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 直属の上司ピエール・ラファルグが、なにやら追いやられるように入ってきた。
「おい、どこまでついてくるんだよ」
 すすかなにかで黒く汚れた手をエプロンでぬぐいながら、彼は後方へうめいた。そのほうを見ていると、はたきを持った客室女中オリアーヌがやってくるではないか。
 食器を片づけつつ、ショウは「またか」と思った。オリアーヌはなにかにつけてラファルグの仕事場に現れるのだ。
「どこまでもついていくわ、ラファルグ。私だってオイルランプくらい磨けますよ」
「じゃあオレは銀器を磨いてきますから、それはあなたに任せます、オリアーヌ」
「ねえ、なんで避けるの? 一人でさみしくない? 一緒にやったほうが楽しいわよ」
 ラファルグは舌打ちして、使用人ホールの縦に長い木机の周りを早足でぐるぐるまわりだした。その後ろをオリアーヌが忠犬みたいに追いかけていく。
 しばらく見ていると、ラファルグは立ち止まってわなわな拳を握りしめた。彼が不快になっている原因が自分だなんて、オリアーヌはつゆほども気づいていなかった。背後からラファルグの表情を左右のぞきこむ。なんどものぞきこむ。
 なんてうっとうしい女だ、とショウは思った。ラファルグが怒りを爆発させるのは、よもや時間の問題であろう。
「ショウ」
 するどい菫色の瞳がこちらに飛んで、ショウは食器を重ねる手を止めた。
「おまえ皿どんだけ重ねてんだよ!」
「わわっと」
 高く積みあげたスープ皿がぐらりと崩れそうになったそのとき、オリアーヌの手が素早くそれを食いとめた。
 「気をつけて」と穏やかに言う女上司に、ショウは礼を言って頭を下げる。
「ショウ、そいつを任せたっ」
 オリアーヌとショウが揃って振り返ると、ラファルグは男性使用人の寝室がある区画へ逃げていった。「どこまでもついていく」と言っていたオリアーヌは区画の入口で地団駄を踏んだ。
「ちょっと! 出てきなさいよ! ばか!」
 オリアーヌは寝室へと続く曲がり角を悔しそうにのぞき見る。背後にショウがやってくると振り返った。
「あなた、あいつを連れ出してきてよ!」
 入れない領域を指差してわめく女上司に、ショウは小首をかしげた。
「なんで入らんとです?」
「男しか入れないからよ」
「だれも見てないけん、よかたいですよ?」
 オリアーヌは立ちすくんで、新入りのカクタス人をありえないといった目で眺めまわした。そして悩ましげに腕を組み、寝室へと続く廊下を見る。
「そうよね。このお屋敷ではラファルグが不利なんだし……ってだめだめ! 『異性の寝室に侵入してはいけない』っていう規則があるのよ」
 誘惑を振り払うように首を振ったオリアーヌは、ショウに向かって肩をすくめた。
「そうなん。でもおいらピエールの親友やき、あいつの意向を汲んでやりたいんよ。あいつはあんたから逃げたんばい」
「ピエ……?」
 オリアーヌが弓なりの眉をひそめたのを見て、ショウは凍りついた。
 しまった。第三者の前では「ピエール」と呼んではいけないのだった! なぜかは知らないが。
――なぜに?
 ショウは背の高いオリアーヌに顔を突き付けた。顔と顔が近くなって、客室女中は一歩下がった。
「オリアーヌさん。あんた、いったいどんな権限があってラファルグを追い回しとるんです? やつの上司はソーンさんだけですたい。あんた女なのに」
「女主人の権限です」
 腕を組み、オリアーヌは真剣な顔つきになった。
「あなたたちの上司よりもとうぜん女主人の命令が優先される。だから私は堂々とラファルグを追い回していいのよ。監視役だもの」
 それを聞いて、ショウは手に持ったフォークの束を床に落としてしまった。慌ててそれを拾う。
 監視役――まさかハン・ヘリオス・ポルラムにスパイの存在を気づかれた? 彼女はラファルグがスパイだと気がついたのだろうか。
 もしかしてラファルグだけでなく、ショウも……
「大丈夫?」
 優しい声をかけて、オリアーヌはショウがかき集めているフォークを一緒に拾ってくれた。ショウは彼女の顔を見れずにどもりながら尋ねる。
「い、いつから……監視しとうです?」
「もうずーっと前からよ。ハンさまが女主人になった日、ここで宣言なさったの。ラファルグは監視されなければならないとね。――強化したのは昨日からだけど」
 オリアーヌは最後の台詞を言うとき、みずからに言い聞かせているようだった。それは決意のように感じられた。
 ショウは昨日の午後、入ったことのない区間――ご家族の寝室のひとつと思われる部屋――の窓から身を乗り出して叫んでいたハンを思い出した。雨が止んでもう一度見に行くと、オリアーヌが窓を開けはなっていた。
――わたし、女主人なのよ!――
 あの言葉の意味がよく分からない。だが、監視の強化はあれに関係しているに違いない。
「昨日、空き部屋の換気しよったですよね?」
 客室女中は顔色を変えたように思えた。彼女は口もとに微笑みを作ったが、泣きぼくろのある目は笑っていなかった。
 明らかに動揺している。
「ショウ。それが終わったら私のオイルランプ磨きを手伝ってくれない? もともとラファルグの仕事なんだし」
 ショウはうなづいた。オリアーヌは使用人ホールを見渡して、
「話は磨きながらでもいい? 隠してるつもりもないんだけど、ここ噂の温床なのよね」
 とショウを見る。「確かに」とうなづくと、オリアーヌはスープ皿を台所へ運んでいった。

 布で磨いたガラス管を冬の穏やかな日差しに透かす。ショウは隻眼を凝らした。
 ガラス管を持つ右手には全神経が注がれていた。割った際、とても弁償できる額ではなかったからだ。
 バーナーに装着するとき、芯の上でガラス管を握る指先が震えてしまう。やっとのことでオイルランプを組み立てると、ショウはそれに念力でも送るかのように両手の平を添えて固まった。無事を確認すると、変な声をあげて一気に脱力した。
「あなた、それ何回繰り返してるのよ」
 オリアーヌは火屋の花びらみたいなひだ――割れやすいガラスの繊細な部分――を器用に磨いていた。
「だ、だって割らしたら怖いけん!」
「そんなこと言ったら、サラマンダー・ランプのほうが怖いわ。サラマンダーはパラフィンオイルの何十倍もお高いのよ。逃げるしね」
「そ、そうばってん」
 ショウは磨き終えた高価なオイルランプに衝撃を与えないよう、そっと作業机の安全な位置にずらした。
「それで、空き部屋の話やけど」
 いっこうにその話題になる気配が感じられなかったので、ショウは切り出した。オリアーヌは早くも三個目のオイルランプ磨きにとりかかっていた。
「ああ、そうそう」
 うっかり忘れていた仕草がわざとらしい。
「あなた、あのとき部屋にもう一人見なかった?」
 しかしちゃんと考えていたらしく、オリアーヌは単刀直入に問うた。ちらちらショウの顔色をうかがっている。
「ああ、ハンさまがおったよ。隠さんのやね」
「ん、言ったじゃない。隠すことじゃないって」
 言葉通り彼女に後ろめたいようすはなかったが、ショウにはそれが取り繕っているように感じられた。
「あの空き部屋は」
「よく空き部屋だって分かったわねー来たばっかりなのに。私なんてお屋敷の構造理解するのに三年くらいかかったわよ」
 ショウはぎくりとした。オリアーヌはこちらがスパイとして探っていることに感づいているのかもしれなかった。慎重に言葉を選ぶ。
「ほこりが舞っちょったけん」
「そう? 私よくあの部屋を掃除してますけどね」
「見間違いやった!」
 慌てて訂正すると、こちらの気も知らないオリアーヌはからっと笑った。ショウは息をついた。
「あそこは亡くなったユリエさまの寝室なの。ハンさま、女主人になる前は子ども服を着ていらして、あの部屋からよくユリエさまのお洋服を借りたりしていたの。ほら、ハンさま小柄でいらっしゃるでしょう? ユリエさまは十一歳でお亡くなりになったんだけど、入っちゃうのよね!」
 どう見ても子どもにしか見えないハンを「小柄」と呼ぶのにショウは苦笑した。どうやらオリアーヌはハンを実年齢どおりに見る目を持っているらしい。
「たしかオリアーヌさん、ハンさまの侍女やったですたいね?」
「そうなの。だから、あの部屋からお洋服持ってくるのは私の仕事だったわ。ハンさまは妹さまのお洋服を身につけることで偲んでいらっしゃったのよ」
 そのとき感じた違和感を表に出さないように、ショウは優しく微笑んだ。
――わたし、女主人なのよ!――
 ハンが叫んでいた言葉は、あそこがユリエの部屋であるならばユリエに対するものだ。
 ショウの読みどおり、影と光の姉妹――ハンとユリエ――の仲は悪かった。間違いない。
 つまり、この客室女中はハンをかばって嘘をついているということになる。

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