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 主であるピーター・ポルラム博士を亡くしたカーグ・ソーンを先日家庭教師として雇用したマヌヴォー博士は、ピーターの同僚――『キメラ』研究に携わる錬金術師の研究者だった。出自と外見のせいで雇用先の見つからないカーグに、救いの手を差し伸べてくれた温和な中年紳士である。
 差出人の名前から目を離すと、オリアーヌに出ていくように、そして許可があるまで誰も入室させないよう命じた。
 一人になったハンはペーパーナイフで慎重に封筒を開けた。

「どうかしたんですか、お嬢さん?」
 馬丁の青年パシャは声をかけた。馬小屋の中に女主人が籠っていたからだ。
「あなたに言ってもわからないわ」
 翼を持つ白馬ペガーズの影から子どもの声がした。近づくと灰色のドレスを着たハンが積み重ねられた藁の上にちょこんと座っていた。
 そばにやってきた幼なじみの青年に少女は苦笑いをし、広げた手紙を見せた。
 教育を受けていないパシャに文字が解るはずもなかった。彼は受け取った手紙を幼なじみのお嬢さまにすぐ返した。
「ここが一番おちつくわ」
「懐かしいですよね」
「ええ」
 彼女は再び手紙に目を通しはじめて表情を曇らせていた。
「もし自分に話してもいいことがあれば話していただけませんか、お嬢さん」
「そうね」
 スカートの中が見えるのも気にせずに膝を立ててしゃがんでいる。瞬きをするとハンはさみしく微笑んだ。
「わたしはポルラム博士の養子になるまえ、ここでよく寝泊りしていたでしょう。だからおちつくの」
 ハンが養子になる前とは、ハンとパシャが主従という関係ではなく対等な遊び相手だった時代だ。
「カーグもポルラム邸にくる前は豚さんの世話をしていたそうよ」
 パシャは馬小屋の天井をぼんやりと見た。
「そういえばそうでしたね。お振るまいが完璧でしたのですっかり忘れてました」
「それだけがんばったのよ。がんばったのに……解雇されてしまったの」
 かける言葉がしばらく見つからなかったらしい。パシャは言葉を詰まらせた。生まれや身分ばっかりはどうしようもないことだった。
「またこのお屋敷で暮しなさればいいですよ。このお屋敷はお嬢さんの屋敷なんですから」
「できることならばそうしたいわ。でもね、カーグのゆくえがわからなくなってしまったの」
 ハンは自分を両腕で包みこんで震えた。
「自分このあたり探してきましょうか。もうすぐ手が空くんで」
 馬丁の温かい申し出に仮の女主人は黙ってうなづいた。

 パシャは結局カーグを見つけてこれなかった。
 寝間着に着がえるため、ハンは侍女ジョゼットにドレスを脱がせてもらっていた。
 シルクの手袋を外して手を開放する。
「手袋」
「ああ。夕食で少しよごしてしまったの。洗濯女中さんに言っておいて」
 ふり向くハンに、ジョゼットは無愛想に首をふった。
「いえ、それはもちろん。そうではなくて、お嬢さまは手袋を一日中つけていらっしゃるのですね」
 ハンはきょとんとしてジョゼットを見つめた。
「当たり前のことですわよね。申し訳御座いません。忘れて下さい」
 黒髪の侍女は数秒の沈黙に軽く笑みを添えた。
「いいえ、ごめんなさい。この手袋気になるのでしょう? たまに外すほうがこなれて見えるものね。そのことでしょう?」
「ええ、まあ。殿方のようにお馬を乗り回すお嬢さまが手袋を欠かさないのは不自然に思えますわ」
 ジョゼットの一般的な意見でハンは手袋の意味を改めて思った。
――手袋をはめながら本を読むのは大変だわ――
――慣れましょう。ハンナ、手袋は分かりやすい身分の指標なんです。生まれは変えられなくても、身なりや振るまいは変えることができます――
 手袋をずっとつけていればいつか本物の淑女になれるかもしれない。他人だったポルラム博士が養父になり使用人のカーグが義兄になったときに、カーグがそう提案した。ふたりで勲爵士ピーター・ポルラムの子どもに相応しい紳士淑女になろう。いや、なってやるんだと。
「カーグが言っていたの。『いやしい生まれの僕たちがパパの世界で堂々と生きるには努力が必要だ』って。生まれながらの紳士以上に紳士らしい振る舞いをしなければ、本物の執事らしく見えないのだと。手袋をずっとはめていることは、このお屋敷で生きていくための手段のひとつなの」
「カーグさまが。なるほど」
 嘲るようにジョゼットはうなづいた。彼女はカーグのことをよく思っていないのだ。かつて使用人だったカーグに「さま」をつけるたびに口をひきつらせていた。
「カーグさまの言うことも最もですわ。ハンさまはこのお屋敷でお生まれになったのですから、何倍も何倍も努力すれば淑女になれるでしょう」
 暗にカーグは紳士になれないと言い放っているようで、ハンは素直に喜べなかった。しかし無愛想なジョゼットなりの優しさが感じられた。
「ありがとう、ジョゼットさん」
 ハンを着替えさせながらジョゼットは瞳に影を落としていた。ジョゼットが見せかけの紳士淑女に愛想を尽かすのも時間の問題であろう。
 侍女が退室し一人になると、ハンはサラマンダー・ランプの灯りのもとで例の手紙を広げた。

『お手紙ありがとうございました。しかし、カーグ・ソーンは既に当家にはおりません。
 ソーンは次男の家庭教師としてはとても優秀でした。
 しかし、残念なことにソーンは結婚前の長女をあろうことか誘惑したのです。おかげで娘の大事な結婚は無くなってしまいました。
 娘の人生は台無しです。
 よって私達は彼に解雇の措置を取りました。
 どうか御理解下さいますよう』

 ハンは解雇という文字を見つめた。
 誘惑などするだろうか。
 ピーターたち上流階級に認めてもらおうと、奴隷とほぼ変わりないみずからの身分を感じさせないよう、紳士以上に紳士になるために努力をしてきたカーグだ。わざわざ水の泡になるようなことをするだろうか。
 それに心に傷を負い恋愛に臆病になっていた兄が、雇い主の娘に禁断の恋をする勇気などあるはずがない。
 解雇された本当の理由は「本国の裏切り者『ツカサ・アルジャン』の孫を雇うのは体裁が悪いから」などに決まっている。マヌヴォー博士はピーターと交友があったからピーターの甥を一応は雇ったが、最初から理由をつけて解雇するつもりだったのだ。
 悔し涙が頬を伝った。

 自分の意思で出来る唯一の伝達手段は伝書鳩だった。ハンは自分専用に二羽の鳩を所有していた。一羽はエマ先生のところに飛ぶ。そしてもう一羽は養父ピーターとカーグの実家――ツカサの家に飛ぶ鳩だ。
 翌朝、ハンは大きな鳥籠から二羽の鳩を出すとそれぞれの足に手紙の入った筒を取り付けて、部屋の窓から飛ばした。
 つけこまれるのでエマに頼るのは避けたかったが仕方ない。「手紙不要」と書いてきたツカサの家に飛ばしたのは、彼の家にカーグの家族が住んでいるからだ。
 鳩が飛んだ冬の寒空にハンは両手を組んで祈った。
「神さま神さま。カーグにもう一度会わせてください」
 頼りたくない人間に頼ったり普段祈らないものに祈りを捧げてしまうほど、ハンの精神は追いこまれていた。
 朝食の時間まで少しある。
 朝のドレスに着がえるなり、ハンは霧氷に覆われた白い中庭をぬけて厩舎のある離れへと小走りで向かった。
 広い厩舎を見回し幼なじみの馬丁を探すが見当たらなかった。
 立派な馬と世話する馬丁たちの間をくぐり急な階段を駆けあがり、ハンは親しい御者が住む二階のドアのノッカーを叩いた。
 仮の主人の突然の訪問に、中年の男はシルクハットを頭に載せ外套を羽織って外に飛び出した。
「何ごとですか、お嬢さま」
「カバネル、あなたにも協力をお願いするわ。わたしが馬車に乗らないからひまでしょう?」
「別に暇というわけでは……」
「これからあなたにも秘密のお話をするわ。ほかの使用人にはもちろん、ご家族にも内緒よ」
 急いで話すハンに御者カバネルは苦笑いをして頷いた。それを肯定するようにハンは頷いた。
 ふたりはペガーズ馬車が停めてある車庫に場所を変えた。
 周りに誰もいないことを確認するとハンは覚悟を決めて口を開いた。
「カーグがマヌヴォー氏から解雇されて、昨日パシャが思い当たるところを探してきてくれたの。だけど見つからなかったの」
「ええっ」
「しっ」
 驚く声に革の人差し指を立てる。
 白い息を吐きながら、馬のいない箱馬車に目をやった。
「パシャは今朝も探してくれているわ。昨日はこのあたりで、今日はマヌヴォー邸のあたりを」
「それで私に馬車を出してほしいということですか、お嬢さま」
 やれやれといった顔をするカバネルにハンは首をふった。
「あなた一人で街に行って男娼館を探してきてほしいのよ」
「えっ」
 嫌そうな顔をあからさまに見せるカバネルに再び人差し指を立てた。
「カーグが男娼館にいるかもしれないのよ。あそこはお給金が高いのでしょう?」
 御者は悩んでいるのだろう。歪めすぎて滑稽な顔になっていた。
「し、しかしですね、私には無理です。男娼館というものは、身分の高いご婦人がたが人目を忍んで行くところですから、見つけることはとても難しいですよ。それに男の私が男娼館なんか行ったら……警察に捕まってしまいます!」
 それだけはやめてくれ、とカバネルは必死に訴えた。
 確かに男尊女卑のブリンガルでは娼館は街の表通りから貧民街までありふれているが、男娼館はそうではない。隠れ屋敷だ。ただの御者のカバネルには見つけられないだろう。しかも神に背く同性愛は――ピーターのことは置いておいて――重罪だ。
 それは妻子を持つカバネルにはあまりにも危険な頼みごとだった。
「そうね……ごめんなさい。このことはエマ先生に相談してみるわ。あなたは救貧院を探してくれないかしら」
 また取り乱すカバネルをハンは落ち着き払って見つめていた。
 まるで葬式のような喪服のハンにカバネルは眉を曇らせた。
「分かりました」
「パシャには今度、貧民街を探してもらうわ。いなかったら最後は……川の底、井戸の中」
 カバネルは車輪に降りた霜を手袋の手で払った。
「この時期に川にいたら死にますよ」
「わたしもこんなこと考えたくないわ。男娼館でも救貧院でも物乞いでもどこでもいい、生きて見つかってほしい!」
 ハンは懇願するように叫び、唇を震わせた。
「生きたカーグさまを必ず見つけてきます」
「ええ、おねがい……おねがい……」
 小さな主人の両手をしっかりと握り、御者は固く頷いた。
 氷が解けて草木はきらきらと輝くしずくを落とした。馬がいななき、角の生えた兎がぴょんぴょん跳ね回る、賑やかな朝の『キメラ』庭園。
 ポルラム邸の屋内は時が経つほど閑散としてきたが、屋外はピーター生前と変わらず活気に満ち溢れていた。
 『キメラ』を愛する屋外使用人たちは今もハンとカーグを受け入れてくれる。
 馬丁に御者、庭師、森番。ハンは大好きな彼らたちをこの世界一美しいポルラムの『キメラ』庭園で、一日でも長く働かせてあげたいと思っている。

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