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 刑務所を出るとあたりは薄暗く、ガス灯がともっていた。
 午後の茶にはまだ早い時間だというのにこれはないだろう。ハンは小さくため息をついた。
 日光を遮っているのは雲ではなくスモッグ――シルゾルト公国の蒸気機関がもたらした汚染の霧――なのだとエマがぼやいていた。
 これほど空気が悪くてはペガーズはきっと飛べない。どんよりした空を見上げてハンは咳きこんだ。郊外にあるポルラム邸の空気が恋しい。
 そしてなにより、カーグを探すのにたちが悪いこの霧は邪魔だった。ただでさえ本日の街は観光客でごった返していて、シルクハットの群像から探しだすのが至難の業だというのに……これはないだろう。
 エマは刑務所を出てからハン以上にスモッグに対し、毒づいておしゃべりだった。けれどその口からカーグという言葉はまだ出てきていなかった。訊いてもそしらぬ顔をした。
 エマに頼らずにカーグを探さなければならない。ザキルカよりも先に。
 すす混じりに霞む視界も手伝って、ハンは厳しすぎる条件に息苦しさを覚えていた。
「お嬢さま、カーグさまの居所に心当たりはあるのですか」
 ハンと一緒に目を細める御者カバネルは言った。
「ないわ」
 そう。冷静に考えると不可能なこと。しかし、カーグを諦める方がハンには不可能なことだった。
 一行は喫茶店で遅めの昼食をとった。
「このパンケーキ美味しいー! この甘さ、くせになるわさ!」
「あっあれそうじゃないすか? 今、車道を横切った」
「いや、違うんじゃないか。カーグさまはあんなに変な走りかたはされない」
「そうよ。カーグはもっとかっこいいわ」
「このサンドイッチも、うん。味付けが絶妙だわ」
 そばにいるが決して協力しないエマをよそに、ハンとふたりの従者は食い入るように窓に貼りついていた。
「ポルラム邸に帰ってくれていればよいのだけど」
 ふと、口から夢のような望みが零れた。
「お帰りになるんすかね」
「信じましょうよ! ぜったい帰ってくるって。ね」
 朗らかに言った。願いを口に出せばきっと叶うはず。可能性をゼロにはしたくなかった。
「お嬢さま。カーグさまが『帰らない』と決めている場合も、覚悟しておいた方がよろしいですぞ」
 カバネルは冷静に大人の意見を出した。
――帰れないのではなく、帰らない。
「そ、そんなこと、あるわけないでしょう」
 すぐに否定した。ぎこちなく笑って不安を誤魔化した。
 厳しい現実を受けいれることができなかった。
 しかしパシャも一緒になってカバネルの意見に同調し、深刻な表情を見せる。
「お嬢さんの前に二度と現れねえつもりで、あのとき出ていきなすったのかも……」
「そんなはずない! カーグはわたしを愛しているもの」
 その言葉はふたりの従者とエマの前では説得力を持たなかった。
「そうだわ。きっとわたしへのおみやげを買っていておそくなっているのよ。毎年買ってきてくれたもの。そうよ。今日も選ぶのがおそくなっていて」
「お嬢さま」
 ハンは差しだされたハンカチを受けとって涙をぬぐった。
「……総督の家族写真を買うのを忘れていたわね。毎年楽しみにしているのに」
 こちらを見つめるふたりの従者は悲しそうな顔をしていた。

 辻馬車を降りると、ショーウインドウに飾られた一枚の絵はがきに目を奪われた。赤い実をつけたヤドリギの枝と天使のイラストだった。
 店内に入ってそれを手に取った。
「懐かしいわねーその天使……」
「この絵がどうかしたの?」
 言いかけてやめたエマに小首をかしげた。
 エマはハンの手からひょいと絵はがきを取りあげる。
「似ているでしょう、カーグに。小さいころ画家たちに引っ張りだこでね」
 もう一度絵はがきを覗きこんだ。くるくるの巻き毛に愛らしいほっぺたの天使だ。
 天使の顔があの優しく温かい笑みと重なるのは気のせいではなかったのだ。それはハンの知らない子どものころのカーグだった。
 見上げると、エマはこちらを見ずに絵はがきを返した。
「二十年前に定着した天使のモデルがカーグなのよ。――よっぽど可愛かったのね、子どものころのカーグは。それ買うの?」
 無垢な微笑みを向ける天使を見つめながら、カーグの不幸な子ども時代が頭をよぎった。
「それが“遺品”になるかもしれないのよ?」
 カーグのことがどうでもいいのならそんなに寂しい顔はしない。エマは優しさを押し殺して生きようとしているだけなのかもしれない。
「買わないと、後悔するもの」
 絵はがきの天使をそっと胸に抱いた。
 そして迷わず店主のいるカウンターへと赴いた。
「この絵はがきをください。あと、総督の肖像写真はありますか?」
「ああ」
 白髪混じりの店主は丸眼鏡の位置をなおすと、ショーウインドウの内側を指さした。
「見てのとおり、今年はザキルカ所長の肖像写真のほうが売れゆきがいいんですよ。総督のお写真も一応ございますがね」
 店主は写真立てに入れられた総督の写真数点と一緒に、一押しの写真をカウンター上に並べた。
「若いお客さまにはザキルカ所長のお写真の方が人気がございますよ」
「いらないわ。この総督の家族写真をください」
 店主は新聞の一面を毎日のように飾るザキルカをどうしても売りだしたいようだが、きっぱりと断った。
「ほかのカオル総督のお写真もおまけに一枚つけますよ」
「いいの?」
「もちろんです。ここから好きなものをお選びください。在庫が余って困ってるんです」
 カウンターの上に置かれた四角い木箱の中には、歴代の総督や総督一家の肖像写真が雑多に入っていた。
「宝さがしみたいね」
 両手に写真を持って悩ましくも楽しそうに見比べるハン。
 その後ろでずっと不機嫌な顔をしていたエマは蒸気機関車のおもちゃを棚に戻すと店主に言った。
「天使の多い老舗だからって思ってたんだけど失望したわ。流行に乗ってシルゾルト公国を売り出す傍ら、今まで世話になったカオル総督を安売りだなんてね!」
 突然文句を言い切るとエマは店を出ていった。
「ちょっと、お母さま! ごめんなさい、ご主人。カオル総督が売れないのは悲しいけれど時代の変化だもの、仕方のないことよ」
 そうは言っても、ハンも完全に受け入れたわけではなかった。ザキルカの時代を。

 ブリンガル公国領ナール総督カオルの生誕祝賀パレードの終盤、総督官邸前の交通は一切遮断されていた。近衛兵による三重隊列が両脇に立ち並び、総督の馬車の通り道を確保していた。
 つまり一般人は強固な隊列の外側からパレードを見ることになる。総督の人気に陰りが出ている昨今いつも以上に厳重な警戒体勢であるため、近衛兵の隙間からなんとかパレードを目にしたい庶民による必死な陣取り合戦が行われていた。
「ううー見えないっすねー」
 エマと荷物を百貨店に預けて身軽になったパシャは手旗を手に控えめにジャンプした。
「当たり前だろ。恐らく朝から来ている者もいるだろうからな」
 ハンを人混みから両腕で護るカバネルもパレードが見たいらしい。人混みの中に隙間を探していた。
 群衆と雑音の中、ハンはカオル総督の家族写真を眺めていた。
 白黒ではあるが、長身の青年が妻と五人の子どもたちに囲まれて座る写真は華やかで目を楽しませた。そしてなにより温かかった。
「ん? 大きくなりましたね。サトルさまでしたっけかな、一番上のお子さまは」
 カバネルが覗いて言う。
「サトルさまは二番めのお子さまよ。ご長男はスバルさまよ」
「いやはやお恥ずかしい。お嬢さまの王室愛好心には頭が下がりますな」
「こういう家庭が好きなだけよ。――とってもしあわせそう」
 写真を見つめたままハンは黙りこんだ。
 指を写真の上に滑らせる。
「これがわたし」
 五人の子の母、イザベル伯爵夫人を指差した。そしてその指は夫カオルの顔に移動した。
「これがカーグ。そしてたくさんの子どもたち」
 カバネルは息を詰まらせた。ハンが伯爵夫妻を自身とカーグに置き換えたからだ。
「わたしもカーグとたくさんの子どもたちに囲まれたい。わたしは子どもが産めそうにないから、養子をたくさんひきとるのよ」
「お嬢さま。お嬢さまはカーグさまが好きなのですか?」
「え?」
 ひょいとのけぞるとカバネルの顔が逆さまになって見えた。
「好きよ。あたりまえじゃない!」
 ハンは子どものようにいたずらっぽく微笑んだ。
「いえ、そうではなくて。異性として恋い慕っておるのですか?」
 生誕祭の花火が二、三発、乾いた空に鳴り響いた。
 両腕を解いて、ハンは父親のような顔をするカバネルに向き直った。
「恋……なのかしら」
 真っ赤になっているであろう顔を小さな写真で隠した。
「わたしはカーグとしあわせな家庭を築きたい。一緒に暮らしたい。カーグの子どもを産んで育てたい。それは……」
――プロポーズの言葉だわ!
 恋愛小説のヒロインのような気持ちを体感していることが信じられなかった。
 内から大きく高鳴る鼓動が鳴りやまない。
 カバネルの胸に顔をうずめ、拳で軽く叩いた。
「わたし、カーグが好きだったのね……」
 涙まじりの声でハンはひとりごちた。

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