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 努力で未来は切り開けると思っていた――。
 カーグ・ソーンは悪くなりかけたリンゴを一口かじった。今日の朝食だ。
 ポルラム邸にいたころ、特にハンがピーターの養子になってからの七年間は、肉料理やケーキが食べきれないほど食卓に並んでいるのが当たり前だった。
 でも、あれは長い幻だったのかもしれない。
 自分には手の込んだ料理より丸のままのリンゴが似合っている。
 カーグは窓に貼られたナール総督の生誕祭のポスターを見つめた。描かれているのは豪華な衣装を身にまとった逞しい青年で、自分と同じくせ毛をしていた。
 思わずそれを睨む。
 自分にもナール総督と同じブリンガル公爵家の血が流れている。
――忌々しいくせ毛。
 ポスター脇の窓ガラスには大嫌いな自分の顔が映っていた。それにかかるくせ毛を一房つかみ、伸ばすように引っ張った。
 手を離すと髪はまたくるんと弧を描いた。それは変えられない運命を暗示しているかのようだった。
 祖母は現ブリンガル公爵アキラの元妾で、父は落胤――妾腹の子だった。カーグはその子どもである。
 捨てられたアキラの妾達は煌びやかな公爵家とは無縁の貧しい生活を送る一人の女になったが、彼女が産んだ落胤やその子孫たちの大半は公爵家とは無縁に生きられなかった。彼らの容姿には公爵家特有の名残があったからだ。
 偽物は価値が無いどころか本物に疎まれる。叔父のピーターは公爵家と瓜ふたつだったため、学生時代に不当ないじめに遭っていたらしい。
 カーグにも公爵家特有のくせ毛がはっきりと現れていた。彼は太陽のように華やかで雄々しい公爵家の美貌とは異なる、月のように淡く神秘的な美しさを持っていた。
 彼の人生を狂わせたのは、公爵家にはない罪のように美しい顔だった。

 * * *

 父に豚小屋を任されてもうすぐ一年が経つ。不毛の地を開拓して草がやっと生えはじめた土地で、カーグは豚の出産に挑戦していた。
「がんばれ、シェリ」
 苦しそうに鼻を鳴らす自分より大きな母豚の背中を懸命にさすった。
 これから子ども一人だけで初めての出産に立ち会うのだ。幼いカーグの手に汗がにじんだ。
 ようやく生まれ落ちた子豚は、子どもから見ても小さくてか弱い生き物だった。
 よたよたと立ちあがり必死に母豚の乳を吸いはじめた八つの新たな命を見て、少年は温かな気持ちになった。
「カーグ。おーい、カーグ」
 母豚の体を拭いていると、父がやってきたようだ。
 カーグは子豚のうちの一頭をそっと抱きかかえ、嬉々として豚小屋を飛び出した。
「とうちゃーん! うまれたよー!」
 子ども一人だけで偉業を成し遂げたのだ。カーグは父に褒められたくて仕方がなかった。生まれたばかりの濡れた子豚を見せる。
「ほら、かわいいよ。シェリもあかちゃんぶたたちもみんなげんきだよ」
 父は薄い唇で笑んだ。
「よくやった! 豚が増えればそのうち食えるようになるぞ」
 真っ白な頭でその言葉を反芻する。眉を曇らせカーグは父を見上げた。
「たべちゃうの?」
「当たり前だろ。食うために育ててんだ」
 尊く愛おしい命を前にして、大人はなんて残酷なのだ。幼いカーグは震えた。
「ぼく、ぶたたべない!」
「食わねえと死んじまうぞ。まあ、お前には関係ねえことだけどよ。来月には居なくなるんだしな」
「しなないもん!」
「ジェミン。お前の言うことはもっともだが小さな子どもに酷ではないのか?」
 厳かな低い声がした。
 父ではない声にそっぽを向いた顔を戻すと、そこにはシルクハットの紳士がいた。うねる金の三つ編みをがっしりした肩に垂らすその青年はまるで若き日の公爵陛下だった。隣にいる継ぎ接ぎ服の父が急にみすぼらしく見えてしまう。
「昔の暮らしを忘れちまったお前には分からねえよ、ピーター」
 伸びた銀髪を汗で頬に貼りつかせながら父は言った。
「分かるさ」
 そう父に答える明らかに父とは違う身分の紳士ピーターに、カーグは憧れの眼差しを向けた。――彼こそ大人の模範だ。
 ピーターはしゃがんでカーグと目の高さを合わせた。眼鏡ごしに優しく微笑む。
「まだ小さいのに豚の世話が一人でできるんだね。えらいね。私は君の叔父さんだよ。君のお父さんの弟なんだ」
 褒めてほしいところを褒めてもらえた! 高そうなコートが汚れるのも気にせず無邪気に子豚を可愛がる父の弟を見て口角が上がった。彼が父親だったらどんなによかっただろうと心底思った。

 せまく小さな荒屋に不釣り合いな紳士が出がらしの茶を飲んでいた。
「私もお父さんと一緒にここで育ったんだよ」
 紳士は黄ばんだリンネルのテーブルクロスに飲み口が欠けたティーカップを置いた。
「うそだあ!」
「本当だよ。お父さんやおばあさんとよくこうしてジャガイモを食べたものだよ」
 父の弟ピーターは潰してバターをまぶしただけのジャガイモを綺麗な所作で口に運んだ。それは彼の身なりに似合わない異様な光景であったが、カーグは身分違いの叔父により親近感を覚えた。
「カーグ、ピーターおじさんを助けてやってくれねえか」
 ほのぼのとした空気に痺れを切らしたらしい父が話を切り出した。
 助けるって? カーグはいぶかしげに父を見る。
 父と叔父、ふたりの大人に見つめられてこの場にいるのが落ち着かない。
「私の屋敷に来ないか、カーグ。君に『赤ちゃん』の世話をしてほしいんだ。子守として君を雇用したい」
「えっ」
 意味が解らなかった。さっきまでは日常の延長だったから。
「行けよ、カーグ。大きなお屋敷で毎日食い物にも困らねえんだ。こんないい話はねえ」
 夢を見ているようだ。
 毎日父にこき使われる。甘えたい母は双子の弟につきっきりだった。
 カーグは屋敷での暮らしに心惹かれていた。空腹で眠れないこともなさそうだし、なによりピーターおじさんは父と違ってとても優しそう。
 しかし心残りがあった。
「でも……ぶたがしんぱいだよ。じいちゃんもまだかえってきてないし」
 渋るカーグに、父は前のめりになって食卓に両手をついた。近づいた顔に圧迫され、カーグは背もたれに精一杯くっついた。
「じいちゃんにも話してある。ばあちゃんにも話してある。豚は……」
 そう言って父はピーターを見た。ピーターはそれに頷いた。
「豚たちも一緒に私の屋敷に来るといいよ。庭には色んな動物が仲良く暮らしているんだ。牛も羊もいるし、ペガーズも沢山いるよ」
「うーん」
 カーグは銀のくせ毛をくしゃくしゃに乱した。話が急すぎる。生まれ育ったこの家と今生の別れになるかもしれないのに、大人は急かす。
 追い打ちをかけるように、食卓に大皿が脅すような音で置かれた。スミレの砂糖漬けだ。
「奉公できちんと礼儀作法を身につけて稼げるようになって帰っておいで。うちには稼げる子しかいらないよ」
 どすの利いた声が放たれた。母はこちらを見てわざとらしく微笑んでいる。めったに見せないその笑みはただただ怖かった。カーグはまたもや圧迫感を覚えた。
 母が加わり、三人の大人がこちらを見つめていた。とても否定できる状況ではなかった。カーグは自分の意思を横に置いて首を縦に一回だけ振った。

 まだ外が暗い晩秋の朝。カーグは従者を三人連れたピーターとともにペガーズ馬車に乗った。ブリンガルの田舎から鉄道の多い都市部へと、ペガーズは空を走った。シェリと子どもたち――豚の親子――は人間とは別々に運んで屋敷で合流するそうだ。
 自分の頭が前に落ちる振動で浅い眠りから目を覚ました。
「起きたようだね。もうじき今日の宿につくよ」
 ピーターは大きな手で愛おしそうにカーグのくせ毛を撫でた。
「ペガーズおしまい?」
 初めての空飛ぶペガーズ馬車に興奮し絶対に寝るものかと誓ったが、眠気には勝てなかったようだ。
 落胆し、カーグは口をとがらせた。
「もっとそらみたかった」
 ピーターは拗ねる幼児の柔らかな銀髪をさらに撫でた。
「屋敷についたら私のペガーズ馬車にいくらでも乗せてあげるよ」
 落ち着いた素朴な声、もっと聞いていたい声。幼児は目を細めてこくりと頷いた。
「私の膝の上においで、カーグ」
「うん!」
 ピーターの大きな腕の中には安らぎと温い幸せがあった。
 自分は恵まれている。両親に追い出されてよかった。カーグはあどけない笑顔をピーターに向けた。
 満面の星空から流れ星がひとしずく零れ落ちた。窓ガラスに貼りつき、これから始まる新たな人生が良いものであるよう願いをかけた。
――おじさんのおやしきでいちにんまえになって、おかねもちになるんだ!

 港から蒸気船に乗りこみ、カーグは生まれ育った大陸に別れを告げた。船は一週間の長旅を経て植民地ナールに到着した。ピーター・ポルラム邸は都市部から離れた郊外にある。
 カーグが生家を出て二週間が経っていた。道中カーグは幾度も故郷を寂しがったが、そのたびにピーターは菓子や玩具を買ってなぐさめていた。カーグはすっかりピーターになつき、旅先で出会う人々から本当の親子や歳の離れた兄弟だとよく間違えられていた。
 辻馬車から蒸気機関車に乗って最寄の駅に到着すると、一行は迎えに来たポルラム邸のペガーズ馬車に乗りこんだ。
「『ケイトおくさま』にはおじぎをしっかりと、へこまない。『エマせんせい』となかよくする」
「そう」
 これから会う重要人物への挨拶をピーターに教わった通りに反復するが、緊張は取れない。
 ピーターに崩れたリボンタイを直してもらった。乞食のように貧相な服を着ていたカーグは、道中でピーターに新しい服を買ってもらったのだ。汚れた身体も洗ってもらった。これもケイトとエマへの対策らしい。
「ブーツぬぎたい」
「だめだ。百歩譲ってエマは許してくれるが、ケイトさんは絶対に追い返す」
 ピーターは妻であるケイトのことを話すとき、難しい顔をする。カーグの父も母によく喧嘩で負けるが、これはそういった類のものではないとカーグは子どもながらに感じていた。
「ぼく『ケイトおくさま』にあいたくない」
 しょんぼり下を向いたカーグをピーターは懇願混じりになだめた。

 ピーターの人柄を超えるポルラム邸の大規模な庭と堅苦しい召使たちの出迎えを経て、応接間に通されたカーグは固まっていた。
 高い高い天井には巨大なシャンデリアが輝いている。どう考えても自分はこの夢のように豪華絢爛なお屋敷にはふさわしくない。
「もうすぐ来るからね。私に任せなさい」
 隣に優しいピーターが座っているが緊張はほぐれそうにない。目の前にある今まで食べた中で一番甘そうな紅茶とケーキも飲みこめる気がしなかった。
「旦那さま。奥さまがいらっしゃいました」
 そうこうしているうちにドアがノックされた。ロロットと呼ばれる小奇麗な男性はピーターにことを告げて、燕の尾をなびかせた。
 ドアが引き開かれる。カーグはつばを飲みこんだ。
 眉間にしわを寄せたいかにも意地悪そうな女を想像していたが、エプロンの女性とともに入ってきたのはおっとりとした物腰柔らかそうな若い女性だった。がさつで豪快な母とは大違いだ。
 前後左右に大きく膨らんだスカートが特徴的で、まるでスカートが歩いているようだった。彼女が腰を掛けるとスカートのボリュームが向かいのソファーを占領した。
「は、はじめまして、ケイトおくさま。ピーターさまの……おいのカーグです」
 なんとか覚えた台詞を言いきった。頭を十秒ほど膝に近づけて戻す。心臓が飛び出そうなほど高鳴っていた。握った手の中は汗だくだ。
 人形のようなケイトは困ったような笑みを浮かべて小首をかしげた。
「どういうことですか、ピーターさん」
「手紙に書いた通りです。まだ六歳ですがとても賢い子ですよ。主人と使用人の関係はきちんと守らせます」
 ゆっくりとした口調で怒っているらしいケイトに、ピーターはくせ毛頭を下げた。同じくくせ毛頭のカーグも一緒に下げた。
「この子をうちで雇わせて下さい、ケイトさん。子守として」
 ケイトは静かにため息をついた。
「わたくしはあなたにあの忌まわしい化け物をひきとりホールデン博士が――使用人以外の女が敷地を自由に行き来することを許してあげました。それでは足りないのですか。よりにもよってツカサの孫などを」
「貴方には情というものが無いのですか、ケイトさん」
 なぜこのふたりは結婚したのだろう。自分が知っている夫婦とは違う。冷えている。ピーターがかわいそうだとカーグは思った。
 ケイトは曇らせていた眉を戻して再び人形になると、唇を開いた。
「……この件に対してわたくしは一切関与いたしませんわ。その代わり、お腹の子どもを優先にしてください。仕事よりもその子よりも」
 妻の前で押しつぶされそうになっていた青年はほっとして顔を上げた。
「ありがとうございます! ケイトさん」
「ありがとうございます! おくさま!」
 ピーターとカーグはつんと澄ましているケイトの前で手を取り合って喜んだ。
 こうしてポルラム邸に住み込みで雇われることになったカーグだったが、このときはケイトのほうがかわいそうなことに気付いていなかった。

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