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 朝八時。軽やかな足音が階段を上がり、廊下を進んでやってくる。
 女主人ハン・ヘリオス・ポルラムはベッドの中で寝返りをうった。
「おはようございまーす、お嬢さま!」
 ノックの音に返事をすると、客室女中のオリアーヌが喪に服す私服で入ってきた。その装いは彼女がハンの侍女だったころ――ユリエの死後からつい二か月前まで――を思い起こさせた。
「夜更かしも結構ですが、遅刻してしまいますよ?」
 小さな女主人はもう少し夢うつつを堪能していたかったが、オリアーヌが強迫するのでしぶしぶ上体を起こした。今日は研究所で検査をする日だ。ハンの管理責任者ザキルカは、前任のエマよりも時間に厳しかった。
 女主人は半身を起して柔らかなクッション群にもたれかかる。サイドテーブルに置かれたカップの持ち手を上品につまみあげて、ベッドの中で甘くほろ苦いコーヒーをすすった。
 寝ぼけまなこの視界が澄んでくると、前当主ピーターの車椅子や彼の妻ケイトが使用していた鏡台が姿を現した。ちなみにいま着ているネグリジェは彼の娘ユリエが使っていたものである。
 家族の遺品に囲まれながらハンはコーヒーを飲みほした。
「まあ、研究所がいやなのは分かりますけどね。異性に身体を調べられるなんてぞっとしてしまうわ」
「いえ、ザックさんはわたしを女として見ていないから、その点は問題なかったわ」
「それも嫌ですね」
 眉を歪めてくちびるを弓なりにしながら、オリアーヌは新聞をあるじに手渡した。
「慣れてしまえば傷つかないわ。ザックさんもエマ先生とおなじ研究者なのよ」
 温かさの残る新聞にハンは夫の温もりを感じた。“傷ついている”ハンの心を癒してくれるのは、彼しかいない。
 乾いた新聞を広げながら、カーグがアイロンをかけているさまを思い浮かべて優しい気持ちになった。まだ朝だが、早く夜にならないかしら。彼に女主人ではなく妻として会える秘密の夜が待ち遠しかった。だからハンはこのごろ夜更かしぎみになってしまうのだ。
「カーグさまのことを考えていらっしゃるのですか?」
 心を読んだようなオリアーヌの言葉に、心臓がどきりとした。彼女は女主人と執事が夫婦であることは知らないはず――。でも冷静に考えてみれば、彼女はハンとカーグの兄妹仲がとてもよいことを理解している使用人だった。
「ええ、“お兄さま”のこと。おたがい女主人と執事になって、彼が遠くなってしまったようでさみしいわ。だから研究所はよい気分転換なのよ」
 妹としての台詞に妻としての思いを乗せて、ハンはまぶたを軽く閉じた。

 郊外のさびしい道を進むうちに、ピクネシア・ショール=シルゾルトはだんだん不安になってきた。乗りこんだときはたしかに晴れていたのに、馬車の外には暗雲が垂れこめていた。
「おやめになりますか、お嬢さま」
「いいえ。予定通り決行いたしますわ」
 臆病な心を察した男従者の一人が平穏への道しるべを示すと、令嬢はより反発の炎を燃え上がらせるのだった。そういうやり取りを車中何度か繰り返した。
 ナール研究所の敷地は有刺鉄線で厳重に囲まれていた。まるで奴隷収容所のようであり、そこに非道性を感じずにはいられなかった。不快なものをピクネシアはうつむいてやりすごした。
 御者が裏門に質素な箱馬車で乗りつけたとき、令嬢の血色はやや控えめになっていた。彼女は深く息を吸って吐いた。
 少年に扮したピクネシア公女が運搬業者に扮した従者を引き連れて、ナール研究所に侵入する。そんな考えが浮かんだのは、婚約者ザキルカのことをもっと知りたいからだった。彼が好きだからではない。得体のしれない人と結婚するのが不安だから知りたいのだ。周囲によって勝手に決められた婚約に、ピクネシアは納得しきれていなかった。
「行きますわよ」
 研究所の表から公女として訪問するならば、ザキルカは事前に対策を練ってしまう。だから変装して裏口から突然現れることにした。しかし公女の身分を伏せることは、公女として保護される権利を放棄することに繋がっていた。この少年労働者の姿では、すれ違う白衣の研究員もへこへこしたりしなかった。
 裏庭を三分の一歩いたところで、ピクネシアの視界の端を見たこともない大きな化け犬が横切った。公女は脚をすくませて、従者が着ている外套のすそをつかむ。
 三つ頭の犬のような生物は、容易に人間の肉を噛みちぎれそうな牙のあいだからよだれを垂らしている。唸り声の不協和音からして危険な害獣である。そして、それを鎖につないで涼しい顔で連れまわす研究者もまた不気味であった。
 いったい研究所はあんな化け物を生み出して、どのような利益を得るのだろう。馬に翼をつけるのは乗り物としての利便性を追求するためだと、渋々だが理解できる。しかしあの獰猛な化け犬は、この世にいないほうが人類のためであろうに。
「あれがザキルカ所長の頭の中なのでしたら、あたくし……あたくし……」
 両手を口もとへやり、ピクネシア公女は涙目になった。従者がふたりがかりでなだめる。
「ご無理をなさらないでくださいませ。おやめになりますか?」
「いいえ」
 かよわい令嬢は今にも失神しそうだったが、持ち前の負けん気だけで首を振った。
 化け犬の散歩が通りすぎるのを待って、ピクネシアはふたたび歩きはじめた。ときどき物陰に隠れながら、一国のあるじの娘とは思えない忍び走りで進んでいった。
 心臓はばくばくしていた。裏口までのそれほど遠くもない道のりが、不安により何十倍にも感じられた。
 鳥打帽のつばで目鼻を隠しながら、ピクネシアはすぐそこにそびえる巨大なレンガ造りの建物を見上げた。学校か病院か、はたまた、いかにも黒魔術的な建物などを想像していたが、煙突から黒い煙を吐き出すそれは工場に近かった。ナール研究所は「『キメラ』工場」と言い換えてよいかもしれない。
 特殊な施設ではなく工場の一種だと思えば、心は少し軽くなった。ザキルカ所長は工場長みたいな仕事をしている、それならば受け入れられそうだ。
 でもやはり、工場だと思いきれない部分があるのが本心である。しかし、今はそう思わねば中に入る勇気が出なかった。
 見張りの者は疑いもせずに鉄の扉を開いてくれた。薄暗い中で、板張りの廊下は一歩を踏み出すたび軋んだ。
 悪霊がすみついていそうだなどと思っているそばから、雷鳴がとどろいた。強い雨がふりだし窓ガラスを叩きつける。ナールの天気はいつもぐずついていて通り雨も多いから、とくに気にすることはないだろう。しかし、雨粒が落ちるみたいにピクネシアの心はまた重くなった。
 窓ガラスから中庭が見えると、ピクネシアはあわてて窓の下に隠れた。窓枠からそろりと両目をのぞかせる。
「お嬢さま、どうなされましたか?」
 彼女の動作につられて素早く屈みこんだ従者は小声でたずねた。
「脚を怪我いたしましてよ――という演技ですわ。窓際のあたくしを隠すように、カルロは腰をかがめてエンリーコは立っていてくださる? 殿方がふたりもしゃがんでいては、あやしまれますわ」
 ふたりの従者は役名――今朝つけられたばかりの――への命令に従い、さっと配置についた。ピクネシアは中庭のほうへ視線を戻した。ひとが傘をさしていないので、雨はあがったようだ。
「ザキルカ所長が中庭の向こうの廊下の窓にもたれていらっしゃるわ」
 雨粒のついた窓ガラスを上に押しやってから素早くしゃがみ、ピクネシアは目をこらした。白衣姿の若い男性が黒いドレスの小柄な女性を連れている。
「あちらの窓ガラスが不鮮明なので私には確認できませんが」
 エンリーコがあるじの上から苦笑いを浮かべる。
「女の勘ですわ。正しければ、あの女性は養父を亡くした不老人間ですわ」
 不老人間とおぼしき女性はまるで工場長の奥方のように気品ある身なりをしていた。
 公女がみすぼらしい少年の格好をしてドレスで着飾った不老人間を見ている。――不思議な感じがした。
 ザキルカは女性の華奢な肩に手をまわして歩みはじめた。ピクネシアの心はちくりと痛んだ。
 彼女はそっと左手の薬指にはめた婚約の証をさすった。ザキルカの瞳と同じ色の宝石――ラピス・ラズリ――が一粒ついたシンプルな指輪だった。
 結婚の保証が指輪ひとつしかないだなんて。不安定な婚約に十六歳の少女ピクネシアの心は沈みがちだった。

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