-2-

 白い前腕に透ける青い筋がくっきりしているのを確認して、ハンはため息をついた。
「ありえないわ」
 またザキルカは採血を失敗した。細腕にはこたえる痛みである。針の跡を隠すように、まくった袖をそろそろ下ろした。
「ごめんなさい。けど俺は錬金術師であって、医師でも生物学者でもないですからね」
「でもあなた、わたしの管理者でしょう? エマ先生はきれいに採血するわよ」
 いつもと同じ言い訳をするザキルカにはあきれる。それが表情に出てしまうのをハンはあえて隠さなかった。
「ホールデン博士は医師よりの人じゃないですか。――分かりましたよ。次回までに練習しておきます」
 ハンの真顔から「いつでも前任のエマ先生にもどせるのよ。だってわたしは保護される存在なのだから――心身の健康被害をうったえる義務があるでしょう」という脅し文句を読みとったザキルカは、素直に技術不足を認めた。しがみついてでも「ハンの管理者」という立場についていたいらしい。
――わたしを手中に収めておきたいから。
 ザキルカの思惑をうたぐり深い目で見つめて、席を立った。
 ポルラム博士やエマと同じ“研究者”のくせに、ザキルカは材料としての人間の扱いに慣れていなくて――まるで人を殺したことがないかのように清らかなふりをする。『キメラ』研究の対象も鉱物や植物であり、彼の研究室はエマのそれより血なまぐさくなかった。
――ぜんぶ演技でしょう? あなた、ひとを殺したでしょう?
 ザキルカは奥深くにある悪い心を上手に隠しているのだ。実際、彼は世間での評判がよかった。
「エマ先生のところに行くわね」
「俺にも出来ます」
 去ろうとするハンの腕はとっさにザキルカにつかまれる。男の腕力だ。まっすぐな瑠璃の瞳がこちらを見つめている。
 頬にうっすら赤みが差して、少女は唇を甘く噛んだ。
「なにをいっているの、ザックさん? わたしは娼婦ではないのよ。“淑女”が夫でもない男性の前でやすやすと……」
 そう言いながらも、彼に「女として見られていた」という事実はほんの少しだけ嬉しくもあった。だって「女として見ていない」なんて言っていたから――
「淑女? こっちは人間だと思っていないから、恥ずかしがることはないよ。ハンナさん。『キメラ』に欲情するほど――」
 刹那、ぴしゃりとザキルカの頬を叩いた。
「ばか! わたしは誇り高い淑女よ。あなたができるのは採血までよ」
 ハンは一歩身を引いた。
「そ、それにこのドレスはオリアーヌでないと脱ぎ着できないのよ」
 平手打ちされた頬を触りながら、青年は皮肉めいた笑みを浮かべる。
「着飾って、侍女を連れてきて。淑女の真似なんかして。どうしてそんなに見栄を張るんですか。あなたはここでは『エリクシール』でしかないのに」
 肩をすくめながらザキルカは酷い言葉を吐く。首を振って、ハンは全力で否定した。
「淑女よ。わたしは淑女なの! ご婦人の自尊心を傷つけたことを次回までに反省してちょうだい」
 優美な刺繍の施されたドレスのすそを引きずりながら、ザキルカの研究室をあとにした。
 けっして下を向くまい。

 ハンは人間ではない。どうにもできない現実をつきつけられて負った深手から、あふれ出した涙はまだ止まらなかった。ハンカチは涙を吸いすぎて、もう拭くところがない。
「泣かないで、ハン」
 頃合いを見て、かすれた低い女声がかけられる。これで何度目かの優しい命令には、諦めの色が混じっていた。
 それでもハンが静まらないでいると、かたわらでジャガイモの唐揚げをかじる音がして、ぼやき声が聞こえた。
 ハンは顔を上げた。腫れた目でエマの教え子を見る。――彼が母国語で悪態をついたから。
「サイちゃんはカクタス人だったわね」
「もうナール人だよ」
 少女と見まがうカクタスの少年がつまんでいる揚げジャガイモには、砕いた角砂糖がふんだんにまぶしてあった。
――おいしいのかしら。
 それの味がハンには想像できなかった。きっと、ナール人とは味覚が違うのだ。――おとといの晩餐で食べたカクタス流のカリーは変わった味だったっけ。
 口もとに指先を添えて、おかっぱ頭の少年をまじまじと見つめた。サイ・A・ユーリはエマが拾ってきた脱走奴隷である。彼の赤い瞳にはカクタス人特有の野心の炎が静かに燃えていた。
 そしてそれは、ザキルカが連れてきた使用人の瞳の中にも見られるものであった。
「サイちゃん。わたし、このあいだカクタス人を雇ったの」
 涙を忘れて、ハンは心のすみに残っている不安を口にした。
「ポルラム邸に?」
 スプーンのへりで角砂糖を崩しながら、サイが訊きかえす。女主人はうなづいた。
「もちろんほかのお屋敷よりもお給金をはずんで。立派なお仕着せも着せて」
 紅茶の赤く透き通った円になんとなく視線を落とす。
「それは間違ったね。カクタス人なんて信用できないよ?――ボクは特別だけど」
 少年はおどけたように肩をすくめた。
「盗難にあって泣き寝入りするのがおちだね」
 あんのじょうサイの感想は否定的だった。ハンはため息をついた。
「でも、いまのところはカーグが見てくれているし、なにもないのよ」
「ばかだなあ。そうやって安心させて、気が緩んだころにくすねてずらかるんだよ。もう少し人を疑ったほうがいいよ」
「そういうものかしら」
 女主人は小姓ショウ・カミルファンについて考えてみた。
 鬱々としたポルラム邸に彼は新鮮な風を通した。とりわけシェフから評判がよかった。晩餐にカクタスのカリーが登場したのは彼の功績のひとつである。力仕事をなんなくこなす彼は家女中たちから重宝がられているそうだ。
 彼はポルラム邸によい影響をもたらしている。疑うところがなかった。
 そもそも高い給金と十分な食事、さらに自分の部屋まで与えられて、これ以上ショウはいったいなにを望むというのか。
――もしわたしだったら。
 人間として認められたい。カーグと結婚式を挙げたい。だから淑女になりたい。本物の淑女に。
 おもむろに顔を上げた。
「もしかしたら、りっぱなお屋敷につとめながら家柄のよい女性――侍女とか――と結婚したいと考えているのかも」
「それ! ハンにしてはまともな考えだね……って、そのカクタス人若い男なんだ?」
 いったい角砂糖を何個溶かしたのか。溶けきれなくてどろどろしている紅茶をちびちびすすりながら、サイは人差し指を突きつけた。
「ええ、そうよ。十七歳」
 サイの指先が鼻頭近くにきて、ハンは背もたれに背をつけた。
 愛らしい猫のような瞳が横に広がった。
「ハンとの結婚をねらってるのかもよ。ポルラム邸の主人の座をね。ぼくならそうする」
 ハンは息を吐くのを三秒ほど忘れた。言葉とともに吐き出す。
「まさか。サイちゃんではないのだから、うちのショウにかぎってそれはないわ。それにわたし……好きなひとがいるもの」
「信用しきってるじゃん! 危ないなあ、もう騙されてるよ。金目当てなんだから、ハンの気持ちとか色気の無さとか関係ないし」
「い、色気がないですって!」
 顔を真っ赤にして立ちあがると、昼間のパブにいた不良っぽい男たちなどが一斉にこちらを見た。サイが子どもらしくない冷静さで彼らの注意をもとに戻す。ちぢこまるようにしてハンは席についた。
 かしこいエマの教え子は木目に片手で頬杖をついた。
「好きな人ってカーグさんでしょ」
 おもわず紅茶をこぼしそうになった。心臓がばくばくしている。
「なぜしっているの!」
「だってハン、分かりやすいから」
 サイはお嬢さまのように淑やかに指をそえて笑ったあと、眉をひそめてハンを見た。
「カーグさんもカクタス人と一緒だよ。騙されてるんだよ、ハン」
 深刻そうに話す彼に、ハンの目頭が熱くなった。
 サイはかつてピーター・ポルラムが屋敷に連れこんでいた奴隷の子どもの一人だった。だからピーターとカーグの愛人関係を知っていた。そしてザキルカ同様、ポルラム邸でのカーグの立場を訝しんでいた。――カーグがピーターの財産目的で春を売っているのだと。
 首を振って、ハンは澄んだ強い目で相手を見た。
「カーグはわたしのために身を投げるひとよ」
――わたしのためにお墓を荒らし……地獄へも行ってくれるひと。
「彼にとってわたしは生きるすべてなの。わたしがいないと彼は死んでしまう。彼はお金も名誉もなにもいらない。わたしがほほえむだけでよいの、それだけ」
 ハンは小さな胸に手を当てて、満ち足りた顔で誇らしげに言った。
 自分の言葉に酔っていた。あふれる愛を与えてくれるカーグと夫婦になれた幸せを、目をつむってハンは感じた。
「カーグさん、ハンの奴隷みたいだね」
 冷や水のようなサイの言葉に、ハンは両手をついて立ちあがった。口をつぐんでパブをあとにする。
 あわてて本や紙の束をかき集め、サイはハンを追いかけた。
「ちょっと! ハン、なに怒ってるのさ!」
「おこっていないわ。エマ先生のところへ行くの。もう泣きやんだから平気よ」
 ハンは前方だけを見つめながら、早足で廊下を歩いた。
「奴隷ではないわ。カーグはわたしを愛しているの。わたしも同じだけ愛している」
 階段を下りきったところで、ちらりとサイを見て言った。そしてまた黙りこんでウロボロスの絵が描かれたドアの前まで歩いていった。
「あんた、それ、もしかしてピクネシア公女じゃないの?」
「そうですよ。今話題の『ピクネシア人形』です。よかったーピクネシアさまに似てきて」
「なんで手縫いなんだわさ。けちくさいわねー。まさかそれあんたの?」
「いいえ。ハンさまのですよ。手縫いのほうがあったかいでしょう?」
 エマとオリアーヌの楽しそうな会話が聞こえてきた。ザキルカの検査のあいだ、エマの研究室にオリアーヌを待たせているのだ。
「『ピクネシア人形』ってちっちゃい女の子に人気のやつだよね。ハン、使用人に人形作らせてるの?」
 心の奥深くをかきまわすような、いちいち癇にさわるサイの問いには答えない。
「あの子、あの歳で?」
 さすがは師弟だ。中から聞こえてくるエマの笑いまじりの言葉も、彼女の教え子に似てデリカシーに欠けていた。
「『ピクネシア人形』ってたしか大人向けのが出てるでしょ? 焼き物のー」
「ビスクドールですか?」
「そうそう」

「ビスクドールは割れますでしょう?」

 オリアーヌの何気ない一言が、ハンの心臓に突き刺さりそのままとどまっていた。
 ふたりの会話は「ハンの持っている人形について」へ移っていったが、ハンのドアノブにかけた手はしばらく震えていた。
「どうしたのさ? ハン。はやく入りなよ」
 話題が人形から遠ざかるまで待っていたが、相性のよいふたりの盛り上がる会話はなかなか終わりそうになかった。ハンは見切りをつけてドアノブをひねった。
 ノックを忘れていたハンに代わって、サイが「先生、入りますよー」と声をあげた。

Return to Top ↑