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 ポルラム邸の影の権力者である妻ケイト夫人の許可が下り、ピーター氏は甥のカーグの手を引いて正面玄関を出た。
 木々が荒々しく生い茂る庭園にカーグは再び圧倒された。
 蒸気機関車の中でピーターが「庭だけは公爵家に負けない」と自慢げに話していたが、それは大げさではないと思った。目に入る森だけでも黄色い森に暗い森、極彩色の森、裸の森……毎日探索してもきっと飽きない。
 大きく伸びをして美味しい空気を思いっきり吸った。
 それぞれの森の中を想像してみる。絵本に出てきた大きなドラゴンがあの森に住んでいるかもしれない。幼い少年の好奇心はふつふつ膨らんだ。
 ポルラムの庭園は華美と言うより粗雑で、手入れされた庭というよりはまるで大自然の縮図に思えた。鳥肌が立った。
「ここみんなおじさんがつくったの?」
「いや。『キメラ』はまだ一割かな。森から少しずつ生態系を作っていこうと思っている。私は生涯をかけてペガーズのようにわくわくするものを生み出していくよ。君やこれから君が世話をする『赤ちゃん』が喜んでくれたら嬉しい」
 錬金術師の青年はみずからが創造した森を見渡して太陽のような金の瞳を輝かせていた。
「せかいをつくったかみさまみたいだね!」
「神だって? まさか。君と同じちっぽけな一人の人間だよ。でも夢だけは神さまにも負けない」
「おじさんってかっこいい!」
 見上げて尊敬のまなざしを向ける幼児にピーターは目を細めた。
「カーグ、君は屋敷を自由に行き来することはできないかもしれない。しかし君には私の自慢の庭がある。『赤ちゃん』にも教えてあげてくれ」
「うん!」
 元気に返事をしたが、「自由に行き来することは」――その言葉が僅かにひっかかった。
 厩舎の隣にやけに浮いた綺麗な小屋が建っていた。ほかの動物が暮らす小屋と違って外から中の様子が分からない。
「ここだよ」
 嫌な予感を肯定するピーターの声。どうしてもそれを否定したい自分がいた。
 息をのんだ。
 『赤ちゃん』は屋敷の外で暮らしている。ポルラム夫妻と同じ家に住んでいない。
 カーグはピーターを疑いの目で見つめた。
 ピーターは柔らかく微笑んでしっかりとうなづいた。カーグはそれに首をふった。
 もう一度小屋を見る。
 まるで屋敷のミニチュアだった。気になるのは窓が無いくらいで、人が住むには申し分ない。むしろぼろぼろのカーグの生家よりだんぜん人間らしく暮らせそうな、居心地よさそうなところだった。
 でも――。
「君が世話する『赤ちゃん』は奥の部屋に眠っているよ。行ってごらん。また迎えにくるから」
 ピーターはカーグの両肩を押して入室をうながした。
「おじさん、こないの?」
「ケイトさんとの約束なんだ。おじさんは会えない」
 少し歩を進め、ふり返った。開いたままのドアの外にピーターはまだ立っていた。
「おじさんのこどもでしょ?」
 その問いにピーターは答えなかった。 

 日光が入らない小屋の中は、灯りといえば妖精のように淡い光がぼうっとともっているだけの薄暗い空間だった。
 しかし、じゅうぶん暖かかった。暖炉が温めているのだ。お茶ができそうなソファーとテーブルを横目にカーグは奥へ進んだ。
 無機質で冷たい異臭が鼻をついた。
「よしよし。いい子にしてるのよーハンちゃん」
――『エマせんせい』……と『あかちゃん』!
 カーグはびくっとした。いけないものを盗み見ているように感じたからだ。
 気配を感じた白髪の女性は後ろを見た。眼鏡の奥に水色の瞳が光っている。
「なあに?」
「あ、あかちゃんのおせわを……」
「あんたがカーグね! 奥さまから聞いてるわ。私はエマ・ホールデン博士。よろしく」
 カーグの祖母は生まれたときから白髪だったらしい。それを今日まで信じられなかったが、白髪に似合わない年齢のエマを見て、祖母の若いころはこんな感じだったろうかと思った。
 エマの白髪は綺麗にまとめられていた。装飾の少ない質素なワンピースはケイトより身分が低いことを表しているが、品がよく知的で優しそうな女性だった。
 けれど好感は持てなかった。ベビーベッドに向かう彼女の手には鋭利な針が握られていたから。
「なに……してるの? エマせんせい」
「ん、血を採るのよ」
「なんで?」
「あんた子守でしょう? 余計なことは知らなくていいのよ」
 エマは垂れ目の目じりをさらに下げた。
――『あかちゃん』がしんじゃう!
 カーグは小さな命を守ろうとベビーベッドの前で両手を広げた。
「邪魔しないで」
 いらっとしたエマはカーグの目線を追いかけ自分の手の中に辿り着いた。
「そっか。これまだ一般に出回ってないんだっけ」
 それに独り言を言うとエマはしゃがみ込み、カーグの顔にその中――針の出た器具――を近づけてよく見せた。
「これは注射器っていうお医者さんが使う道具なの。その子が病気になっていないか調べるだけよ」
「エマせんせい、おいしゃさんなの?」
「まあ、今はそんなとこね」
 カーグは赤くなってその場からのいた。
「可愛いわねー。ピーターが好きそう」
 少年は小首をかしげた。
「まあ、どーでもいいけどね。で、あんたには今から子守としてばんばん働いてもらうわ――あっ、よちよちよちよち」
 注射器を見た赤ん坊は泣きだしベッドの中を両手で這いまわった。
「きっとこわいんだよ」
「でも必要なのよ! カーグ、採血が終わるまでハンを押さえてて!」
「わかった!」
 嫌がる赤ん坊に針を入れるのはむごいと思うが、故郷では医者の言うことはいつも正しかった。
 カーグは赤ん坊を全身で抱きおさえた。
 採血のあいだ赤ん坊はわんわん泣きじゃくっていた。
 痛そうだった。
 可哀想だった。
――おとなのいうことをきいてれば、だいじょうぶだから。だからがまんしてね、ハンちゃん。

 おとななんかしんじられない。

「また来ますからね、ハンおじょうさま」
「いや! おちゅうしゃ、いや! ハン、あそぶ!」
 八歳になったカーグ少年は自分の片足にしがみつく幼女ハンの黄色い瞳を見つめた。今にも泣きだしそうな悲しい瞳だった。
 ピーター氏の娘ユリエには採血がなかった。それどころかいつもそばには乳母がいるし、両親にも頻繁に会うことができた。
 比べて、ハンの環境は不幸だった。一歳のときに夫妻と同じ家に住めるようになったが、血の繋がっていないケイトには疎まれるし父親ピーターも滅多に会いにこなかった。たまに検査にやってくるエマ先生だって、ハンへの情は仕事を遂行するためのもの。
 子守は憂う顔に笑みをそえた。
「いい子にしてたら、あとでごほうびあげますからね」
「ハン、カーグいっしょする!」
 大粒の涙をこぼすハンを安心させるようしっかりと抱きしめた。
「それはだめです。すぐ帰ってきますから」
 ポルラム邸に来て二年。ハンのことを本当に愛しているのはこの世で自分だけだった。自分以外にだれもいなかったのだ。
 切なかった。
 裏階段を使っていったん階下に降り、主人の部屋がある階上に出た。廊下でケイトの侍女と鉢合わせてしまい、逃げようとすると襟ぐりをつかまれた。
「ちょっときなさいよ」
 そのまま衣裳部屋に連れこまれ、壁に押しつけられた。侍女は小声で責める。
「あなたね、この前忠告したばかりでしょ。奥さまはお優しいからはっきりと口にされないだけで、毎日心を痛めてらっしゃるの」
「でもおじさんの命令ですから……おじさんがわる――」
 言い終わらないうちに頬をひっぱたかれた。
「“旦那さま”でしょう? あなたは使用人なのよ」
「エレオノール。私の可愛い甥を返してくれないか?」
「だ、旦那さま」
 詰め寄る侍女を止めたのは助け舟ではなかった。
 正しかった侍女はピーターの従者に抑えられ、ピーターはカーグの肩を抱いた。
「奥さま、今日も泣いていらっしゃいました! それでも裏切り続けるのですか、旦那さま!」
 叫ぶ侍女を背に少年はそのままピーターの部屋に連れていかれた。さめざめと泣くケイトが脳裏に浮かんだ。
 カーグは金刺繍が複雑にほどこされた天蓋付きのベッドに仰向けに寝かされた。
 シルクの敷布がずれる音がする。
 四つん這いになって自分の視界を支配したピーターに身動きが取れなくなった。
「ねえ、おじさん。もうやめようよ」
「やめない。私の精神はお前でなんとか保てているんだ」
 理性を失ったピーターはカーグの胴衣を開けてズボン吊りを外した。とても嫌だが、為されるがままにするしかなかった。せめてもの抵抗に、顔を背けて涙をこぼした。
「私はお前を買ったんだ。売春宿に売られるはずだったお前を。運命は変えられないんだ、カーグ」
「ぼくはおじさんがきらいだ!」
「私はお前がいないと生きていけない……こうするしかないんだ」
 はだけた上半身の隅々に叔父は熱っぽい唇を落とした。
「ぼくはもういいよ。両親に捨てられたんだしね。でも」
「分かっている。ハンナには同じことはしない」
 肌が触れるたびにカーグは身を震わせ耐えた。恐ろしくて恐ろしくて、たまらない。やがてこの男に身も心も支配されていくのだ。“魔神”に抗えない非力な人間のごとく、今この時カーグの世界は叔父中心に回っていた。
――早く終われ。早く終われ。早く終われ。
――カーグほんよんで。カーグ! カーグ!――
 目を閉じると無垢にほほ笑む幼女の姿が浮かんだ。ハンは穢れのない天使だった。
 愛らしくてたまらないハン。まだ言葉を覚えはじめたばかりだ。
――早くハンさまに会いたい。
 ハンがカーグ一人にしか愛されないように、カーグはハンだけのために生きていた。

 もうだれもしんじられない。

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