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 二十年前に進水したル・プリュ・ヴィットゥ・クジラ号は、八日に一度ナール港を訪れブリンガル公国に帰っていく大型蒸気船だった。
 幸いにも先ほど港に到着し、貨客を降ろして石炭を補充している最中だった。
 港へ向かう馬車に揺られながら、ザキルカは懐中時計をずっと握っていた。
「あら、『ペガーズ馬車ならもっと早く着くのに』と言いたげなお顔ですわね」
「え、まったくその通りですよ。ピクネシアさま」
 いらだちながら車道を見ていた若紳士はひな鳥のような声に向きなおった。
「『キメラ』かぶれですわね、所長」
 くちびるを曲げたザキルカに動ずることなく、公爵令嬢は続ける。
「神さまは、馬を飛ぶようにはお創りになっていませんわ。馬に翼をつけた乗り物が完璧だという保障はどこにありまして?」
「たしかにそうですが、それは蒸気船や蒸気機関車にだって言えることですよ。――私はいま貴女と口論したくありません」
 とたんにしおれたように下を向いたので、ザキルカは戸惑った。だがピクネシアは小さく舌を出した。
「あたくしもよ。ごめんあそばせ、ちょっと父や兄のように意見してみたかっただけですわ。ただ、怖いのは本当でしてよ。あたくしの国ではペガーズなど飛びませんから」
 なんと厄介な小娘だろう。ただでさえ扱いづらい権力者の娘は、己の意思をしっかりと持っているのだ。うかうか反論などしたら恐ろしい結果になるだろう。
 向かい合わせに座る少女に辟易する。さっさと“子守”を終えてこの重圧感から解放されたいと願った。
 眉間にしわを寄せるところを我慢して、口角を上げた。
 窓の外に目を向けると、馬車は早くも目的地にさしかかっていた。ザキルカは懐中時計を胴衣のポケットにしまった。
 馬車から降りた公爵令嬢は思いっきり潮の香りを楽しむなり、勝手に駆けだした。
「走っては危ないですよ、ピクネシアさま」
――まったく。だれかさんに似て世話が焼ける。
 ため息をついて、はしゃぐピクネシアを追いかけた。
「だって早くクジラ号を見たいんですもの。ほら、また汽笛が鳴りましてよ」
 港風に暴れる巻き髪をおさえながら、ピクネシアはもう片方の手で荒波に浮かぶ貨客船を指さした。
 豪快に煙を吐いて、クジラ号はいよいよ出航するのだろう。ザキルカはピクネシアを連れて広い桟橋へと向かった。
「ペガーズが人間を襲ってるぞ!」
 視界が開けると、客と貨物が行き交う中に人だかりがあった。野次馬の言葉がひっかかったザキルカはその内を見ようと体を斜めにしたり目を凝らした。
 突如、ザキルカは逆の方向に引っ張られた。
「ちょっと。なにをしていますのよ?」
「『ペガーズが人間を襲っている』と聞こえたので」
 人だかりから白い羽根がいくつも舞い上がっているのが見えた。光の粒をまとって舞う粉雪のようなそれに、瞳はくぎづけになった。
 もしペガーズ――『キメラ』が人間を襲っているのだとしたら殺処分しなければならない。ナール研究所所長の責務だ。見過ごすわけにはいかなかった。
 ピクネシアはもう一度、今度は思いっきり引っ張った。
「あんなの、警察に任せておけばいいんです。クジラ号はもうすぐ出航してしまいますのよ!」
「でも……痛っ。なにするんですか!」
 人だかりに未練を残していると、いきなり頬をつねられた。公爵令嬢の淑女らしからぬ行動に唖然となる。さらにありえないことに令嬢は高い声をはりあげた。
「あたくしは騒動を見にきたのではなく、蒸気船を――」
「分かりました分かりました!」
 周囲の視線を集める前に慌ててピクネシアの口を塞ぎ、ザキルカは降参した。子どもっぽい我がままをつき通したその笑みはハン以上だった。
 船を眺めては話しかけるピクネシアに相槌を打ちながらすきを見て視線を後方へとやる。その四度め、ザキルカは息を飲みこんだ。角度を変えて見たためだろう。最後と思って投げた視線はとんでもないものを捉えていた。
 人だかりの下にカーグ・ソーンが這いずり出てきたのだ!
 自分が知っているカーグより粗末な格好をしているが、ずっと帰っていないのならば合点がいく。
 それにあの乱れた銀髪は脳裏に焼きついて離れない情景を思い起こさせた――。
 甥のカーグは夢うつつなピーター・ポルラム博士の首根に、女のように悩ましい首筋をくねらせたり反らしたりしてじゃれついていた。
 おもわず同性であることを忘れてしまう。カーグはピーターを惑わすだけの色気を――技術かもしれない――娼婦以上に持っていた。
 見てはいけないものほど見たくなるものだ。十三歳の少年ザキルカにはいささか刺激が強すぎたが、覗く目を離すことができなかった。夜ごとその場面が蘇る日々が続き、身体は熱くなった。
 あのときのカーグは普段見せる清楚で温和な青年とはかけ離れていた。あんなに髪を乱して、吐息を乱して、頬を赤らめて。――裏切られたような気分だった。
 やがて自分とハンに関係がばれていると知ったピーターは目の前でカーグを愛するようになった。そのうちピーターは阿片に蝕まれて車椅子になり、まともに研究ができる日が少なくなっていった。
――師の生気を吸う淫魔め。
 ピーターは事故死ではないし、阿片に殺されたのでもない。
――ポルラム博士を殺して幸せか、カーグ・ソーン!
 シルクハットのつばが落とす影から静かな蔑視を這いつくばるカーグへと向けた。白い羽根を頭に載せた彼は桟橋の板をわしづかんで後方――人だかりの中を見ていた。呑気なものだ。
 ザキルカは皮革の拳を握りしめた。
――人を壊しておいて……幸せになれると思うなよ。
「ピクネシアさま、もうすぐ出航です。降ろしますよ。よっと」
 柵に足を引っかけているピクネシアを抱きあげながら、片脇にはさむ杖の角度を変えた。ピクネシアを下ろしながら、握りのアヒルをうつむかせる。
 黒檀の杖先はカーグの頭を差したはず。
「ありがとうですわ」
「いいえ。怪我でもされたら貴女のご家族に叱られますからね。気をつけてくださいよ」
「わかりましたわ」
 ピクネシアが唇を尖らせているあいだに、瞬時にカーグへの照準を正した。
――“間違えて”撃たれて死ね!
 ザキルカはカーグに背を向けたまま、だれにも悟られずに仕込み銃の引き金をひいた。
「まあ、この杖きれい。これは黒曜石?」
 海鳥が慌ただしく冬空へと飛び去っていった。悲鳴のような鳴き声に馬のいななきが重なり、あたりがざわざわしはじめた。
「なにごとですの?」
 ピクネシアが不思議そうに見る。ザキルカはしばらく後ろを向くことができなかった。確認せずとも音で判った。
「少し離れたほうがいいです、ピクネシアさま」
 令嬢の手をひいて足早に場所を変えた。
 ちらりカーグのほうを見やる――ザキルカはあっけにとられて立ちつくした。
 そこにいるはずのカーグと暴れペガーズが跡形もなく消え失せていたのだ。
 残されていたのは白い羽根だけだった。
「天使の羽根だわ! それちょうだい!」
 無邪気な子どもの声に顔をあげた。拾った羽根を渡すと、少女は両手で大切そうにそれを包みまぶたを閉じて思いをはせた。
 穏やかな顔をして、少女は遥か上空を指さした。
「お空の上から天使が落としたのよ」
「とってもとっても綺麗ですもの、きっとそうですわ。天使の贈り物ね」
 迎えにきた母親が娘と自分の頭を下げて礼を言うと、ピクネシアはそれに優しく手を振った。
「ペガーズの羽根って美しいのですわね、ザキルカ所長。あたくしも天使の羽根が欲しいですわ」
「天使……ですか」
 もう一度空を見上げると、光を帯びた白い羽根が舞い落ちるのが見えた。ザキルカは片眼鏡を外してまばたきする。
――カーグは私の天使なんだ――
「違うよ」
 首を振ってピーターの微笑みを否定した。
 天使なものか。もしカーグに羽根があるとしたら、それは堕天使の罪深き羽根だ。
「ペガーズの羽根単品というより、それをあしらった帽子がありますよ。貴女の肌色によく映えると思うんです。あとで買いに行きましょうか」
「まあ、嬉しいですわ」
 雑談をしながら、弾の跡を怒りにまかせてブーツの底で踏みにじった。ひび割れた板が圧力でみしみしと鳴った。
 銃弾はカーグの脳天を撃たず、桟橋をうがった。
 足を退けた。するとザキルカは弾痕の付近に擦れた血の滴を発見した。
 跳弾していたのだ――。そしてなにかが負傷し、血を落とした。
 血痕は桟橋の一番奥に向かって不規則な間隔で続いていた。追いかけるとそれは海に突き出たところで途切れていた。
「所長! どうかされまして?」
 追いついたピクネシアはザキルカの背中に顔をぶつけて、彼を見上げた。彼は黙って唇をかんだ。
 汽笛が鳴り、桟橋が大きく揺れた。ピクネシアが濃灰色のフロックコートにしがみつく。
 蒸気船ル・プリュ・ヴィットゥ・クジラ号は煙を噴いて出航した。次に帰ってくるのは八日後だ。

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