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 ザキルカの照準がカーグに向けられている。
 このままでは今度は……カーグが死んでしまう。
 ザキルカがほんの小さなきっかけを作るだけで、カーグは世間に締め上げられてしまうだろう。カーグの立つ地面は脆いのだ。
 ハンは無我夢中で羽根ペンを走らせ、兄をかくまうための手紙を書いていた。
――はやく、はやく。一刻でもはやくカーグに知らせなければ。
 カーグはハンにとって唯一の家族である。唯一の生きがい、かけがえのない兄だ。彼のいない世界などハンには考えられなかった。
 世界で一番大切なカーグ。大好きなカーグ。
 ずっと兄妹はふたりでつらいことに耐え、乗り越え、この屋敷で生きてきた。ばらばらになってはいけなかったのだ。
 ハンはカーグを追い出したことを後悔していた。
 ペンを止め、ペン立てに差した。
「できたわ」
 書きあがった手紙を広げて満足そうに眺めると、それを手に部屋をばたばた飛び出していった。
 ハンはナール研究所の管理下に置かれた『キメラ』だ。勝手にポルラムの領地を離れ、街のポストに手紙を出すことができない身分だ。
 それゆえ書いた手紙は信頼できるだれかに託すしかなかった。
「エマ先生! お手紙が書けたわ!」
「どれ」
 呼吸を落ち着けると、やや緊張しながらエマに手紙を差し出した。
「『親愛なるカーグお兄さま。はやく戻ってきてください。わたしたちポルラム邸に住んでいてもよいのですって。今すぐ職場を辞めてきて!』ってなによ」
 ハンの真似をしながら手紙を読んでエマは突き返した。
「そのままよ!」
「あんたのは子どもらしくて信憑性に欠けるわ。私が書こうか」
 ハンは少しむくれた。
「子どもらしくなんかないわ。いいわ、書きなおすわよ」
「そうして。ちゃんと住めるようになった理由を事細かに書きなさいねー。私にもちゃんと話してないでしょ」
 ぎくりとしてエマに意味の無い視線を送った。
「な、なにを」
「あの子を、カーグを解放してあげるんじゃなかったの」
「さ、さみしくなったの! わたしはカーグがいないとだめなの。ほんとうよ!」
 エマは胡散臭そうに目を細くした。
 平静を装おうとハンは必死に訴える。
「そう思っていたのは事実よ!」
「思っていた?」
 エマが眉を寄せるとハンはとっさに口もとを押さえた。目を背ける。エマに真実を話すとややこしいことになるので、追及してこないでほしい。
 エマは頬杖をついて眼鏡越しにハンを見た。
「カーグがあんたがいないと駄目」
 図星だった。

 ティーカップに紅茶が注がれるとエマは書き直された手紙を机上に置いた。
 丸テーブルの向かいに座るハンは前のめりになって認可の言葉を待った。
「『ポルラム邸の女主人としてカーグ・ソーンを雇用したい』、いいんじゃない。これなら円満退職できるんじゃないかしら」
 ハンの顔がぱあっと明るくなった。包帯の両手を口もとに合わせてにんまりする。
 エマはハンの侍女ジョゼットに紅茶のお代わりを頼むとビスケットをかじった。
「それであんた女主人やる覚悟あるの」
「ないわよ。カーグが主人をやるの」
「へえ。まあがんばって」
 エマは興味無さそうに返答し、ハンは前途洋々に微笑んだ。
 これから屋敷を出ていくエマには屋敷のことを干渉する権利はない。
 とにかく今はカーグを呼び寄せる目的が達成できればよいのだ。この手紙がぶじに届きますように。
 大事に手紙を折りたたむ主ハンのティーカップにジョゼットは紅茶を注いだ。カップがテーブルに置かれる際にかちゃりと音を立てた。

 封蝋が早く固まるよう息を吹きかけていると、書斎のドアがノックされた。
「失礼いたします、ハンさま。侍女のオリアーヌです。少しお話よろしいでしょうか」
 ハンは小首をかしげた。オリアーヌを呼んだ覚えはなかった。
 返事をすると、喪服の侍女はすたすた歩いて、書き物机の前にやってきた。ハンに辞儀をすると顔を上げざまにきつい目を向けた。
「オリアーヌさん?」
「あのね」
 オリアーヌは侍女としてはあるまじき崩れた呼びかけで、ハンの前に両手をついた。ハンは手とオリアーヌの顔を交互に見る。
「ジョゼットさんから聞きました。あなたはお子様ですか?」
「わ、わたし、なにかしましたか?」
 気圧されながら、ハンは慎重に言葉を発した。
「ハンさま。このお屋敷はこれからどうなるのでしょうか。わたくしはこのまま侍女としてあなたのもとで働く自信がございません」
「どういう……意味でしょうか」
 オリアーヌはため息をついた。やはり彼女も“化け物”に嫌気がさして辞めたいのだ――。ハンはうつむいた。
「ハンさまは引き続き、この屋敷にお暮しになるとのことですわよね。でしたら先程の曖昧な態度はいかがなものかと思いまして」
 仮の女主人は宙へやっていた視線を戻した。
「さきほど? 兄が主人になることですか」
「ええ、そんなところです。差し出がましいこととは存じますが、ハンさまには貴婦人としての自覚が足りないように思うのです。使用人への卑屈な態度もそうですし、流行遅れのお召し物もそうですし――何より子どもみたいですわ」
 人が変わったように一息にまくしたてるオリアーヌに呆然とした。普段へらへらしているこの侍女のしっかりした一面に驚いた。
「特に流行遅れのお召し物かしら」
「え?」
 オリアーヌはハンの容貌を頭からつま先まで眺めながら、腰に片手を当てた。しっかりしているジョゼットならともかく、オリアーヌが外見のことを気に掛けるとは意外である。
「クリノリンなんて身に着けているのは化石です。今はですね、バッスル。解りますか? 後ろに量感を持たせるのが流行なのですわ」
 いつの間にか指を組みかがみこむようにしてハンに説教している侍女とは変な構図である。
「わたしはクリノリンが好きなのよ! いやなら我慢しないで辞めてください」
 侍女はまだ何か言いたげだったが口をつぐんで、厚い唇を尖らせながら空に目を泳がせる。
「……少し考えさせてくださいまし」
 とげとげした口調でそう言うと、オリアーヌはにこやかに作り笑いを浮かべて頭を下げ、きびすを返した。
 ばたんと閉まったドアに向かってハンは泣きそうな声を出した。
「カーグと同じことを言うのね。わたしは子どもなのよ」
 ハンは心を七、八年前に置き忘れていた。ピーター一家――養父と養母と義妹――が生きていたときだ。
 住む世界が違うけれどピーター一家を憧れの家庭として好きだった。偉大な錬金術師ピーターと淑やかで身綺麗な妻ケイト、養父と同じ髪の一人娘ユリエ――三人とも外から見れば評判がよく、だれもが微笑ましいと思う理想の家族だった。ハンにはそれが誇らしかった。
 里子時代のハンは地味すぎず派手すぎない勲爵士夫人ケイトのようになりたかった。ピーターの養子になって好きな服が着られるようになるとハンはケイトの装いを真似た。彼女になりきることで彼女のように気品ある淑女になれる、そして自分の知る“唯一の”母親ケイトをいつも感じることができたからだ。
 それが今にも至るため、ハンのボンネット帽が似合う装いは現在では流行遅れのものとなっていた。
 そしてハンが流行遅れを敢えてやっている理由はもうひとつあった。お尻を強調する流行のバッスルドレスは未発達の寸胴な体型には似合わないと思うのだ。
 背が低くて手足は細い。胸もお尻も小さい。ハンは鏡を見るたびに子どもの体型に自信を無くしていた。
 カーグは子どもの姿でも二十歳の淑女らしく振るまいなさいと言う。侍女からは自分の細いウエストには必要のないコルセットを敢えて身に着けさせられる。
 ふたりともおかしくはないのだろうか。子どもが大人の振るまいをしても。知らない人から見れば、しょせん自分は子どもなのに。
「わたしは化けものだもの。あるじのカーグを支えるわ」
 ハンは手の平サイズの封筒を胸に抱いて目をつむった。

 * * *

 五本の指をゆっくりと曲げて伸ばした。
 あの錬金炉の事件から二週間。ハンの複雑骨折は何の障害もなく綺麗に完治するだろう、そう判断したエマは約束通り研究所に帰っていった。
 今はポルラム邸の女主人代理として、減り続ける屋内使用人と返ってこないカーグの返事に不安を感じながら暮らしていた。
 昼食後、自室でリハビリを終えたハンは呼び鈴の紐を引いて侍女を呼んだ。
「もうすぐ手綱がにぎれそうなのよ、オリアーヌさん。そろそろ乗馬服を新調したいわ」
「ペガーズもお嬢さまを待っていますよ。……『さん』いらないです」
「オリアーヌ」
 とび色の瞳を細めてオリアーヌは満足そうにうなづいた。
 ハンは使用人に対して――特に侍女に対してあまり卑屈にならないよう敬語をやめる努力を始めた。“主人”カーグが戻るころには執事のロロットも辞めてしまうし、これからポルラム邸で暮らし続けるために「しっかりしなくては」と思ったのだ。
 髪の毛を結ってもらいながら、なんとなく傍のソファーに目をやると銀盆の上に手紙が載っているではないか。
 ハンはびっくりして椅子から立ち上がった。
「オリアーヌさん! それは……もしかしてカーグお兄さまからの……」
 金髪の美女は手紙を一瞥してうっかりしたように髪結いの手を止めた。
「あっ、忘れてました。ごめんなさい。――たしかにお返事のようですけれど、差出人はカーグさまのご奉公先のご主人さまですよ?」
「どういう……こと……?」
「それは私が退席してからゆっくりお読みになってくださいまし。私に読まれるのはお嫌でしょう?」
 オリアーヌは手紙に釘付けになっているハンを頭から椅子に座らせて、髪結いを続行した。
 なぜカーグ本人からではないのか。なぜオリアーヌは読みたがらないのか。ハンは着付けが終わるまでのあいだ、手紙が気になって仕方なかった。うすうす感づいていたからだ。

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