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 ポルラム邸の女主人ハン・ヘリオス・ポルラムは応接室の前でためらっていた。
――ザックさんが“わたしの邸”にきた。いったいなんのために。
 ドアノブに触れようとしたそのとき、後ろから低い声が飛んだ。
「さきに入りますよ。お嬢さまは紅茶でよろしかったでしょうか?」
 ふり返ると、ラファルグがティースタンドと二種類のポットを載せたワゴンを押していた。
 ティースタンドにはシェフ自慢の菓子と温室で採れた果物が盛られていた。それに加えてラファルグは従僕として申し分のない美青年。
「かんぺきだわ」
 これならザキルカは認めるだろう、ハンの屋敷が『キメラ』庭園に劣らず一流であることを。女主人は上品に微笑んだ。
「給仕はソーンさんでなくてよろしかったのでしょうか」
「もちろんよ、ラファルグ」
 ザキルカ・ラズリ=キリミネはカーグ・ソーンを憎んでいるのだ。みすみすふたりを会わせるほど愚かではない。
 満面の笑みで従僕を送り出し、女主人はあとに続いた。室内はじゅうぶん温まっていた。静かにドアが閉められる。
 ザキルカは暖炉近くの肘掛椅子に座っていた。
「やあ、ハンナさん」
 厄介な来客は手の平を見せて挨拶した。ハンも同じようにして返す。
――おたがいに腹黒いでしょうに。
 うわべで微笑みながら、女主人の心はぴんと張りつめていた。
「うちにいらっしゃるのはお墓まいり以来ね、ザックさん。電報くらい下さってもよろしかったのに」
「居留守を使われそうだったから」
「まあ、そんなことないわよ。わたしとザックさんの仲でしょう」
 ザキルカはほんとうに意地が悪い。カーグを連れてこなくてよかった。
 従僕がソファーに面したテーブルにティースタンドを載せたので、ハンは「お茶にしましょう」とザキルカに提案した。
 甘いものはぎすぎすした人間関係を少しくらい円滑にしてくれるはず。
 ティースタンドの前に座ろうとしたハンは、短い悲鳴をあげた。
 見慣れたゴブラン織りのソファーには見知らぬ少年が座っていたのだ。小麦色の肌は憧れのピクネシア公女を思わせるが、彼は公女のように洗練されてはいない。だって頭に目の粗い布をぐるぐる巻きつけているのだもの。
 いつかそういう人を絵で見たことがあった。たしか南カクタス――ピーター・ポルラムの母親エリザベスの故郷――の。
 もしかして『お悔やみの手紙』に『エリザベス』の花びらが入っていたことに関係している? カクタスの薔薇『エリザベス』――処罰の薔薇――この少年は処刑人なのかも。
 ハンはザキルカをきっと睨んだ。彼は首を振って肩をすくめた。
「どうしたんですか、ハンナさん。そんな目で見ないでくださいよ。彼は働き口を探しているんです。ポルラム邸で雇ってもらえませんか?」
 穏やかな口ぶりでザキルカは話す。彼の言葉を完全に信用しないよう心がけながら、ハンは異国の少年を見た。
 目が合うと、少年は立ち上がって頭を下げた。律儀だ。清潔そうだし、彼のはっきりした顔に悪意は感じられなかった。
「ラファルグ、彼はうちでやっていけると思う?」
 ハンはコーヒー用の湯を沸かしている従僕に意見を求めた。
「お嬢さまがやっていけると思われるのでしたら」
 従僕はザキルカをかすめ見ながら曖昧な返事をした。――ザキルカの気に障ることが彼の言いたい本音であろう。つまりザキルカの敬愛するピーター・ポルラムへの不満だ。
「そう」
 ハンは女主人として、少年を雇用すべきか考えた。屋内使用人は不足しているが、ザキルカが連れてきた少年である。正常な判断ができなかった。
「あなた。ここはナールだけれど、当家が本国ブリンガル式なのはご存じ?」
 微笑みを作って、ブリンガル語で少年にたずねてみた。
「……ハイ。ポルラム邸、ブリンガル人のシェフ……雇うデスカラ。あの、ポルラム嬢、共通語で話してくれんですか? おいら、ブリンガル語少し分かるんやけど、沢山分からんですばい」
 少年は最初にブリンガル語、次に共通語を話したようだった。ハンは眉根を寄せる。前者は壊滅的だし、後者は訛りがひどくて聞き取りづらかった。
 でもまったく話せないわけではない。愛想もよいし、なんとかなるのではなかろうか。
 ハンは職を求める彼をできるだけ雇ってあげたかった。総督の生誕祭で貧困層を目にしたせいかもしれない。ザキルカが関わっていなければ、ふたつ返事で雇うのだが――。
「ラファルグ、こちらの彼を執事のところへ連れていってちょうだい。ザックさんの紹介ということはふせて。雇用の件は彼にすべてまかせると伝えてちょうだい」
「今でございますか?」
 ラファルグは、さきほどテーブルに置いた客用のコーヒーカップを見た。
 そこには少年の分も用意されていた。コーヒーも飲まずに出て行けというのはかわいそうである。
「では、あなた。さっさとコーヒーを飲んでしまって」
「はい!」
 カクタス人はまだ熱いコーヒーを砂糖も入れずに一気に飲み干した。
 気難しい顔をして腕を組むハンに見守られながら、少年は従僕に連れられて出ていった。
「彼、雇われるといいね。俺なら雇わないけど」
 砂糖少なめのコーヒーをすするザキルカに、ハンは苦笑した。
「だったらなぜ連れてきたの」
「彼、趣があるでしょう。隻眼はミステリアス、錆びた銅を思わせる髪色は退廃的で、ポルラム邸にぴったりだと思いませんか? 甘美な阿片漂うポルラム邸に」
「思わないわ」
 ハンはうんざりといった風に首を振り、腰を下ろした。
「パパに似てきたわね、ザックさん。わたしには理解できないわ」
「光栄だな。俺は貴女以上にポルラム邸を愛していますからね。貴女もまたその一部」
 養父の弟子はハンの容貌を慈しむように眺めた。まるでハンのすべてを見透かしているかのように。
「からかわないでちょうだい!」
 皮に飾り切りのほどこされたオレンジを一切れ取って、小皿に載せた。それをザキルカに勧める。
「俺に?」
 ハンはうなづいた。
 スミレの砂糖漬けを口に入れて、甘みを味わう。気持ちを落ちつけるためだ。
「ザックさん、わたし一人になった今のポルラム邸は美しいかしら?」
 じっとザキルカの答えを待った。
 脚を組みなおして、ザキルカは神妙な面持ちになる。
「認めたくないけれど、酷く美しい。――師匠が生きていたときよりも」
「そう」
 喪服の女主人はさびしそうに微笑んだ。

 フロランタンをつまみながらミルクティーを口にふくんで、ハンは幸せを感じていた。ザキルカはキュウリのサンドイッチをひとつだけ食べた。――彼も甘い菓子を食べれば性格が丸くなるだろうに。
「さてと。もう帰ります。用は済んだし」
 コーヒーを飲み終えるとザキルカは黒革の手袋をはめた。
「あら、もう少しお話したかったのに残念だわ。すぐお帰りの用意をさせますから、待っていて」
 心にも思わない台詞を口にして、ハンは使用人を呼ぶベルを鳴らした。
 しばらく待っていると使用人が入ってきた。しかしハンが予想していた従僕や客室女中ではなかった。
「まあ、アンドレ!」
 応接室に入ってきたのは園丁頭のアンドレだった。
 彼とは一時間半前にペガーズ馬車で空中散歩したばかりだ。空からポルラム庭園を眺めていたときに、やってくるザキルカの馬車をふたりで見つけたのだった。
「アンドレさん、お会いしたかった!」
 ザキルカは歓喜の声をあげた。彼はポルラム庭園をピーターとともに築きあげた園丁頭のファンなのであった。すぐさま駆け寄って、強引に握手する。
「私もお話がありまして。ザキルカさま」
「ええ、なんでしょう」
「まあ、お座りになってください」
 急に若者らしい輝きに満ちているザキルカを初老の男はティースタンドの前に座らせた。
 アンドレに促されてハンとザキルカはティータイムをやりなおすことになった。アンドレが三人分の紅茶を淹れているあいだ、ハンは三個目のフロランタンに口をつける。そこで先日の新聞記事を思い出した。
「そうだわ、ザックさん。伯父さまとお母さまは?」
 身を乗り出して友人に訊ねる。
「ああ、伯父はシルゾルトに帰りましたよ。社交シーズンですからね。母も一緒に帰ってくれたらよかったのに。俺が結婚するまでナールに居すわるつもりなのかな」
 ザキルカは脚を組みなおして苦く笑った。
「お母さまはまだ田園屋敷に滞在なさっているの?」
 新聞で見たのは、ハンとカーグが探りを入れているザキルカの田園屋敷のことだった。そこにザキルカの母親が住みつけば、探りづらくなってしまう……。
「だったらいいんですけどね。あの田園屋敷は伯父のだから。それで街屋敷に母子ふたり暮らしですよ」
 言葉を吐き捨てて、ザキルカは苦い笑みで肩をすくめた。
 ――よかった。ハンは小さな胸を撫で下ろす。
「今までほっといたくせに、シルゾルト公女と婚約したとたん干渉しだすんだもんな。うるさい母親で困りますよ」
「親孝行のいい機会ではないですか」
 外からアンドレが大人の意見を投げた。ザキルカはワゴンのほうに目を向ける。
「いや、無茶言うんですよ。社交界に顔を出せと言いながら、大学は卒業しろと言うんです。彼女にとって俺は可愛い息子ではなく、ラズリ=キリミネ家を繁栄させるための手段なんです」
「ザックさん、大学に行っていなかったの?」
 心からの驚きを発すると、伯爵の三男はわずらわしそうに眉根を寄せた。
「だって俺、中等学校……退学しているから。それが母に知れてしまって。災難でした。彼女ご丁寧に、裏から手をまわして大学に入れてくださるそうですよ」
 ハンは頭に手を添えて、ため息をついた。
「辞めてしまったの? そうね、一昨年あたりからそのような気配がしていたわ。でも大学に入れてもらえてよかったじゃない、ザックさん」
「最悪だよ。なんとか寮生活を免れたからいいものの」
 ハンは、十三歳のときのザキルカをふと思い出した。「寄宿生活は嫌だ」と泣いていたことが懐かしかった。長期休みになるとポルラム邸に帰ってくるのだが、休みが終わると駄々をこねてピーターを困らせた。
 母親の小言や学校の話をするザキルカは、可愛い少年に戻ったようだった。ピーター・ポルラムが亡くなったあの日までは、彼は年下の自慢の親友だったのに、どうして腹の底で憎みあう関係になってしまったのだろう。
「厳しい寮生活があって紳士ができるんじゃないかと思いますけどね。これまでは家を継がない気ままな三男だったかもしれませんが、今は違うでしょう。公女殿下と結婚し、ゆくゆくはシルゾルトを支える立場になられるのですよ」
「でもね、アンドレさん。俺は錬金術師なんです。寮生活なんて俗世間に触れてしまったら、錬金術師は終わりですよ。錬金術師というのは、本来孤独な職業なのです。ピーター師匠みたいに研究所に属さないで人里離れたほうが、感が冴えるんです」
 アンドレの正論に、ザキルカが子どもっぽく屁理屈を並べ立てる。ハンはあきれて笑った。感傷にひたるハンの心を第三者の存在が癒してくれたのだ。
 アンドレは紅茶を配るとハンの隣に腰を沈めた。
 さすがはポルラム邸の枠に収まらず北世界中を飛び回る天才園丁である。どっしりと座るさまや眼鏡の位置を直すしぐさひとつにさえ、大物の風格が感じられた。
 アンドレはハンにとっては親しみやすいおじさんだ。しかし、彼を惚れ惚れと見つめるザキルカの瞳が、ハンにアンドレの凄さとポルラム庭園の素晴らしさを思い出させてくれた。
 ティーカップを置くと、アンドレはできる職人らしく簡潔に本題を切り出した。
「先月、ピーターさまのお墓参りをしてきました。あの鉄柵は機能的には良いかもしれません。ですが、ピーターさまは窮屈なさるでしょう。ザキルカさまらしくもない」
 ハンは声を失った。
 墓荒らしのあと、ピーターの墓周辺に鉄柵がつけられたことは知っていた。ザキルカは墓を荒らした犯人に感づいたであろう。だが黙っている。なぜ? どうして? なんのために? ――分からなかった。
 口もとに手を添えてザキルカから顔を背けた。身体中が動悸に支配される。頭の中が真っ白になった。
「あなたがピーターさまをお慕いしているのはよく分かります。服装も以前より地味になりましたが、それは喪に服しているのでしょう? お墓の所有権を手放せとは言いません。別の、もっと広くて静かな土地に移されてはいかがですか?」
――今、頭が真っ白になっているのはザキルカだ。
 途端にハンの脳内は鮮やかな色を取り戻した。
 ザキルカの顔はひきつっていた。彼は駄々っ子のように頭を揺すった。
「やめてください、やめてください! お願いですから。そんな話も聞きたくありません。彼の死が現実味を帯びるのは嫌なんです。やめてください。お願いですからそっとしてください」
 まるで精神病者のようだった。ザキルカはアンドレの背広の襟を強く掴んでいた。アンドレの眼鏡がずり落ちる。
 アンドレは憐れみの目をザキルカに向けた。
「わかりました。あなたがピーターさまの現実を受け入れる日まで、待ちましょう」
 ピーターなのかはっきりしない顔の潰された死体を守るために――いや、ピーターの死の真実を隠すために。
 ここまでの演技をするザキルカに戦慄が走った。
 ザキルカに「ピーターは生きている?」と訊きたかったが、もうできない。彼が可哀想だ。
 ポルラム邸を愛するゆえにピーターを殺してしまったザキルカは、自分が犯した罪を直視することができない。事実を否定したくて、死体の顔を潰したり他人に罪をきせようとするのだ。
 彼は壊れるほど苦しんでいる。もう十分ではないか。

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