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 窓は手の届かない高いところに小さく三つほどあるだけだった。そのため室内は陰気で薄暗く、芯から冷える寒さだった。
 ハンは外套のリボンを固く結び直した。
 机上からマッチ箱を取って、エマはドレスの裾をつまみしゃがんだ。暖炉の石炭が赤く焼けはじめた。
 ろうそくに火が灯ると、周囲を分厚く塗り固めたコンクリートが露わになった。
 暖炉と机と本棚しかない、窮屈で殺風景な部屋だった。
「さあ」
 机の向こうからエマは、椅子に腰かけるよう手で促す。
 椅子をひき、恐る恐る腰かける。エマが帽子と手袋を取ったので、ハンも同じようにした。
 エマは肘を突いたまま黙っていた。
 こうこうと燃ゆる石炭の音に心臓の鼓動が大きくかぶさり、ハンは深呼吸する。しかし鼓動はいやましに高鳴り止まらない。
 たまらず両腕を抱きしめうつむいた。
「なぜ男娼館に行かなかったか、教えてあげるわ」
 壁に響くいつもより落ち着いた声に顔を上げた。
「ええ。なぜ?」
 何故かは分かりきっている。エマは男娼館でなく刑務所を選んだ――それが答えだ。
 けれど敢えて訊ねた。曖昧なまま、こじれてしまうのも恐ろしいから。
――真実を知りたい。でも怖い。でも知らなければ、先に進めない。
 身を強張らせ、目を瞑る。
 苦しくなり息を吸ったとき、エマはようやく答えを紡ぎはじめた。

「あの子――カーグは子どものころピーターに性的虐待を受けてたのよ。そんな子が男娼なんてできるはずないわ」

 憤りの混じったその言葉には疑問符が散りばめられていた。エマ自身が理解できないといった様子だった。
 ハンにも理解できなかった。
 性的虐待。それはつい最近――ピーターが死ぬ直前――まであったピーターとカーグの愛人関係とは、違うものをさしているような……。
 あの偽りの愛人関係は、ピーターの理想である“永遠の子ども”ハンにピーターが手出ししないよう、カーグが仕向けたもの。カーグはハンを守るために自らの身を差し出したのだ。生贄として。
 原因がハンであることは知らないにしても、ふたりの愛人関係はエマも一部の使用人も何年も前から知っていたことであるのに、どうして今エマはそのことを持ち出したのだろう。
――子どものころ?
 エマの言葉を反芻していたハンは、眉を寄せて違和感を問うた。
「十九歳の……カーグではなくて? パパがカーグを愛人にしたとき、カーグはもう子どもじゃ――」
 言いかけて、エマの言葉を理解してしまった。ある可能性に気がついてしまった。
「おかしいわ。パパは大人がきらいなのに。子どもが好きなパパが……カーグが大人なのに愛人にしたのは……」
――わたしの知らない子どものカーグ。
「一度手を出してるから。『カーグはよく知ってる子だったから大人でもいけた』とかじゃない? ピーターの性癖とか私にはよく分からないけど。分かりたくないけど」
 考えるだけでも気持ち悪いというように、エマは自分の口から出てきた言葉に指をわしゃわしゃさせていた。
――どうしよう。どうしよう。許されない。
 口もとを覆う自身の指を見つめながら、やっとのことで息をした。
「わたし、カーグが子どものころ……そんなこと……あったなんて知らなかった……。十九歳のカーグはわたしを守るために……わたしのために……ただわたしを愛していたから」
――僕も苦しかった――
 カーグの苦しみを軽く見積もっていた。
 ハンは両手で顔を覆った。塞がれた視界のように過ちも消えてしまえばいいのに。
「パパと上手くやっていたと思っていたの」
――死ねばいいとずっと思っていました――
 勝手に目からは涙がこぼれた。本当に泣きたいのはカーグだろうに。
「わた……わたしがカーグに助けを求めたから……」
 ほら、この涙混じりの声。
 なんて嫌な女だろう。カーグの優しさにつけこんで。
「おそらく、幼少期の傷が癒えてないのにまた傷口を開いたのに違いないわ。あんたのためにね」
 エマは否定しなかった。恐ろしいことを他人事のように淡々と言った。
「カーグが男娼になれない理由はこれでいいでしょう。虐待のことはピーターと離れて暮らしてたあんた一人が知らなかっただけで、結構有名よ。ケイトがおかしくなった原因でもあるし」
「ケイトママが……おかしくなった原因ですって!?」
 八年前に娘のユリエ。その一年後に夫人のケイト、そして先月当主ピーターが死んだポルラム邸。その悪夢の始まり、その真実を今ここで第三者のエマから聞かされるとは思っても見なかった。
 ユリエがカーグにあそこまで酷い言葉を浴びせ続けたのは、カーグの存在が母親を苦しませたから。性的虐待はピーター一人が悪いのだが、娘のユリエの目には被害者のカーグの方が悪人に見えたのだろう。
 カーグには人権が無いからだ。

「飛び降りなさい、ソーン」
 カーグ・ソーンは三階の窓枠に片足をかけた。開けっ放しの窓から入る風が銀弧の髪をなぶった。
 ピーター・ポルラムの正式な娘ユリエ・ポルラムの部屋はまるで強欲な魔女の部屋。
 棚の中には無数の生物標本、奥には狂気じみた眼球のホルマリン漬けが何個も保管されている。ガラス容器の中に魚を泳がせ、植物を閉じ込めている。化粧台の引き出しの中ではトカゲを飼っているし、天井から蜘蛛が落ちてきたこともあった。
 とても年頃の娘のものとは思えない、子守もうんざりする気味の悪い部屋だった。
「どうしたのよ。早く落ちなさいよ。ユリエが落としてあげようか?」
 花の香りでは隠しきれないホルマリン臭が鼻をつく中、ついに“処刑”は執行されようとしていた。
 カーグは振り返ってユリエに笑んだ。
「僕があなたの部屋から落ちたら、あなたが殺したのだと誰もが思いますよ」
「ふん、ばかじゃないの?」
 父親譲りの癖のある金髪を揺すってユリエは鼻で笑った。
「おまえが落ちたらユリエ、前のボタンを引きちぎるわ。だれが見てもおまえがユリエを犯そうとして落とされたようにしか見えないわ」
 青年は十一歳ながら発育のいい少女の身体を見て、唇を噛んだ――。
 絨毯に崩れたユリエの亡骸にシーツを覆いかぶせたが、染みだす赤い血が事実を忘れさせない。
 さっきまで生意気な口をきいていた少女はもう二度と口を開かない。
 ユリエは死んだ。物になった。
 血の色はこんなに真っ赤だったろうか。
 カーグが振り返る。
「見てはいけません、お嬢さま。これは事故死です」
――事故死。事故死。事故死。
「大丈夫です。きっとなんとか……なります。大丈夫です」
 カーグは生温かい血の感触とともにがたがたと震えていた。
 自分の心音とカーグの心音が一緒に鳴った。

 喪服に身を包んだ母親ケイト・ポルラムは棺に眠る一人娘に寄り添い泣き崩れていた。
「川で頭を打ったなんて嘘よ。嘘よ! 嘘よ!」
「信じられないのは分かるよ。でも受け入れるんだ、ケイト。私たちの娘はもう帰ってこない」
 ピーターは取り乱し大声で泣く妻の背中を優しくなでた。
 うなだれるケイトは黒いベール越しに夫を静かに睨む――いや目線はその先にいるハンに向けられていた。
「あなたが愛していなかったユリエちゃんが死んで、あなたの溺愛するハンが生きている……。なんてあなたに都合がいいのでしょう、ピーターさん」
 生きていたころもしばしば塞ぎこんでいたケイトだが、娘を亡くしたあとは人間不信に陥っていた。
「ユリエちゃんはわたくしのたった一人の味方でした! ユリエちゃんを返して! 返して!」
 そして彼女の憎しみの矛先は、自分を愛してくれない夫ピーターでも、夫が性的虐待をしていたカーグでもなく、ピーターとカーグに愛され守られる“化け物”のハンに向けられたのだった。

「……だわ。ねえ、聞いてる?」
 ハンは机に伏した顔を上げた。首を横に振る。
 エマは呆れたようにため息をついて、眼鏡の一山を指でずり上げた。
「酷なようだけど、はっきりと言うわね。カーグを諦めなさい、ハンナ。見つかりっこない」
「どうして!」
 机に両手をついて立ち上がった。しかし正面のエマは腕を組むだけ。
「私はカーグがピーターを殺したと思っているから、あんたの前に姿を現さないと思うのよ」
――カーグが殺した。
 刑務所に来て、ずっとエマから聞きたかった言葉をやっと聞いた。
 ハンは体重を支える十本の指を机に立てた。
「本当にカーグは殺していない! カーグは無実よ!」
「ああ、本当に曇ってきたわ。私の眼鏡は」
 エマは眼鏡を外してまじまじとレンズを見る。そしてぽつりと言った。
「研究所としてはカーグはどうでもいいの。私は大事な『エリクシール』のあんたをやっかいごとに巻き込ませたくないと思っているだけよ。研究者として」
 刑務所に入る前、「神の啓示を受けた」エマに何があったのかは知らない。ただ、エマがハンとカーグに対して情を捨てようとしているのは確かだった。
「だめだ。やっぱり甘いわ……二十年も一緒にいたからあんたたち兄妹が可愛いんだわさ」
 眼鏡を机に置き、エマは目元を手で覆った。
「先生はそのままでよいのよ」
「ううん。だめよ」
 腫れ物に触るように話しかけると、エマは首を横に振って視界を開いた。
 眼鏡をかけてハンを見る。
「私、しばらくあんたをザキルカに任せてみるわ」
「ザキルカに……任せてみる……?」
 頭の中が白くなった。
 今エマが言ったのは、カーグを殺そうとしているあのザキルカのことだろうか。
「私、カーグ探しから降りるわー。カーグを探したいんなら、ザキルカに頼んでみれば?」
 ザキルカは絶対に幸せにしない。
 カーグの幸せがハンの幸せ。その望みを徹底的に潰そうとしているのがザキルカだ。
 小さな拳を握りしめ、ハンは首を振った。
「わたしはカーグを諦めない!」

 ハンはカーグの幸せを願ってカーグと離れたことを後悔していた。
 本当はカーグと“ふたりで”幸せになりたかったのだとハンは気付いた。
 だって、カーグの誕生日なのに祝うカーグがいない。
 カーグの辛い過去を知ったのに慰めてあげられない。謝ることもできない。
 切なくて、狂おしい。

「カーグ……会いたい……」

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