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 鐘は耳に優しくない音で鳴り続ける。
――助けてくれ! 私は生きている! まだ生きたいんだ!――
 “彼”は墓の中から命がけで叫ぶ。
「わたしが掘るわ、カーグ」
 鐘の揺れを手で抑えながらハンが言う。
 カーグにも聞こえただろう。――あれはピーターの悲鳴なのだ!
「一人で地獄へ行こうとしないでください。僕が掘って棺を開けます。あなたはその音をなんとかしてください」
 カーグは手を休めなかった。ハンと同じように、この神の裁きの前兆に怯えているだろうに。
 ふたりは鐘が鳴っているのが強風のせいだとは考えられないでいた。幼いころよりずっと聞かされてきたエマの裁きの体験は遠い異国の昔話で、ふたりには現実味のないものだった。しかしそれは無意識のうちに強くふたりに根付いていたのだ。
 生きているはずのないピーターが呼んでいる。鐘を抑える両手はかじかんでいた。
「もし叔父さんが生き返って、鐘を鳴らしていたらどうしますか?」
「決まっているでしょう。あるべきところへ帰すのよ」
「そうですね。僕もそう思います」
 棺が露わになった。シャベルを地面に突き刺して、カーグは肩で息をする。
 質素な木の棺には鍵がついていなかった。ハンは小首をかしげた。
「これが最新式の『安全ひつぎ』なの……カーグ? 思ったより粗末なのね」
「早く……開けるんだ」
「ええ」
 蓋のふちに指をかけてふたりで持ちあげる。みしみしと音がする。地中で圧迫されていた蓋を剥がすのだが、新しい棺なので何度か力を入れるとあっさりと開いた。
 ふたりは棺の中をおそるおそる覗きこんだ。
 そこには大柄な遺体が横たわっていた。生きている気配は感じられなかった。
「よかった。死んでいるわ」
 ハンは口角を上げて安堵の白い息を漏らした。
 そんな彼女の肩をカーグは引き寄せる。
「ハンナ……たしかに彼は死んでいます。それに『安全棺』とは口から出まかせだったようですね。ハンナ……ザキルカさんは何を考えているんだ……」
「え」
 棺から目を背け、彼は苛立ちを積雪にぶつけたのだった。
 正直あまり見たいものではない。しかしハンは鼻口をおさえてもう一度、死後一か月になる養父に向き合った。
 大柄な男だ。服装も時代遅れの華美なものだし、長めのブロンドは強くうねっている。――そこまでは養父だった。
 もうハンは声が出なかった。黙ってカーグの胸にしがみついた。

 遺体の顔は原形をとどめていなかった。つぶされていたのだ。

 カーグは妻を強く抱きしめた。
「棺を……閉めよう」
 彼はただ一言そう言った。
 悪い夢なら早く覚めてほしい。しかし凍える寒さで顔がじんじん痛いし、カーグの心臓は大きく脈打っている。
 冷たい夜風が荒れ狂っていた。
「僕たちは何のために墓を荒らしたんでしょうね。これもザキルカさんのもくろみでしょうか」
 墓を戻しはじめてようやく落ち着いてきたころ、カーグは言った。
「そうとしか考えられないわ」
 遺体の顔が分からない。つまり、ピーター・ポルラムの死は確認できなかったのだ。
「研究者は残酷なのよ。ザックさんも研究者だった。それだけのはなしだわ」
 あの遺体がピーターであるならば、顔をつぶす行為は死者への冒涜だ。
 ピーターでないのなら、ザキルカはピーターを一体どうしたのであろうか。
「カーグ」
 雪まじりの土を慣らしながら、ハンは顔を上げた。
「わたし、ついでにザックさんのまわりも荒らしてくるわ。ついてきてくれる?」
「もちろん。僕はあなたの夫ですから」
 カーグはいつものように優しく微笑んだ。彼がいるから前を向けるのだ。
 ハンは氷の張りつく頬に涙をにじませた。

 * * *

 姿見に映るのは少女ではなく、洗練された女主人でなければならない。
 新調した黒いドレスは裾を引きずっていた。サテンのフリルが小さなお尻を女性らしく盛りたてている。横向きに立つと『h』のラインを描く、流行のバッスルドレスだ。抵抗のあったバッスルだが、生誕祭の変装で着用してまんざらでもないと思ったのだ。
 後頭部にふんわりとボリュームを出す結い髪は、地毛の長さが足りないのでシニヨンの付け毛を使っている。小粒の黒玉が耳たぶの下で慎ましく揺れていた。
 身体は子どもだけれど、あえて大人びた格好をした。これは戦闘服なのだ。
「ハンさま、とてもお似合いですう! 喪が明けるのが楽しみですわ」
 新米侍女のイェリムは小さな主人を着せ替え人形にして楽しむのが趣味らしかった。気が引けるが、彼女のセンスと腕前は確かなものなので少しだけ目をつぶろうと思う。
 さあ、戦いに挑もう。
 ハンは侍女を連れて、ポルラム邸の階下へ向かった。

 使用人ホールに大変珍しい客が訪れた。先月亡くなった前当主ピーター・ポルラムの養女ハン――階上の人間だ。
 短いお下げ髪に木綿のエプロンワンピースを好んで着る彼女は、少女のまま時を止めているようだった。華奢でやんちゃな彼女は子ども服を着ていても違和感がなかった。
 しかし今朝の彼女は違った。喪服ドレスに身を包んだ小柄な上流階級のマドモアゼルだ。
 その場にいた者たちはついに彼女の実年齢を思い出した。そういえばハン・ポルラムは二十歳だったと。
「養父のあとをつぎ、今日からわたしがポルラム邸の女主人になりました。よろしくおねがいします」
 家政婦ダルトワとともに前に立つ少女は、しっかりした口調で宣言した。そこに物怖じするようすは微塵も感じられなかった。
 あいさつを終えると、女主人は彼女のために用意された上等な椅子に腰かけた。ここからは家政婦の番だ。ダルトワは執事不在の現時点では、ポワンの台所を除くポルラム邸の屋内使用人を統括する立場にあった。
「前当主ピーターさまがお亡くなりになったあと、一部の部署ではいっとき人員不足に陥りました。ですが、現在は落ちついていますので心配は無用です」
――心配無用だって? 執事候補だった従僕がやめちまったんだぜ? 
 ただ一人残った従僕ラファルグは、壁にもたれかかって腕組みをしながら事態を否定的に見守っていた。
 ラファルグはくせ毛頭をかいた。執事が辞めた場合、次の執事には第一従僕がなるところだ。しかし彼はポルラム邸を辞めてしまった。その次、第二、第三……と候補がいたのだが、たったひと月で五人の上司がみんな辞めてしまったのだ。全員がハンとカーグを嫌っていたわけでもないのに、それは奇妙な出来事だった。
――もしかして、あのかたの計らいだろうか。
 ラファルグにはぴんとくるものがあった。
「ポルラム邸の新しい執事には……」
 ダルトワは眼鏡の位置を直すと、男を招き入れた。それはポルラム邸のだれもがよく知る人物であった。
「カーグ・ソーンさまになっていただきます」
 ラファルグは瞠目した。
 燕尾服姿のカーグは遠慮がちに頭を下げる。ハンは彼に満足げな微笑みを向けていた。
 使用人ホールにどよめきが沸き起こったが、さすが“残った”使用人の集まりだ。どよめきはすぐに消え、文句は飛んでこなかった。
 ラファルグは壁を叩きつけた――。
「どうしたの、ラファルグ」
 ラファルグの憤りに答えたのは女主人のハンだった。瞬時にこれは彼女の仕組んだものなのだと悟る。
「お嬢さま。執事とは、家政婦に並ぶ管理職です。畑違いの家庭教師につとまるでしょうか! 公私混同も大概になさいませ!」
「ラファルグ、あなたはかんちがいしているわ。執事とは、主人が信頼できる者のことです。どんなに仕事ができようとも、わたしを含めここにいる使用人たちはあなたを信用していません。――あなたを見張らせるためだけにカーグを執事にしたといっても過言ではないのよ」
 女主人は整然として立ち上がった。彼女の一言で、背の高いラファルグは一気に周囲の視線を浴びてしまった。にがにがしく舌打ちする。
「さらに、オリアーヌ・ダルコを客室女中としてあなたにつけます。これがあなたをこれからもポルラム邸の従僕として雇うことの条件です、ピエール・ラファルグ」
 ハンの目の色はピーター・ポルラムのそれを思わせた。ラファルグは憤りを飲みこんで唇を噛む。カーグが憐れむようにこちらを見ている――この偽善者が。
 うつむいた顔にまだらなブロンドの髪がかかった。ただでさえ目立つっていうのに、ちくしょう! ラファルグは顔を上げた。
「オレには行くところがありません。この邸で雇ってください。お願いします」
 ラファルグは大きな身体で深々と頭を下げた。
 理不尽な屈辱には慣れきっている。

「あの……ラファルグ。君あてに手紙が来ているよ」
 執事のような仕事をするカーグから、手紙をぶんどった。おどおどしているから余計に腹が立つ。
 身寄りのないラファルグに手紙をよこす人間といったら――。案の定、差出人は書いていなかった。
 素人上司カーグとの慣れない仕事をなんとか終えて、ラファルグは寝室に入った。ふたり部屋だが、となりのベッドは空いたままだ。
 ろうそくの灯りのもと、例の手紙を開封する。一枚の紙と一緒に金貨が入っていた。
 見慣れない金貨だった。ラクダの絵が彫ってあったので、カクタス大陸のものだろうか。カクタスはナールの西にある、海を越えた砂漠の大陸だ。
 ラファルグは眉間にしわを寄せた。自分には縁もゆかりもない土地だったから。
 彼は同封されていた上質な紙切れに目を通した。

『ポルラム屋敷は私の手におちた』

 短い言葉だった。
 ラファルグは金貨を指で上にはじいて、またつかみ取った。
「ははっ、意味わかんねえ!」
 手紙と封筒をろうそくの火で燃やすと、手もとには金貨だけが残った。
――使い道のねえ異国の金貨か。
 まじまじと見つめるが、意味を考えたところで分かりそうにもない。
 ろうそくの火を吹き消して、ラファルグはさっさと眠りについた。

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