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 野良猫が詰まれた木箱の上にぴょんと跳ね上がってどこかへ行った。
 ナール総督の生誕を祝う街の中で堂々と詐欺を働いた少女――のふりをした少年は、エマを建物の死角に連れていった。
「発作は治まったの? もう帰っていい?」
「困ったわね。手袋買わないと」
 エマはすっかり血の染みた手袋を見て、ため息をついた。
「ねえ! 聞いてる?」
 エプロンワンピースを着た少年は潜む声を忘れて声を荒げた。
「あんた、貴婦人の手袋持ってる? 持ってないか」
「ボク帰るよ」
 投げかけられる質問にエマが答えなかったからだろう。さすがに我慢できなかったらしい。少年はターバンの包みを背負ってきびすを返した。
「ごめんごめん。まあ待ちなさいよ。サイ・A・……」
「瞳色名で止めんな、ババア! ユーリだよ」
 サイ・A・ユーリは血相を変えてふり返った。
 いまにも人を殺しそうな少年の形相にエマは思わず後ずさった。
 理由は分かる。あの『ツカサ・アルジャン』のように、あえてフルネームで呼ばずに瞳色名――瞳の色を示すミドルネーム――で区切り誇張するのは、きわめて侮辱的な呼びかたなのだ。
「ご……ごめんなさい。思い出せなかったのよ」
 心臓に手を当ててちゃんと動いていることを確かめていると、のぼった血が頭から下がってきたサイは両手で顔を覆った。
「しまった。名前教えちゃった……」
 先ほどの怒号は間違いなく男であったが、今の仕草はどこか女らしい。
 エマはサイ・A・ユーリをよく知らない。だが、彼が性別を否定する可愛いドレスを着せられたり、大人の性的欲求を満たすことをさせられる身分であることは知っていた。
 サイ・A・ユーリは人権の無さを明白に表す身分、奴隷だ。それは人間を『キメラ』の材料として扱うエマたち錬金術師にとって、最も都合のよい種類の人間だった。
「エマ先生……ボクをなにも言わずに見逃してください……」
 少年は叶わないであろう望みを弱々しく口にした。
「いいわよ」
「え?」
 ありえないエマの返事に、サイは案の定耳を疑い聞き返してきた。
 魔女は目じりを下げて唇を横に広げる。
「でも、追手の目を逃れながらの路上生活がいつまで続けられるかしらねー」
 奴隷が街中を自由に動き回れるはずがない。サイは所有者から逃げてきた、いわゆる脱走奴隷だろう。
「え……」
 赤い瞳が雲がかり、サイは自身のみすぼらしいワンピースを見つめた。瞬きをして顔を上げる。
「そのうち教会か孤児院に拾ってもらうから……心配しないで」
 薄汚れた顔で、サイは上手く笑って見せた。顎で切り揃えられた髪を掻き揚げる。少年は明らかに動揺していた。
 エマはサイの両肩をしっかりとつかんだ。
「ねえ、あんたは本当に神を信じているの?」
 確信に満ちたその言葉にサイは顔色を変えた。
 当然だろう。人を愛する神など幻想に過ぎないのだから。
 人間が“魔神”の気まぐれの産物に過ぎないことに、賢い者なら気付くはずなのだ――。

 * * *

 角膜レンズが青いので、ハン・ヘリオス・ポルラムの視界は青かった。
 もう一度、ティーカップを覗きこんだ。
 青くない。
「お嬢さん……どうしたんすか?」
 手が小刻みに震えだし、ハンはそこから目を離すことができない。
「ミルクティーが……」
――赤い。
 ハンはまとわりつくものを振り払うように首を揺すった。
――あはははは。早く死んだら? ユリエが殺してあげようか?――
 渦巻く血の中で死んだはずの妹が笑っている。
 ティーカップを持つ手から力が抜け、同時に陶器が割れる音がした。深緑のドレスに熱く脈打つ液体が飛び散って染みこんだ。
――たすけて! たすけてカーグ!
 気分が悪くなり、口もとを覆いうずくまった。
「お、お嬢さん!」
「お嬢さま! お怪我はござりませぬか!」
 ふたりの従者は椅子を倒して立ち上がった。それを合図に喫茶店は再び騒がしくなった。フリルのエプロンをつけた女性給仕が駆け寄ってくる。
「お客さま! また貧血ですか!」
「店員さん。お嬢さまを着替えさせてはもらえませぬか? 似たドレスも調達して下さるとありがたい」
 差し出されたカバネルの手の中に小切手を見つけて、給仕はふたつ返事で頷いた。彼女の顔は予期せぬ臨時収入に綻んでいた。
 エマが店に現れたのは、ハンが着替え終わったちょうどその時だった。

「シルゾルト公爵は代替わりしたばっかりなのよ。まだ若造! あんなのに任せたらナールはどうなるやら……。ザキルカ所長だってそう。なにあの片眼鏡! ばかにしてんの!」
 男娼館への道中、エマはシルゾルト公国やその眷属ザキルカへの不満をぼろぼろ零していた。
 聞けばシルゾルト進出反対の署名が失敗に終わったらしい。あのとき「一生、蒸気機関車に乗らない」と誓ってしまったハンは内心ほっとした。
 しかし、のどかな散歩道では子どもが蒸気機関車の真似をしているし、壁にはシルゾルト公国を賛美するポスターが貼ってある。もっとも酷いのは、本日はナール総督の生誕祭であるにもかかわらず、彼の顔にバツ印のついた新聞が風に吹かれて飛んできたことだ。
 屋敷に籠っているハンもさすがに変わろうとする時代を感じずにはいられなかった。
 エマは前に言っていた。ザキルカがシルゾルト公国の駒になること、それは空からペガーズが消えてしまうことだと。
 ザキルカはペガーズたち『キメラ』を守ってくれるだろうか。
 見上げた空はどんよりとしたねずみ色だった。
 通行人に警察官の割合が増えたことにハンは違和感を感じていた。それは道案内の看板を目にしたとき、確信に変わる。
 エマは男娼館に向かってはいない。
「お母さま、例の館はもうすぐなの? 警察官が多いのだけど、まさか館が警察に摘発されてしまったのではないわよね?」
 ハンは騙されたふりをしながら、それとなく穏やかに探りを入れた。
 エマは振り返り、パラソルの影からハンを見下ろした。
「アンヌ、知り合いを見かけたから馬車に乗せてもらいましょう。人目に触れると恥ずかしいでしょう?」
 間違いない。エマは男娼館に行く気はない。ハンは頷いた。
 ドレスの中の足を半歩下げた。いつでも逃げ出せる準備だ。
「わたしを警察の馬車にのせてどうする気よ!」
 単刀直入にハンは問うた。
「めんどくさい。カーグの無実を確かめに行くんだわさ」
 ため息を吐き、霧の中でエマは笑んだ。
「カ、カーグさまは罪を犯すような人じゃねえっす! うおっと」
 ハンの後ろから荷物持ちのパシャが加勢した。すると、上司のカバネルに後ろ襟を引っ張られた。
「カーグさまは……旦那さまの愛人だったんだ」
「えええ!」
 カバネルのひそひそ声に大音量を上げるパシャ。エマはパラソルを振り下ろし、地面に叩きつけた。
「そこ! 使用人のくせに存在感を出さないで! 外野は引っこんでなさいよ」
 突然、エマは今まで見せたことのない真剣な怒りをふたりの男従者に向けた。
「す、すみません。奥さま」
「エマ先生は同性愛者よ」
 ハンはすれ違いざま、従者たちにエマが激怒した理由を端的に話した。
 同性愛者のエマが同性愛者を訴えることはない。むしろかばうだろう。エマは、カーグに同性愛以外の罪を疑っているのだ。
 それは同性愛を誇張してハンが隠滅しようとし、ザキルカが見当をつけていた罪と同じものではないだろうか。
 胸に両手を置いて目を瞑った。呼吸が荒くなる。だめだ。動揺してはいけない。
 カーグは無実なのだから!
 だからなんとか落ち着かなければ――。
「さあ、馬車に乗りましょう? アンヌ」
 真実を明らかにする馬車が目の前に止まり、その入り口が開かれた。
 意を決して、ハンはそれに乗りこんだ。

 エマに連れられて両側が檻になっている通路を歩いた。見慣れない上流階級の装いをしたふたりに、檻の中の男囚人たちは“場違い”だと罵倒した。
 ハンも場違いだと思った。上品なカーグはこんな野蛮な男たちの住むところには似合わない。
 看守とエマの足音はひどく無機質なものだった。
「ずいぶんと慣れているのね、先生」
「うん、まあね。よくここに人体実験の材料を調達しにくるからね。錬金術師と警察官はお友達なのよー」
 そんな生々しい事実は聞きたくもない。ハンは苦笑いで頷いた。
 単調なブーツの足音を聞きながらハンは考えた。
 エマは確かにカーグを一緒に探そうとしてくれていた。だが、眼前を歩くエマはカーグを貶めようとしている。
「先生。先生は……わたしとカーグの味方ではないの?」
 ハンの問いにエマはしばらく足音を響かせて、立ち止まった。
「私ね、ザキルカに甘いって言われちゃった。情を移してるって」
 ぽつりと呟き、エマはハンの方を向いた。
「年だわね。研究者の眼鏡が曇ってきたみたい」
 ハンは首を振った。
「そんなこと、ないわ」
「ううん。あるわ。あんたが喫茶店にいるあいだ、私は神の啓示を受けた」
「どういう……こと……?」
 わけの分からないことを言うエマに一歩下がろうとするハンの腕を、エマはしっかりと掴んだ。
「私は研究者――来るべき理想の世の礎でありたいの。ハンナ」
 エマは勝ち誇ったようにくすくすと笑った。
 読めない。エマの企みが全く読めない。
 嫌な予感しかしない。
 なんとか腕を振り解こうとした。だが出来ない。
 監獄を抜けると、ハンは殺風景な個室に入れられた。

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