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 完璧な黄金の髪の毛が真っ赤な血に浸っていた。
 じわじわと。止めどもなく。流れあふれる。赤い血が。
 赤い、赤い……真っ赤な血。
 頭部はごろりと物のように床に横たえていた。
「ち……ちが……ちが……」
 黒い『エリザベス』の花が首からもげて血の池に落ちた。
「い、いやあああああああああ!」
 ぎりぎり張りつめていた糸がぷつりと切れる。
「見てはいけません、お嬢さま」
 くずおれる体を支え、目の前の恐ろしい視界を遮るようにカーグは抱きしめた。
 ハンはカーグの優しい腕の中で思い切り泣き叫んだ。
 自分の狂った声とカーグの心音が狭苦しい闇の中でずっと響いていた。
 視界には死の赤色がずっと焼き付いていた。
――妹が死んだ。
「いいですか、お嬢さま。ユリエさまは事故死です」
「ちがう……ちがう……」
「いいえ、これは、事故です。あなたの妹は事故でお亡くなりになったのです」
 カーグの声はしっかりしていたが、きつく抱きしめる腕が……震えていた。
 鮮やかな赤い、赤い、血液が染みだして、赤黒いものが胸の奥に染みていった。

 動かなくなってしまった。
 血が。血が。

「アンヌ? 顔が青いわよ」
 ハンはエマに寄りかかった。
「……だいじょうぶ」
 足がよろめき、エマにしがみつく手がずり下がった。
「大丈夫じゃないじゃない! 病院行くわよ」
 とっさにエマの腕をつかみ、ハンはかぶりを振った。今病院に行けば、変装してのカーグ探しは中止になってしまう。
「だいじょうぶよ、先生……すこし……休んだらよくなるわ」
 額に指をそえて眩暈を抑える。エマたちはそれを心配そうに見ていた。
「奥さま、そこを右に曲がると…………で休みましょう」
 カバネルが細い路地を指差していた。
 休日の上品な家族たちで賑わう大通りが霞み、うねり、回った。

 温く柔らかいものに包まれている。ぼんやりと目を開けると崩れた赤い巻き毛が目に入った。
「だれ……?」
 赤毛の主は自身のかつらだった。自分は今『アンヌお嬢さま』に扮していたのだった。
 ハンは飛び起きた。ブランケットがタフタドレスの上を滑り落ちた。
「ここは……」
 角のソファーに寝かされていたらしい。目の前には小さめの華奢な丸テーブルがあった。左右の斜め向かいにカバネルとパシャが座っている。
「おお、アンヌさま。お目覚めになられましたか!」
 飲みかけのティーカップを置いて、シルクハットのカバネルが言った。
「ええ」
 ハンは崩れた巻き髪を触りながら周囲を見渡した。お茶をしながら談笑する身綺麗なご婦人たち。よく手入れされた大人しい愛玩犬。
 初めて目にする都会の喫茶店は、本で読んだ『淑女たちのお茶会』に近い場所だった。憧れの世界。胸は高鳴った。
「カバネル。そこのご婦人から侍女をお借りしてきて」
「は?」
 カバネルは不満の混じる疑問符を発した。ハンはよれたレースの襟を整える。
「エマ先生は従者選びをまちがえたわ。髪の毛をなおしてくれる侍女がいないのだもの。先生はこまらないのかしら――」
 髪の毛を弄る手が止まった。自分の周りにいるのは四十代の茶髪紳士と荷物持ちの若い青年だけだったからだ。
「せ……お母さまはどこへ?」
 ふたりの男従者は顔を見合わせてから気まずそうに苦笑する。パシャは頭をかいた。
「止めたんすけど、行っちまいました」

 * * *

 少女は表通りの街並みから、頭ひとつ出た丸屋根をその赤い瞳に焼きつけた。
 頭に巻きつけたターバンで目元を隠し、しっかりと立つ。
 豪華な日傘を冬空に見せつける令嬢を乗せた無蓋馬車が目の前を通りすぎた。すれ違えども異なる世界にいる同じ年ごろの娘を目で追って、少女は唇を噛んだ。
 頃合いを見計らい、片腕に抱いていた分厚い聖書を開いた。読むわけではない。読んでいるかのように見せるためだ。
「紳士淑女の皆さん。ペガーズの飛ぶ空に蒸気機関車がいよいよ走り出す、ナールの地に潜む闇を私は訴えに参りました」
 シルクハットと馬車が行き交う大通りに向かって、少女は重々しく語りはじめた。だれも聞いていないが、少女は構わず言葉を続けた。
「その闇とはナール研究所です。ナール研究所は神に違背した連中の組織です」
 しばらく一人で話していると、ボンネット帽の老婦人が少女の前で足を止めた。
「まあ、あなたのその手。可哀想に。これで手袋と薬をお買いなさい」
 老婦人は少女の赤く腫れた手に紙幣を一枚握らせた。
「あ、ありがとうございます。貴女に神の祝福あれ」
 少女はかすれた声で礼を言い、頭を下げた。そして素早く、紙幣を薄汚れたエプロンワンピースのポケットにしまった。
「ナール人の信仰心が一番薄いと言われているのも、研究所のせいです。研究所は我が神を“魔神”と呼び、『レッガスが氷漬けになったのは“魔神”に祈りを捧げたから』などと上手い嘘をついていますが――」
 少女が再び聖書を開いて話しはじめると、今度は口髭の紳士が妻子を待たせて駆け寄ってきた。
「お嬢さん、お腹が空いているだろう。これで温かいものを買いなさい」
「ありがとうございます。神のお恵みに感謝します」
 少女は神に祈る仕草をして、ぴかぴかの貨幣をポケットに入れた。
「うちで雇ってあげたいけれど余裕がなくてね。少ないけど」
「あなたは興味深い話をするね。これはいい話を聞かせてくれたお礼だよ」
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
 一人の老婦人の親切心をきっかけにして、不幸だが賢く健気な少女に道行く人々は心を打たれていったのだ。紙幣やコインがポケットに入りきらなくなった少女は頭に巻いていた布をとって地べたに広げ、それに包んだ。
――しめしめ、上手くいったぞ。
 満たされていく金に少女はにんまりした。もちろん見た目には不幸で健気な風を装ったままで。
 少女は再び聖書を開いた。顎で切り揃えられた髪が冷たい風になびいた。
 一張羅と思われるみすぼらしいワンピースを着た年頃の少女の短い髪は、懐に余裕ある人々の目に一層哀れに映った。
「お嬢さん、髪の毛を売ってしまったんだね。珍しい色だから高く売れたのでしょうけど、勿体ない」
「貴方の優しい心を神はお褒めになるでしょう。髪の毛は別にいいんです、伸びますから。それよりも、私は心を悪魔に売ってしまう研究者を哀れに思います」
 紳士からカンカン帽を受け取ると、少女は涙ぐんで礼を言った。
「ありがとうございました!」
 強い突風が吹き、少女は真新しい帽子を両手でおさえた。そのときスカートが大きく翻り、膝丈の白いドロワーズが大衆の前に晒されてしまった。
「あっ」
 一秒、二秒……三秒が経過して、少女は慌ててスカートをおさえた。すると今度は帽子が車道に転がってしまった。
 少女はそれを追いかける。
 帽子は赤毛の婦人の足もとで止まった。
「拾って下さい。神のお恵みなんです」
 少女は叫んだ。
「神?」
 婦人はウォーキングパラソルを支えにゆっくりとかがんで帽子を拾う。
「ええ、その帽子を下さった紳士には神が降臨なさっていました。ありがとうございます、マダム」
 はにかんで手を差し出したが、帽子を拾った婦人は少女からそれを遠ざけた。
 帽子を返してほしい――込み上げる思いを飲みこんで、少女は聖女の顔を作った。
「返して下さい。貴女は神からの贈り物を盗むのですか」
「まあ、待ちなさいよ」
 頭に疑問符を浮かべていると、婦人は帽子を路上に裏返して落とし、中に金貨を一握り零した。そして再び拾い上げ、少女に渡した。
「ありがとうござ――」
「あんたが好きなのは神じゃなくてお金でしょー?」
 少女は白く濁る赤い瞳を見開いた。眼鏡をかけた婦人の顔に複数走る痛々しい傷跡には見覚えがあった。
 いくら外見を取り繕おうと、内から滲み出る狂気は隠しきれない。
――錬金術師エマ・ホールデン。
 急いで、帽子を奪い取って逃げようとした。が、エマが放った一言に足を止められてしまった。
「最初は文句を言って帰ろうと思ってたの。でもねー似てたのよね。ピンク色の長い髪を持つ“男の子”に」
 なんてことだ、本当にエマ・ホールデンらしい。少女は鮮やかな切りっぱなしの髪を揺さぶった。
「人違いだよ。あたい、女だもん」
 少女はふり向かず、歩道に突っ走った。
「待ちなさいよ!」
 エマはパラソルを杖代わりにして追いかけてくる。逃げ切らなければ。エマに捕まったら人体実験の材料にされてしまう――。
 聖書と貨幣をターバンに包み、ぎゅっと結んだ。ひょいとカンカン帽を頭に載せる。
「残念だったね、エマ先生」
 出来上がった荷物を背負って後ろを見ると、エマは自分に届くあと一歩のところで倒れていた。
 エマは血を吐いていた。
 道行く人の視線が集まってくるのを感じ、エマを見捨てることができなくなっていた。見捨てれば、彼らが敵になるからだ。
「ちっ」
 少女は荷物を地べたに置き、両腕でエマを覆い包んだ。
「奥さま! しっかりして下さい! 誰か! お医者さまはおりませんか!」
 エマは医者という言葉に反応して手で制した。
「大丈夫、いつもの発作だから。私も目立つわけにはいかないのよね」
 血を手袋の甲で拭い、エマは強がってみせた。

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