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 お空はどこまでもつづいているでしょう。
 ねえ、あの雲の先にはなにがあるの?
 毎日聞こえる鐘はだれが鳴らしているの?
 わたしはポルラムの領地と研究所しか知らないの。

 ニューシッド駅構内から立ちのぼる黒煙が和らいだころ、二頭立てのペガーズ馬車が広場に降り立った。
 仕立てのよい外套を身にまとった老若男女らの群衆が駅からどっとやってくる。それを避けるように御者は鞭を打ち、円形に敷き詰めた石畳に馬車を着地させた。
 停車時に車内が大きく揺れたため、箱の中からカバネルは部下である御者にどなった。
「すみません、カバネルさん! ヴァンドルディが人に驚いて暴れ出してしまって」
「馬のせいにするな! 今のはお前の鞭使いが悪い」
 ぶつくさ言いながらシルクハットの中年男は真っ先に下車し、自分の代行をしている後輩の様子を見に車両の前方へ回った。
「馬だって祭りに浮かれるわさ。今日くらいいいじゃないのよ」
 次に石畳に足をつけたのは裾を引きずるドレスに毛織のコートを羽織った赤毛のエマだった。ドレスを普段、着なれていないせいか動きがぎこちなく、「よっこらせ」と言いながら従者役のパシャの手を借りて降りた。
「大丈夫すか、ホールデン博士」
「やーねー。『ポリニャック夫人』よ。あの子は『アンヌお嬢さま』。カバネルとあんたはそのままでいいから」
「へ、へい」
 豪華なお仕着せを身につけたパシャは、今は『ポリニャック夫人』と名乗るエマに緊張しながらうなづいた。
「パシャ、わたしもおろして」
 淡い桃色をした手袋の手を車内から差し出した。パシャはぎこちなくその手を取り、石畳に降ろした。
「ありがとう、パシャ」
 赤毛のお嬢さまハンは花のように微笑んだ。
「へ、へい!」
「あまり話さないほうがいいな、パシャ。訛りすぎだ」
「へえ! カバネルさん」
 パシャは白手袋の指をそろえ、額にそえた。
「あと、慣れないこともするな。ぼろが出る」
 カバネルは自然な仕草でシルクハットの傾きを直した。
「カバネル、あんたも気をつけなさいよー。祭りだからって浮かれないでよ?」
 女主人の母親役にカバネルはひきつった笑みを見せた。
 変装した赤毛の母娘と従者の四人は、ポルラム邸のペガーズ馬車の御者代理に別れを告げて駅前の広場をあとにした。
 『ポリニャック夫人の娘アンヌ』という架空のお嬢さまに扮したハンは、赤毛に緑色の目をしていた。かつらと青色の角膜レンズのお陰である。
 ハンは同じく赤毛のかつらをかぶった、いつもより断然淑女らしい装いのエマの手をしっかりと握った。
「こんな人混みは初めてでしょーアンヌ。はぐれないようにしなさいね」
「ええ、お母さま」
 パレードの通り道であるニューシッド表通りは大きな駅が近いため、普段から観光に買い物にと家族連れが多く訪れる繁華街だ。生誕祭の今日はいつもの十倍の見物客が見込まれている。
 人混みといえばせかせかと働く家事使用人や研究者しか知らないハンは、幸せそうに笑う上品な親子の集まる街に心躍らせていた。
 カーグを探すためとはいえ、変装しているとはいえ、今日ここに来てよかった。
「おっと。危ないよ、お嬢さん」
「ごめんなさい」
 口髭の紳士にぶつかりざまに言われた言葉にハンは耳を疑った。
「ねえせ……お母さま。いまわたし『お嬢さん』と言われたわ。いつもは『お嬢ちゃん』なのに」
 あまりに感動したので、エマの裾を引っ張って話しかけた。つばの短い帽子を結い髪に乗せたエマは、舗道を突くウォーキングパラソルを握らない方の手を口元に当てておかしそうに笑った。
 生まれてこのかた行動範囲のほとんどがポルラムの領地とナール研究所の往復だったハンにとって、目に映るものや耳で聞くもの全てが初めての体験だった。
 歩道には小売店のショーウインドーが建ち並び、車道に沿って昼間のガス灯が一定の間隔で並んでいた。
 時折ピエロがゴム風船を配っている。屋台には美味しそうな揚げ魚やハムサンドが売られていた。
 淑女らしく街を歩こうと心がけているが、つい小さな子どものようにきょろきょろ見回してしまうのだった。
「ねえねえお母さま。あそこお菓子屋さんよね」
「だめよーだめ。私たちの目的はそこじゃないでしょー」
 エマの言ったことは正しいが、むくれて頬を膨らませた。
「ちょっとくらい……カーグにお土産を買いたいわ」
「奥さま、パレードがやってくると混雑で買えなくなりますよ。お嬢さまの気も和らぎますし、一軒どうでしょう?」
 従者役のカバネルが機転を利かせてくれた。さすがポルラムの厩舎の頂点に立つ男は違う。ハンは恍惚の混じる尊敬の眼差しをしっかり者のカバネルに向けた。
「一軒だけね。一個だけですからね、アンヌ」
 大きくうなづくとハンはパシャを連れてはしゃぎ小走って、二軒先の品のよい個人店に入った。真鍮のドアノブをひねって扉を開けると、からんと鈴が鳴った。

 保護者三人が甘いため、結局ハンは道中で気になる店を見つけてはお土産――ほとんどが自分用の――を購入していた。
「チョコレートにハンカチに、絵本でしょ。こてはよい買い物だったわ、カーグが今使っているものは焦げるばかりだもの。この手鏡も運命の出会いよね。それから――」
「まだ買うんすか?」
 沢山の紙袋を抱えながらパシャは苦笑いを向けた。
「パシャが持つんなら買ってもいいわよー」
「買うわよ、パシャ!」
「え、ええー」
 荷物持ちの袖を引っ張り、ハンは瞳を輝かせて新たな店を指差した。
 エマは屋台で買った新聞包みからジャガイモの唐揚げをつまんで呑気に食べ歩いている。さきほど祭り気分になるなと言っていたのは誰だろうか。ふたりの男従者は女たちの買い物好きな性にふり回され、ため息をついた。
 そのときだった。
「追いはぎよ! だれか捕まえて!」
 黄色いご婦人の声が飛び、直後、ハンたちの目の前をぼろ雑巾が――いや、色褪せ擦りきれた布を身にまとったみすぼらしい身なりの痩躯が横切った。路地裏から来たらしい男はちらり背後を一瞥すると懸命に走った。
 彼は靴を履いていなかった。
 周囲の紳士淑女がざわめきだし、男から距離を置いてゆく。しかしハンは目を疑ったまま立ちすくんでいた。
「逃げましょう、お嬢さま!」
「あの人は生きた人間なの?」
 追いはぎ男の汚れたズボンから覗く足は、骨と皮で出来ている。食べていないのだろうか。片腕が一本無いようだ。どうしたのだろう。はだけたシャツからは浮いたあばらが覗いており、頬には痛々しい青紫のあざ、髪の毛は有り得ないほどぼさぼさだ。
 たまらなくなりハンは口もとを手で覆った。
 “最下層”は『ツカサ・アルジャン』ではなかったのか? 周囲に疎まれ、まともな職に就けず一時は酒浸りだったらしいツカサも、あそこまで痩せこけた惨めな姿ではなかった。
 化け物と罵られ義母に憎まれた自分やザキルカに蔑みの目で見られるカーグだって、あんなに朽ちた布を身にまとったことは一度たりともない。
 あの追いはぎは自分の知らない……知りたくなかった世界だった。
「ハンナ!」
 急に身体が締めつけられた。エマが役名を忘れて叫んだのとほぼ同時、ハンは追いはぎの男に捕えられてしまった。
「来るな! この女を殺すぞ!」
 血の染みつく刃物が首もとに添えられ、ハンは背筋を凍らせた。だがそれよりも、追いはぎの手首が自分より細いのに胸を締め付けられた。鳥の骨のように細い指は震えており、棒のように細い腕はハンの身にまとう豪奢なレースの金刺繍にすら傷つけられそうだった。
――あなたは……地獄からきたの?
 いつのまにか目の前の賑やかな大通りが一変していた。前方百八十度の視界を、紺色の制服を着た警察官たちがとり囲んでいる。
 彼らの手には黒い凶器――拳銃が握られていた。
 追いはぎの腹に触れる背中がぞくぞくする。
 声が……出ない。
 白くきめ細やかな首筋に痛みがなぞる。
 赤い血が……首から真っ赤な血が垂れるのを見てハンは目をむいた。
 囲いを盾に状況を見守っていた上官らしき男が馬車から身を乗り出し、さっと手を上げた。そして声を荒げる。
「撃て!」
 刃がさらに深く皮膚に差しこまれ、ハンはぎゅっと目を瞑った。
「撃たないで! その子はエリクシー」
 聞いたこともないようなエマの必死の叫びを一発の銃声がかすめさらった。
 赤い線。
 刃はそれ以上ハンの首に入りこまなかった。
 頬がびりびりする。
 銃弾の軌道を追うと、絡みついた追いはぎの両腕はハンから解かれ――彼はアスファルトに崩れ落ちていた。
 ばらまかれた赤色。
――死んだ。
 目を開けたまま死んでいる。
 血の水たまりが広がっている――頭から。頭から。
 目の覚めるような鮮血。じわじわと広がる生血。

――ちが、とめどもなく。ち。ちが……ち――

「ハンナ! 大丈夫だった?」
 エマの声で我に返った。
 駆け寄ってきたふたりの警察官が、横たわったまま動かない追いはぎから遠ざけるようにハンを庇護した。
 あまりに突然のことで、一体なにが起きたのか分からなくて、ハンは呆然としていた。
 カバネルが胸を撫でおろし、パシャが青ざめた顔でおろおろしている。エマは警察官に礼を言っていた。なぜ射殺した者に礼を言うのか。
 医者らしき男性が、ナイフと銃弾に傷つけられたハンの首筋と頬に手当を施していた。
 死体となった追いはぎはぴくりとも動かない。
「ハンナ。殺されなくてよかった。本当によかった」
 エマに抱きしめられながら、ハンは眉を寄せて震えた。
 自分の傷など痛まない。

 赤い。赤い。染みだす血が――まだ生温かい。

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