-1-

 籐の車椅子を押しながら、養父ピーターを連れてポルラム邸の庭を歩いた。
 柔らかな陽光が降りそそぎ、緑はみずみずしく生い茂る。人工池のほとりには、赤や紫のシャクナゲが鮮やかに咲き誇っていた。
 車椅子にもたれている養父は、そばを戯れる美しい羽根の小鳥を力無い腕にとまらせた。いつくしむように目を細めている。
「ぽかぽか陽気で気もちがよいわね」
 養父は答えなかった。
 小鳥が飛び立った空を見上げると雲ひとつない晴天だった。ダイヤモンドをまぶしたような陽光が父娘を優しく包んだ。
「散歩びよりね、パパ」
 うねる蜂蜜色の髪が穏やかな光に透けている。養父の三つ編みを手にとってハンは微笑んだ。
「ねえパパ。わたしが猟銃をむけた夜のこと、おぼえている?」
「ケイトが死んだ日か」
「ええ、そうよ」
 養父を乗せた車椅子は人工池の小さな橋をがたがた渡り、向こう岸に着いた。
 ハンは濃いピンク色の花をひとつ摘む。それを養父の三つ編みに飾りつけながら、聖女のようにささやいた。
「わたしね、いまでも同じ気もちよ。パパがはやくケイトママとユリエちゃんといっしょになれるよう祈っているわ」
「そうか」
 長い沈黙のあと、養父は短く答えた。
 養父は何ごともなかったように車椅子にもたれ、娘ものんびりと散歩を楽しんでいた。

 * * *

 磨きたてられた格子模様の床に足をつけると、大階段を左へ回りこんだ。一番すみにある馬の頭部像を目印にして、奥へと入っていく。
 手を繋ぐ兄妹は陰気な使用人区画に足を踏みいれた。入ってすぐ、使用人専用階段の裏にひっそりとたたずんでいるのが、カーグの秘密の部屋――例の茶室であった。
「ねえねえ、聞いた? お昼どころか明日もマッシュポテトだって」
「また?」
「シェフ・ポワンの『究極のマッシュポテト』の試作の片付けよ」
「最悪だ。私もうマッシュポテト飽きた……マギー」
「あ」
 ふたりの家女中はカーグの姿を見るなり壁を向いて黙りこみ、殺風景な通路に溶けこんだ。カーグは彼女たちには目もくれずにハンを連れていった。
 これが主従のあるべき姿だ。彼女たちに使用人としての自覚を持たせるカーグの存在をハンは頼もしく思った。
 カーグ・ソーンこそポルラム邸のあるじにふさわしい。
 階段裏をくぐって茶室に入ると、カーグはしっかり内かぎをかけた。
「お兄さま。合いかぎ、返すわ」
 手のひらに載せた小さなかぎに触れつつも兄はためらっていた。ハンの手に手をかぶせたまま、少し考えている。
「どうしたの。お兄さま」
「ハンナ。この部屋の“正体”を知っていますか?」
 かぎごとハンの手を握るカーグの手を握り返した。
「ええ。あそこの食器だなに隠しとびらをみつけたわ。そこに――シノワズリかしら――東洋ふうの寝室があった。そしてこの――」
 ハンは棚にならぶ紅茶の缶をながめた。
「缶のなかに阿片を見つけた。でもだいじょうぶよ、お兄さま。だれにも言っていないわ」
「そうですか」
 カーグの声は弱々しかった。
「合いかぎはそのまま持っていてください」
 黒革の手が離れると、ハンはかぎを握りしめてカーグを見つめた。彼はさみしそうに笑った。
「捨ててほしかったな」
「カーグ……」
 かける言葉が見つからなくてハンは目を伏せていた。
 カーグは首を振っておもむろに歩きだし、隠し扉の前でしゃがんだ。手招きをする。
 うながされて、四つん這いにならないと入れない小さな入口から秘密の隠れ場を覗いた。
 異国風の寝室はエマの祖国を思わせた。極彩色の陶磁器の数々に漆塗り、金の間仕切り、尾の長い鳥……ひとつひとつよく集めたものだと感心してしまう。
 しかし贅を尽くしてはいれども、どこか儚さをおぼえた。
「阿片を吸うための部屋です」
 物憂げな横顔だった。
「この“阿片窟”に僕は叔父と入り浸っていたんです。もちろん茶室の用途で紅茶も淹れましたけど、叔父はそのなかに阿片チンキを混ぜるしね……」
 シノワズリの阿片窟にはハンの知らないカーグがいた。そしてそれをすべて知っていたのがピーター・ポルラムだった。
 いやでも目につく絹の光沢が妖美な刺繍布団。阿片に酔いしれたピーターはカーグを巻きこんでこの部屋に寝転がったのか。そして布団の中でハンの知らないカーグの肌に触れた。この中で彼はハンより濃い時間をカーグとすごしたのだ。
 脳裏に浮かぶ横暴な前当主。目頭は熱くなり、くちびるはふるえた。
「この部屋で僕は叔父に抱かれたんです」
「カーグ。あなたなにを言っているの?」
 自分の気持ちと異なる声音にハンは耳を疑い、そして目を疑った。寂しい声と切ない顔。甘美な思い出。これではまるで彼がピーターに想いを馳せているみたいではないか。
 愛しい人は憑かれたかのごとく、まくれた掛布団を指差した。温もりの感じられるそれは、つい今朝がたまで人が眠っていたように錯覚させた。あまりにも生々しいピーターの跡だ。枕元に無造作に置かれた水タバコだっていかにもそれらしい。
「カーグ、あなた思い出を美化しているのよ。あれはつらい過去でしょう!」
 寄り添い、懇願するように兄をさとした。背広の前身頃をつかみ、魂を戻すべくゆさぶった。
 少しうつむいてまばたきをして、愛しい人はまた刺繍布団を見つめた。
「自分でもよく分からないんだ、ハンナ。まだ亡くなって……ひと月しか経っていないんですよ」
 そのままカーグは阿片窟の中に入りこんだ。忘れたものを取りに帰るかのごとく――。
 彼は叔父の抜け殻を崩して絹の花鳥画にうずくまった。
 追いかけてきたハンは部屋を満たす阿片のきつい臭いにむせた。カーグのほうは気にならないらしい。
「カーグ!」
 近づいて強く揺さぶると涙に濡れた顔がこちらを見上げた。
「どうしてよ、カーグ」
 ハンは乱れた兄のウエストコートに突っ伏した。
「叔父が死ぬ前の安息日……僕は叔父に抱かれて生命を感じていたんです。罪の快楽に溺れていたんです。“つい最近”のことです、忘れられるわけがない」
「カーグ。わたしのカーグ……おねがいだから帰ってきてよ!」
 手袋を脱いで、カーグは素手でハンの頭を確かめながら撫でた。
「僕はここにいるよ、ハンナ。ただ半分、ピーター・ポルラムという麻薬に侵されてそれが抜けきれていないんだ。今でも彼を――」

「完全に憎んで」

 エメラルドの双眸は迷いの色を見せている。
 かわいそうに。カーグは死んだ男に今もしつこくつきまとわれているのだ。
 手袋をほうりなげ、ハンも素手になった。どうしていいか分からないカーグの両手を握りしめてそれにくちづける。
「あなた、わたしをポルラム博士のように抱ける?」
 カーグは手枷をされたまま困った笑みを浮かべた。
「あなたとおじは違います。叔父は僕の汚れている部分、あなたは僕の清らかな部分なんです。僕が本当に好きなのは――大事に思っているのはハンナ、君だよ」
 ハンは兄の首に抱きついた。頬ずりをしながら絡めた腕をよりきつく締めた。
「そんなこと知っているわ。でも、わたしはポルラム博士を憎みきれないあなたを愛せそうにないわ」
「ハンナ」
 温かい吐息が耳にかかる。カーグが愛しい。
 涙まじりにぽつりとつぶやいた。
「どうして……『全部これでよかった』って言わないの」
「え」
「『あの男は死んでよかった』って」
 心地よいバリトンが聞こえない。
「言ってないじゃない!」
 ハンは自分を抱きしめた両腕をほどいて体を起こした。ぞんざいに涙をぬぐう。
「パパは……死んでなおもわたしをくるしめるのね……」
 カーグはふられた両腕でもう一度ハンを抱きしめて、背中をさすった。
「分かります。分かってますよ、ハンナ。君はピーター・ポルラムを僕以上に憎んでいて、けれど愛そうとしていた。僕以上に苦しんで」
 ただただハンはすすり泣く。
「でも、もう苦しまなくていいんですよ。彼は死んでしまったのだから」
 優しいカーグのささやきにハンは首を振った。
「カーグ。パパは――あなたの叔父さんは……生きているのよ」

Return to Top ↑