ。もうすぐポルラム邸に到着する。ザキルカと別れられる。このままやり過ごそう。
 シルクハットをかぶりなおしてザキルカは杖を遊ばせた。気まずい雰囲気の中でザキルカは落ち着かない子どものようだった。
「カーグさんは元気ですか?」
 膝の上に顔をうずめていたハンは顔を上げた。
「どうしてそんなこと訊くの? あなたには関係ないでしょう」
「関係あるよ。いずれ目覚めるとはいえ、ピーター師匠が脳死して俺の世界は暗くなった。そんな中、あの人が笑っているのは嫌だよ」
 ザキルカの薄い笑みに心が締めつけられるようだった。
 でも自分たちは悪くない。あれは事故だ。二十年で完結した長い事故――。
 ハンはうつむいて拳を軽く握った。
「カーグの世界はずっと暗かったのよ。ポルラム博士は死んで当然だったわ」
 ハンは暗い闇の中にぽつりと言葉を落とした。
「いけませんよ。そんな言葉を吐いちゃ。ハンナさんはただでさえ化け物扱いされる『キメラ』の身なのに。そういう危険な思想なんか持ってると、淑女どころかモンスターとして殺処分しないといけないじゃないですか。嫌ですよ、殺処分されるハンナさんなんて」
 ザキルカが怒っているのが口調の端々に感じられた。
 友人は何も悪くない。
 ハンは顔を上げた。
「いいわ」
 馬車が大きく傾いてふたりは横に倒れた。手をついて上体を起こし、向かい合わせの互いを見る。
「わたしをポルラム博士殺害の罪で殺処分して。そのかわり……カーグを幸せにしてあげて」
「嫌です。ハンナさんはピーター師匠の大事な娘です。研究所でひきとる話があったけど、これからもポルラム邸で暮らせるようにしますから。俺はハンナさんの味方ですから。解ってください」
「カーグは?」
 ザキルカは返事をせず目をつむった。
「どうしてカーグなのよ。無実なのに……どうして」
 唯一の望みが叶わない。ハンは座席の上にうずくまった。二頭立てのペガーズ馬車はがたがたと揺れながら飛行する。
 ザキルカは何も分かっていない。
 辺りは厚い雲に覆われていた。

 雨足が強くなっていた。仮の主人である小さな少女が正面玄関に足を踏み入れると、燕尾服を着た初老の執事は大きなタオルを手に辞儀をした。
「お帰りなさいませ。ハンお嬢さま。急な雨、災難でございました」
 ハンは自分をタオルで包もうとした執事に立ち止まることなく大階段をのぼりはじめた。重たいスカートからしずくを転々と落としながら。
 深紅の絨毯に泥の足跡がつきはじめると、女使用人がハンの脚を強引につかんでブーツの底を拭いた。
「はなして!」
 中途半端に泥の残ったブーツで階段の残りをかけあがると、ピーター・ポルラム博士の大きな肖像画を足で蹴りつけた。ピーターの足元が泥で少しだけ汚れた。
「パパのばか! パパのばか! どこまでわたしたちを苦しめるのよ!」
「おやめください! お嬢さま!」
「だれが掃除すると思ってるのかしら」
 蹴り続けるハンの周りには使用人の人だかりができていた。ざわざわとする中にハンに対する非難の声が混じっていた。
「どうしたのよーハンナ」
 しばらくしてエマが踊り場にやってきた時にはハンは数人がかりに取り押さえられていた。

 腰湯で冷えた体を温めたハンはエマの宿泊部屋でホットチョコレートを一気に飲みほした。
「ふいー。お酒を飲む人はこういう風に飲むわよね」
 向かいに座るエマはちびちび飲んでいたホットチョコレートをテーブルに置いた。
「やけ酒のつもり?」
「そうよ」
 ホットチョコレートから間髪入れずにビスケットを口に頬張った。
「ザキルカになにか言われたの?」
「ごほっ」
 ビスケットが気管に詰まって咳きこみ、エマの分のホットチョコレートを流しこんだ。
 落ちつくとハンはエマに向かって足を揃えた。
「わたしは研究所に住まなくてもよいのですって。これで維持費の問題は解決ね、先生」
 口角を上げて少女は目を細める。
「は?」
「わたしこのお屋敷にずっと住むわ」
 エマは水色の目を見開いて、額に節ばった指をそえた。
「うっわー……。やられたー! あの子、私はもう長くないとか私の時代は終わったとか色々言ったんでしょー。なに言ってんのよ、まだまだ生きるわさ!」
「ふふ」
 見当違いなエマの言葉に緊張がほぐれたハンはふっと小さな笑みをこぼした。
「先生、わたしカーグと一緒にここで暮らしたいの。使用人がいなくなっても暮らすわ」
 ハンの明るい瞳には揺るがぬ意志が感じられた。エマはため息をつく。
「やっぱりこうなったか、カーグめ。いいわ、カーグくらいあんたの好きなようにしてあげる」
「ありがとう! 先生!」
 雲が晴れ、ハンはとびきりの笑顔で元気に立ち上がった。
 両手をぽんと合わせる。
「そうと決まればカーグにお手紙を書きましょう! あ、先生はわたしの指が完治したら出ていってね」
 ハンは小さな子どものようにはしゃいで部屋をあとにした。だがエマにはそれがわざとらしく見えた。
「まあ、どーでもいいけれど」
 エマは白髪をかきあげてつぶやくと、酒抜きのサヴァランを口に運んだ。

 廊下を歩いていると、雨音に紛れて街の方から正午の鐘が聞こえた気がした。ハンは窓を開ける。
――ポルラム博士が目覚めたとき、お墓の鐘が鳴る。
 ただでさえ遠く聞こえづらい街の鐘が雨降りに聞こえるはずがない。ハンの心の中に響いていた重厚な鐘の音はピーターが目覚めることへの恐れだった。

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