-5-

 風呂に入るためだけに作られた部屋は贅沢に飾り立てられた。浴室が完成した去年の末から、ハンはほぼ毎日湯に浸かって身体を洗っていた。
「お湯加減はいかがですか? ハンさま」
 ほうろう引きの浴槽に湯を足しながら、侍女のイェリムが訊ねる。
「ええ、ちょうどよいわ」
 湯気の中に子どもの声が響いた。
 浴室に飾らせた荘厳な壁画やマントルピースには目もくれず、ハンは海綿に含ませた石鹸の泡で執拗に腕をこすっていた。
「イェリム。すこし香水を足してくれない?」
 若い侍女は包み隠さず、鼻もとをおさえる仕草をした。
「もうこれくらいになさったほうがよろしいかと。香りがきついですわ」
「そう?」
 女主人は「まるで信じられない」というように素っ頓狂な声を出した。むせかえるような柑橘系の香りに我に返ると、くちびるをとがらせた。
 白い肌はこすりすぎて赤くなっていた。それでもハンはこするのをやめなかった。
「そろそろお上がりになられてはいかがですか? お湯も冷たくなってきましたし」
「あたらしいお湯をもってきてちょうだい」
 イェリムはため息をついた。地下の台所から三階の浴槽まで湯を運ぶのは、骨の折れる仕事なのだ。女主人の入浴は、侍女だけでなく台所女中や家女中までも巻きこむ大変なものだった。
 けれども女主人が風呂をけっして譲らないことを知っているので、イェリムは仕方なくうなづいた。
「お湯の用意をしてまいります」
 眉を曇らせたまま、侍女はとぼとぼ浴室をあとにした。
 一人きりになってもハンは身体をこすり続けていた。なにかに取りつかれたかのように。
 いくらこすっても落ちないのだ。この子どものままの、身体に染みついたものが。
「けものくさい。けものくさい。けものくさい」
 傷ひとつない人形のような肌には『キメラ』の臭いが染みついている。なんて忌まわしい身体。
「とれない……とれない……血が……!」
 湯は赤く染まっていた。
 あの飛び散った血が身体中に染みこんでいる。素肌に血混じりの長い金髪が絡みついている!
 まとわりつく幻覚はハンの精神を疲弊させていた。いらだちを覚えながら、ハンは肌に本物の血が滲むまでこすり続けた。
 涙が冷えた湯と混じりあって、どろどろのぐちゃぐちゃになった。

――その窓から落ちてよ、ソーン――
 “あの日”、窓から落ちたのはカーグではなかった。落ちたのは……彼に飛び降りるよう命じたユリエ自身だった。
 ハンは開け放った三階の――八年前カーグが足をかけた――窓枠から身を乗り出して下を覗きこんだ。
 邸の外壁に沿って、樹齢百年を超えた立派なイチイが植わっている。今は冬なのでさみしいけど、“あの日”は鮮やかな赤い実をつけていたはずだ。
 あれはピーター一家が街屋敷から戻ってきた――楽しかったカーグとの留守番が終わってしまった初秋のことだった。
 死体はちょうどこの窓から、イチイ壁付近に停められた荷馬車に放り投げられた。
 涼しい夜風が赤い実を不気味に揺らした。血が嘲笑っているようにしか見えなかった。不吉だった。眼球にこびりついた血はしばらく拭うことができなかった。
 寒風にさらされた裸のイチイを見て、ハンは噛みしめるようにまばたきした。
――終わってしまったのだ。
 “あの日”、ユリエはカーグの代わりに“身投げ”した。ああ、なんて皮肉な運命なのかしら。本当はカーグが身投げするかもしれなかったのに、ユリエが後頭部をビスクドールで殴打されて死んでしまったから。
 頭に冷たいものが落ちて、ハンはふと空を見上げる。冷たい雨だった。水滴は重力に逆らえず、まっさかさまに落ちていった。
 そう、こんな風にユリエは落っこちた。窓から飛び出せば一瞬だった。
――あわれなユリエちゃん。
 ノックの音がしてハンはドアに振り向いた。
「ハンさま、オリアーヌです」
「入って」
 ユリエの寝室に、エプロンを身につけたオリアーヌが足を踏み入れるのはいつぶりだろう。ハンは窓のそばに立ったまま、オリアーヌが歩み寄るのを待っていた。激しい雨音が神経を研ぎ澄ませた。
 オリアーヌのエプロンは真っ白だ。あんなに血まみれになったのに。
 ねえ、オリアーヌ覚えている? 覚えているでしょう? “あの日”この部屋で起きたこと。忘れられるはずがないわ。
「オリアーヌ」
 ハンは手に取ったムスクの香水瓶を絨毯に向かって投げつけた。青いガラスが甲高く心臓を委縮させるような、突飛な音を立てて割れた。爽やかで優しい液体の香りが周囲に濃くたちこめて、粉々のガラス片の存在をひきたたせた。
 オリアーヌは肩をかすかに上下させ、とび色の瞳を見開いた。
「ハン……さま」
 青ざめた唇から弱々しく震えた声が発せられる。
「あら、うっかり割らしてしまったわ。お掃除しておいてね」
 雨雲が日光を遮っていたため、室内は薄暗くなっていた。おぼろげなハンの表情はオリアーヌに“あの日”を思い出させるのに十分だった。
「かしこまりました。いま、ほうきとちりとりを取ってまいります」
 きびすを返したオリアーヌに、ハンは穏やかな声をかけた。
「オリアーヌ。香水瓶だって割れるのよ」
 オリアーヌは足を止めた。彼女はハンが研究所で不機嫌になったわけを理解する。
――ビスクドールは割れますでしょう?――
「本当ですね……」
 失言してしまった口を片手で覆って、オリアーヌは気まずそうにハンから目を逸らした。
「エマ先生は勘がよいの」
「申しわけございませんでした」
 深々と頭を下げきって二、三秒してから、顔を上げざまにオリアーヌは走って部屋を出ていった。
――ほんものの化けものみたいに……なってしまうよ――
 ハンは目を落とした。
 一人ユリエの寝室に取り残されたハンは長椅子に腰かける。そして仰向けになり、両手で顔を覆った。
「ユリエちゃん……」

 華やかなピーター一家を眺めながら、十二歳のハンはポルラム邸の片隅でひっそりと暮らしていた。
 かつてオリアーヌはユリエの子守だった。子守と言っても、ユリエは年頃の娘なので侍女のようなものだ。
 流行のドレスを縫ってくれるユリエの子守がうらやましかった。ハンにも子守のカーグがいたけれど、縫ってくれる服はつぎはぎだらけだ。
「ハーンさまっ」
 厩舎から戻ったハンは、ありえない人物に我が目を疑った。オリアーヌ――ユリエお嬢さまの子守――が里子の部屋までわざわざやってきたからだ。
「私、ユリエさまからドレスをいただいてきたんですよ。あげます」
 黒いワンピースドレスに白いキャップとエプロンをつけた女中は、ハンの背の高さに屈んで桃色のドレスを差し出した。
 ハンはほっぺたをつねった。痛い。夢じゃなかった。
「で、でも、妹さんがいるんでしょ?」
 一歩身を引いてぼろ服の少女はもじもじとうつむいた。オリアーヌは明朗な笑みを浮かべる。
「だってハンさま、うちの妹よりみすぼらしい格好なんですもの。だからあげます」
 ハンは明るいほうを向いた。
 オリアーヌは姿見の前でドレスを着付けてくれた。初めて着るドレスは肌触りがなめらかで、羽根のように軽かった。花の妖精の香りがした。当然どこを探してもつぎはぎなど見当たらなかった。
 姿見を見て、ハンは自分に恋をした。
「お姫さまになったみたい」
 なんて可愛らしいドレスだろう。フリルやレースでひらひらしていて、どたばた走り回ると転んでしまいそう。このドレスが似合うのはミルクティーとイチゴのタルトが大好きな女の子。ピアノとパッチワークが趣味で、彼女の周りにはいつも笑い声が絶えないの。
 ハンは着付けをしてくれたオリアーヌへ屈託ない笑顔を見せた。オリアーヌも嬉しそうだ。
「お似合いですよ、ハンさま。ときどきこうして着せてあげますね」
 すると、はにかみながらハンはまたうつむいた。
「ユリエちゃんに見つかったら、おこられないかしら」
 オリアーヌはハンの両肩に後ろから手を置いた。姿見に映る女中はにこりと笑む。
「これは小さくて着られなくなったお古です。ユリエさまはドレスをいっぱい持っていらっしゃいますから気にしませんよ」
 瞳をきらきらさせて少女は小さく頷いた。
 それからオリアーヌはこっそりユリエのお古を持ってきてはハンに着せてくれた。ドレスを着るたびに、ハンのユリエをうらやましく思う気持ちは強くなっていった。
――わたしもユリエちゃんみたいになりたい。
 あくる日ハンは嬉しくて、ユリエのお古を着たまま屋敷の中を見せびらかすようにはしゃぎ歩いた。
「オリアーヌ。おまえにあげたあの服、ハンにあげたの?」
「はい、お嬢さま。あげました」
 意地悪なユリエの声がして、ハンはあわてて柱の陰に隠れた。心臓がばくばくする。うっかりユリエの目に入るところへ来てしまったのだ。
「ユリエはおまえの妹にあげたのよ」
 ハンはふたりの会話に聞き耳を立てた。身がこわばり震えた。
 ユリエはカーグをいじめているから、ハンにとって恐ろしい存在だった。けれども憧れていた。
――ユリエちゃんはわたしのこと、なんていうんだろう。
 怖さよりも興味が勝って、ハンはその場から動けないでいた。
「私がいただいたものですから、私の好きに使ってもいいでしょう、お嬢さま」
「もちろんそれはおまえの勝手だけど」
 子守に背を向けて、ユリエは父親そっくりの豊かな金髪をかきあげた。そしてだるそうに言う。
「オリアーヌ。おまえ、『キメラ』を飼う趣味があるの? 驚いた」
 ユリエは口もとに指を添えて、高い声であざけり笑う。ハンはくちびるをかんだ。
「ハンさまはあなたのお姉さまですよね?」
 強い口調で迫るオリアーヌをかわすように、令嬢は肩をすくめた。
「お姉さま? ユリエは一人っ子よ」
 生意気な口調にたまらず、ハンは柱から飛び出した。
「オリアーヌをいじめないで!」
 里子は思いきり叫んだが、その声は嫡子になにも及ぼさなかった。それどころか姿までも存在しないもののように、ユリエはハンを無視した。
 ユリエはまた子守に話しかける。
「おまえ、うじ虫に名前つけたりするの?」
 オリアーヌは戸惑いの表情を見せた。彼女を見て――ハンには見向きもしないで――ピーターの娘は鼻で笑った。
「いい、オリアーヌ。あれはね、うじ虫なの。おまえ、うじ虫に話しかけるの?」
「ユリエちゃん!」
 ハンはもう一度叫んだ。しかしユリエには聞こえなかった。
「お話できないものとよく話せるわね、オリアーヌ」
 困った顔でハンをちらちら見るオリアーヌに薄笑いを見せて、ユリエは居間に消えていった。

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