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 ザキルカ・ラズリ=キリミネは灰色の曇り空に向かって紫煙を吐いた。
 ふと廊下を見ると殺伐とした研究所に華が咲いている。
 金髪美女の上半身は横に並ぶ窓ガラスを左から順に移っていった。あれはハンの侍女オリアーヌだ。
 彼女は一人だった。そして目的を決めずに――両腕でトランクを抱きしめながら散漫と歩いていた。そのさまは、まるで人生に別れを告げに行くひとのよう。ザキルカは紙巻きタバコを枯れた雑草に落としてブーツの裏で踏みにじり、駆けるように中庭を出ていった。
 板張りの廊下を力強く踏み出すと、ちょうどオリアーヌの進むさきへ回りこむことができた。彼女はザキルカに気付くなり歩みを止め、微笑みとともに会釈する。
「オリアーヌ……ハンナさんの侍女を連れてどこへいくんだい、サイ君」
 質素な喪服の影に白衣の少年がちょこまかしているのを見つけ、ザキルカは心中で舌打ちした。せっかく美女とふたりきりだと思ったのに、なんて邪魔な小僧だろう。
 サイは悪びれもせずに、わざとオリアーヌの黒い袖にひっついて猫なで声を出した。
「連れてちゃ悪いですか? ハンの機嫌が悪いから連れ出したんです。所長、心当たりありませんかあ?」
「いいや、別に」
 エマに“期待された”少年は薄笑いを浮かべ、色素の薄い赤眼でじろじろ見てくる。“期待されていない”青年は冷めた目でそれを見返した。
「いいのよ、サイくん。私のせいだと思うので気にしないでください、ザキルカさま」
「いいえ、オリアーヌ。俺に非があると思う。そういえば、貴女のあるじを傷つけるようなことを言ったような気が……しないでもなかった、かな」
 こほんと咳ばらいするザキルカに、オリアーヌはうつむいた顔を上げてにっと笑う。釣られてザキルカも歯を見せた。
――ここから恋が始まるかもしれない。
 オリアーヌは『キメラ』の侍女にはもったいない。レンズ越しの眼は美しい女性から焦点を外さなかった。下から不審そうに覗きこむ赤目が視界に入るまでは。
 眉根を寄せる。――とりあえず、このうっとうしい少年を追い払わなくては。ザキルカは曲がり角をあごでしめした。
「サイ君。オリアーヌさんは俺が看ているから、君、ホールデン博士のところへ帰っていいよ。有望な少年が貴重な一日を無為に過ごすものではない」
 すると、女性のように髪をかきあげる仕草をしてサイは意地悪く笑んだ。
「下心まるだ――」
 ザキルカは壁とのあいだにサイを挟みこみ、彼の柔らかい頬を指でつまみあげた。ハスキーボイスの語尾がぷにゅっとした。
「お前はいちいちうるさいな。研究所から追い出すぞ」
 所長の自己中心的な権力行使に屈して、少年は無言で首を縦にふった。
 その様子がザキルカの後ろ姿に隠れて見えないオリアーヌは小首をかしげた。走り去っていくサイをきょとんとして見送ったあと、からっとした苦笑いを浮かべた。
「ザキルカさま、私一人で大丈夫ですよ。中庭のベンチで縫い物してます」
「だめだよ。君は美人なんだから男だらけの研究所に一人でいては危ない。所長室にくるといいよ」
「いえ! ありがたいですけど、私意外と図太いですし、大丈夫ですから!」
 ザキルカが一歩寄るとオリアーヌは一歩下がった。彼女は彼を警戒しているようだった――ハンやエマに「女癖が悪い」などと吹きこまれたに違いなかった。
――ころっと騙されそうな軽い女だと思っていたのに。
「ザキルカ所長。どちらのご婦人ですの?」
 肩をすくめていたザキルカは、聞き覚えのあるソプラノにぎょっとして顔をあげた。頭の中が白くなった。
 目の前に、鳥打帽をかぶり少年のような格好をしたシルゾルト公爵令嬢――婚約者が腕組みしながら立っていたからだ。
「こ、これはこれはピクネシアさま。お会いできて嬉しく思います。……で、こちらの女性はですね」
 青年は冷静さを失ってどもりながらも、弁解を試みる。
「ハン・ヘリオス・ポルラムの侍女で、ええと、その、ハンについて話してもらおうと――」
「そう、あなた侍女ですの?」
 ザキルカの話の途中からピクネシアの興味はオリアーヌへと移っていた。公女が上品に微笑みかけると、侍女は抱えていたトランクを落としそうになって片手に持ち直し、腰を低めて挨拶した。
「ハン・ヘリオス・ポルラムさまの侍女のオリアーヌと申します。お目にかかれて光栄でございます、ピクネシア殿下」
「侍女ですの……では、そのトランクの中には“彼女”の身づくろいの道具が?」
 未知なるものを見るように、ピクネシアはハンの侍女とトランクを眺めた。
 オリアーヌは相変わらず空っぽの頭でにこにこしているが、ザキルカはピクネシアの心に生じた違和感を見逃さなかった。
「はい、ブラシとか香水とか――あっピクネシアさま! 縫いかけのピクネシアさまのお人形があるんですけど、ご覧になりますか?」
 オリアーヌは公女殿下と気軽に話せる立場ではない。なんて出しゃばりで非常識な女だ、とザキルカは思った。しかし一国の公女は下々の民に対して寛容らしく、オリアーヌの申し出に微笑んだ。
「流行の『ピクネシア人形』ですわね。見せてくださりますか?」
「はいっ!」
 非常識な侍女は元気いっぱいに返事して、廊下に背をつけている椅子のひとつにトランクを載せて開いた。
――ばか。
 手縫いの縫いぐるみが姿を現すと、ザキルカは黒革の片手で視界を覆った。
「あら、可愛らしい縫いぐるみだこと。あなたが縫ったのでして?」
「ピクネシアさま、お世辞なんていいんですよ。そんな子どもじみたものにお相手なさらなくても」
 ザキルカが割って入るとピクネシアは不快そうに彼をにらんだ。
「研究所の所長というのは心臓が凍っていらっしゃるのかしら。オリアーヌさん、その縫いぐるみ、あたくしにも作っていただけますか?」
「はい! 喜んで!」
「嬉しいですわ。あたくし、ナールの別荘に『ピクネシア人形』専用のお部屋を作らせましたのよ。色々な種類を揃えたいと思っていますの」
 予期せぬ公女殿下のお言葉に、オリアーヌは舞いあがって顔を明るくした。ザキルカはふたりのやりとりにため息をついた。
「素人が作った人形までも集めていらっしゃるのですか? ピクネシアさま」
「ひどいですわ、所長。あたくしのお人形が出回るだなんて、もう二度とないかもしれないでしょう? あたくし、記念に集めているのですわ」
 ピクネシアが子どもじみたハンと重なり、ザキルカは内心あきれつつ作り笑いでうなづいた。

 ドレスに着替えて真の姿に戻ったピクネシアは、向かいのザキルカがコーヒーカップを置くのを待っていた。
「不老人間の」
 タイミングを見計らって公女は切り出した。
「ハン・ヘリオス・ポルラムですか?」
 ザキルカは指を組みながら、薄笑いを浮かべた。
「ええ、そうですわ」
 ピクネシアは緊張していた。ハンは侍女をもつ淑女である。その彼女に親しげに密着していたザキルカがいまだにピクネシアの脳裏に焼きついていた。
――彼女は本物の人間ではないはずなのに。
 仮にザキルカがハンに心を寄せていたとして、彼女は人間ではないのだから、どうして傷ついたり嫉妬したりするのだろう。自分はハンを淑女だと――不老人間を「創造主が生みだした完璧な生命」だと――認めてしまっているではないか。
 唇をかんだ。ピクネシアは自分が抱いた感情が許せなかった。
 ザキルカの左手の薬指には銀の指輪がはめられていた。黒目がちな瞳で何度も彼の指に輝くブラック・トルマリンを確認するが、安堵の息はつけない。ピクネシアは始終、ラピス・ラズリを指でさすっていた。
 思いきって聞いたほうがよいのかしら。「あたくし、見ましたのよ。あなたが彼女の肩に手をかけているのを」と。
――あれは浮気なのだろうか。
 ピクネシアはラピス・ラズリの瞳に見つめられて、微笑んだ。言葉がくちびるの内につっかえてなかなか出てこない。
 怖いのだ。彼が「そうだよ」と言ったらどうしよう。ピクネシアは公女であるまえに十六歳の少女だから、それがとても恐ろしかった。母のような、「夫に愛人がいても平気な妻」の気持ちなんて理解したくもない。
 か細い両指は震えていた。
「聞きそびれていたけれど、男装なさっていた理由を教えて頂けませんか?」
 沈黙に耐えかねたらしい年上の婚約者がたずねた。公女の胸の鼓動が大きくなる。
 訊くなら今だろう。「あたくし、見てしまいましたのよ。あなたがハン・ヘリオス・ポルラムの肩に――
「わ、あたくし、印象派絵画を観てきましたの。その感動を真っ先にあなたに伝えたくて変装して参りました。驚かせてしまってごめんあそばせ。公女として訪問すると色々面倒でしょう?」
 ピクネシアの口をついて出てきたのは、あたりさわりのない世間話だった。
「そうですか! 俺が印象派画家に目をかけているのを知ってですか? それは嬉しいな。今を時めく公女殿下がご観賞になれば、印象派も世間に受け入れられるでしょう」
 ほら、ザキルカも喜んでいる。よかった。本当のことを言わなくて。
 ザキルカはソファーの背もたれ越しに、暖炉の上に飾ってある印象派絵画を指さした。緑色と一口には言えない黄色や水色の筆致をはらんだ庭園らしき絵だった。正直、ピクネシアには印象派の良さがまるで解らないのだが、理解した風を装ってうなづいた。
「本当に美術がお好きなのですね」
 子どものように瞳を輝かせてザキルカは振り返った。片方の肩をすくめる。
「キリミネの血が流れていますから」
 そして切れ長の目を細めて、青年は少女を興味深そうに見つめた。
「貴女が船をお好きなのと同じくらいに」
 貴公子然とした顔の傾けかたにピクネシアはときめきを感じ、手のひらで胸を抑えた。少し考えてから、ピクネシアはいたずらっぽく笑んだ。
「ハン・ヘリオス・ポルラムは美しいですか?」
 婚約者は面食らったようだった。まばたきをして、公女は彼の返事を待った。
「……傷物です。保存状態が悪かったのです」
 ソファーにゆったりもたれて、ザキルカは脚を組んだ。
「もっと詳しくお聞かせくださいませんか?」
「ええ、喜んで」
 舞踏会でワルツを踊るときのようにふたりの男女は互いを見つめあった。

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