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 記憶はぷつりと途切れて、真っ暗になった。目を閉じたまま、ハンは長椅子にうずくまる。
 聞こえるのは雨の音。冷たくてさみしい雨の音だった。
 月の瞳をゆっくり開いた。身を起こして長椅子に腰かけ、ハンはユリエの寝室を見渡す。
 ガラスの破片が“あの日”のビスクドールのそれのように散乱していた。取り返しのつかない物事のあとの騒然とした光景だった。けだるさに肩は落ちた。
 “あの日”の絨毯は新調されている。
 ハンは頭をおさえて目をつむり、不鮮明な“あの日”を捻り出す。
 オリアーヌの血にまみれたエプロンが目に浮かぶということ、それは彼女が“あの日”ユリエの寝室にいたということだ。
 そう、たしかにオリアーヌは入ってきた。
 普段とは違う異常な光景に、彼女はとび色の瞳を見開いた。そして叫びそうになる口をカーグが手で押さえつけた。
「落ち着いたかい、オリアーヌ」
 首を振ることも許されない雰囲気だから、オリアーヌは何回もうなづいた。
 カーグはシーツに包まれた血まみれの亡骸をちらりと見てから、オリアーヌの目を見てゆっくり話した。
「川で足を滑らせて、頭を打って、打ちどころが悪くて死んだことにする」
 彼は切れたくちびるを手で拭う。顔中、痛々しく腫れていた。オリアーヌはカーグの向こう側に目をやった――。
 部屋にもう一人いたのだ! カーグとオリアーヌのほかに。
 ハンは長椅子から立ちあがって天蓋のベッドに歩み寄った。豪奢なカーテンを手でかき分けて、ベッドに腰かける。
――ここでこうやって脚を組んで、彼はカーグがオリアーヌに話すのを監視していた。
 ベッドに座っていたのは――
 脚を組んだハンは息を止め、そして顔を上げた。
――パパだわ。ピーター・ポルラムが“あの日”ユリエの寝室にいた!
 カーグはピーターに何度も殴られたから、ユリエの処分に関する言葉を間違えていないか緊張していた。間違えるとまた殴られるからだ。ピーターはカーグから離れたところで――ここに座って――カーテンの隙間からカーグに目を光らせていた。
 ハンは忘れていた息を吸い、両手で顔を覆い隠した。
――パパが殺した。
 ピーターがビスクドールでユリエの後頭部を殴打した。あそこにピーターがいたのなら、彼が殺すのが一番自然だとハンは思った。
「そうよ。パパが殺したのだわ」
 疑いを確実なものにするように、声に出して呟いた。
「だって娘を亡くしてケイトママはあんなに取り乱していたのに、どうして落ち着いていられたの? 殺したからよ」
 ハンは“あの日”カーグとオリアーヌが座っていた付近を見やった。そして目を凝らす。
――パパが実の娘を殺した理由がわからない。
 思い出そうとすると頭が割れるように痛み、ハンはベッドに転がってうずくまった。視界が真っ暗になった。また雨音が聞こえてきた。ハンは思考を停止した。
「下男を三人連れてきてほしい」
 カーグはオリアーヌに言った――。
 ハンはまた起き上がった。もう少し思い出せるかもしれない。
「カーグ……どうして……」
 オリアーヌはカーグが殺したのだと思っているようで、それが信じられないと首を振った。
「……髪の毛を焦がされたり……花瓶の水をかけられたり……こんな日々がいつまで続くんだろうって思った。これでよかったんだよ」
 カーグはほほえんでいた。オリアーヌは目を見開いた。ピーターはすべてを監視していた。
 これではカーグが犯人みたいではないか。カーグはみずからを犯人だとほのめかし、ピーターはそれを黙認して……いや、“言わせた”。
 ピーターはユリエを殺した罪をカーグになすりつけた。
 しかし、それならなぜ「川で死んだ」ことにしたのか。
 分からない……分からない……
 真実を求めようとすると激しい頭痛がそれを妨害した。ハンは指を立てて頭をおさえつけた。
 記憶が絶え絶えになる。薄く目を開けて、ふたたび思い出そうとハンは未知で危険な深層をさまよった。
「やめて、殴らないでください!」
「殴っても殴りたりない!」
「旦那さま……?」
 オリアーヌは奥から聞こえてきたピーターの声に眉をひそめた。
「私はこの件に一切関与しない」
 ピーターは立ち上がると、カーグとオリアーヌの前を足早に通りすぎた。
「早く隠ぺい工作なりなんなりするのだな。断頭台に送られたくないのであれば」
 不機嫌なようすで彼は去り際にカーグを睨みつけて、
「私の気が変わらないうちに」
 と言い残して殺害現場をあとにした。
 当時カーグはピーターにとって甥や使用人というより邪魔な居候だったから、罪をなすりつければ簡単に屋敷から追い払えただろうに。どうして「川で死んだ」ことにさせたのだ。
 ハンは小首をかしげた。そしてベッドに仰向けに倒れこんだ。
 “あの日”のような涼しい風が暖炉で火照ったハンの頬をなでた。たちこめるムスクの香りが『エリザベス』のそれのように感じられた。
 黒い薔薇の花びらが、ユリエが落ちた夜の窓に散った――。
 ようやく日が沈んで肌寒くなってきたころ、オリアーヌのエプロンは真っ赤に染まっていた。
「氷で冷やしていたから、まだ綺麗なままですね」
 青白い少女の顔と着付けた外遊び用のドレス――死に装束――をろうそくで照らしながら、子守はしんみりほほえむ。
 体格のいいふたりの下男によってユリエは絨毯にぐるぐる巻かれて、ロープで縛りつけられた。そして夜空に放り投げられた――まるで荷物のように。ロープは窓からするする下りていった。
 ユリエは翌朝、川で発見された。

 “あの日”カーグが足をかけユリエを引き下ろした窓枠に、両手をかけてハンは身を乗り出した。
 雨と一緒に玉のような水滴が落ちていった。ハンは手の甲で額をぬぐった。彼女は震えていた。
「ねえ、ユリエちゃん。わたし、ポルラム邸の女主人になったのよ!」
 イチイの木々にハンは声を張りあげた。震えを止めるために笑い声をたてた。
――わたしは……
「わたしは女主人なのよ!」
 もう一度叫ぶと無言のうちに責める隻眼と目が合って、ハンは急いでカーテンを閉めしゃがみ込んだ。黄色い瞳を見開きながら、彼女は両腕で自分を抱きしめた。
――ショウ・カミルファンが……こちらを見上げていた。

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