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 すでにザキルカは執念深く嗅ぎまわっているようだから、ハンとユリエの仲くらい大した情報でもないだろう。
 だがオリアーヌ・ダルコは? ハンでもソーンでもピエール・ラファルグでもなく、ショウには彼女が鍵を握っているように思われた。
 彼はザキルカの盲点を突いたようでスパイとして誇らしい気持ちになった。ザキルカは使用人オリアーヌのことなど気にも留めていないはず。
――スパイやっち見破られる前に、利用しちゃる。
 オリアーヌの横顔に視線をやった。顔まわりで金髪がふわふわ揺れている。そのなかの表情は無防備極まりなかった。
 彼女はまだショウを警戒していない。
 動けるうちに、聞き出せるだけ聞き出してやろう。――ハン・ヘリオス・ポルラムに近いこの女から。
 プリント地の制服を腕まくりしてすたすた歩く女中の後ろを、ショウは何食わぬ顔でついていった。

 オイルランプ磨きを無事に終え、ショウはそのまま応接室に移ってオリアーヌを手伝っていた。
「ここ。拭きが甘いわよ。目がひとつしかなくて大変なのは分かるけど、よく見なさいね」
 身体の差別的発言でも彼女の口を通すと許してやろうという気持ちになる。なぜだろう。そんなことを思いながら、ショウは再び窓拭きに取り組んだ。窓ガラスも高価だと聞いたので、布を当てる手はおそるおそるになっていた。
 オリアーヌは鼻歌を歌いながら、ピアノを磨いたり観葉植物の見栄えを整えていた。はたきやブラシを使い分ける手つきは手慣れたものだ。
「あんた、侍女あがりの客室女中やろ? なんでもできるんやね。着付けと給仕くらいしかできんと思っとった」
 “よくできた使用人”をショウは勘ぐるように見た。
「ハンさまのお部屋は物が多いし毛も多いし……あのかたこだわりが強いから、掃除は家女中より得意かもね」
「へえ、ハンさま侍女に掃除させとるんね。だから三人つけとったん? 例の茶室みたいやな」
 そう言うと、ショウはオリアーヌの冷たい視線を感じた。調子に乗って踏み込み過ぎたと後悔する。
「あなた最近、家女中の子たちとつるんでるでしょう?」
 ピエール・ラファルグの監視は手を動かしたまま、何気なく言った。
「なんでそんなに知りたがりなのかなって思ってたんだけど」
 スパイは反射的に監視の顔を見た。彼女は厚ぼったい唇を尖らせていた。
「あなた、私が『顔で採用された』とかあの子たちに話したでしょう。失礼ね。あの子たち根も葉もない噂でも広めちゃうんだから、やめてよね」
「ごめんなさい。今日見直しました。でもあなたもわりと耳ざといですばい。あなた、『噂好きの侍女』っち呼ばれとうですたい」
 あなどっていいのか警戒すべきなのか分からない女は首をふった。
「噂好きは認めるけど、根も葉もない噂は信じないわ。例の茶室とか?」
 茶室から連想して赤くなった顔を隠すため、ショウは窓拭きに専念した。オリアーヌが背後に立った気配を感じた。
「『愛の巣』じゃないわよーお?」
「でっでもソーンさん旦那さまの愛人だったんやろ?」
 ひたすら目の前をきゅっきゅと磨くと、窓ガラスに軽蔑の眼差しが映った。
「だったとしても、ソーンさんのファンクラブに入るのはどうかと思うわ、ショウくん。……ひくわ」
「な、なんでファンクラブに話を持ってくるん! いいやん、別に! “カーグさま”たまらんやんか。あんたは惚れんと?」
「きもちわるいわ」
 嗜好を全否定され、ショウは無我夢中で窓をこするしかなかった。
 もうオリアーヌに執事の話はするまい。そう決意して、スパイの顔で話題を変える。
「なんで降格されたんね、オリアーヌさん。侍女から客室女中に」
 侍女は執事や料理人と同じ上級使用人だが、客室女中は上級ではない。そのため、給金が低くなったと思われる。
「また質問攻めにする気?」
 少年は肩をびくっと震わせた。しかし、無駄な震えだったようだ。気のいいオリアーヌはぺらぺら喋ってくれた。
「淑女おひとりに侍女はふたりもいらないわ。それで私はラファルグの監視にまわされたのよ」
 「淑女」という言葉をおかしく思いながらも、ふたたび出てきた「監視」という言葉にショウは隻眼をみはった。
「じゃあ、ジョゼットって侍女がいたやろ? くびになったん?」
「あなたがどこまで知っているのか分からないけど」
 途中で言葉を切って、オリアーヌは真面目な顔でショウを見据えた。
「ジョゼットさんは自主退職よ。結婚したの」
「そ、そうなんね」
 オリアーヌはふいに窓から見える寒空を眺めて、ひとりごちた。
「……降格するくらいなら転職したでしょうし」
 ショウはオリアーヌの横顔を見つめる。オリアーヌとジョゼットは仲が悪かったのだろうか。女性が群がるとそういうことは起きがちである。できればあまり関わりたくない。
「んーなんで最初あんたとジョゼットさん、ふたりも侍女がいたん?」
 顔をしかめながらショウは訊いた。
「ハンさまの出生が普通と違っていらっしゃるから、使用人が怖くないようにってことでねえ。でもそういう連中はみんな辞めちゃったから」
 振り向いてオリアーヌはからっとした明るい顔を見せた。
――“辞めさせた”の間違いやないと?
 いずれにせよ、ポルラム邸にはハンの味方ばかりが残ったということだ――ラファルグと自分を除いて。オリアーヌとハンが信頼のきずなで結ばれていることは間違いないだろう。
 やはり監視役オリアーヌに目をつけるべきである。
「もういいわよ、窓は。そろそろ自分の仕事に戻ったほうがいいんじゃない、ショウ?」
 ショウが考えごとをしながら窓を拭いているあいだに、オリアーヌは応接室の磨きものを全部終わらせたらしい。満足そうに天使が舞う部屋を眺めまわした女中に、ショウは尊敬のまなざしを向けた。
「オリアーヌさんはこれからなにするん?」
「いったん使用人ホールに戻ってみるわ。ラファルグが出てきてるかもしれないし、見てくる」
「おいらもついてくけん。ご一緒してよかとです?」
 掃除用具の木箱を両手に持ったオリアーヌはとび色の瞳で苦笑した。彼女の豊かな表情から「困ったなあ。まだ色々訊くのかなあ」という声が聞こえてきて、ショウは首を振った。
「おいらもラファルグの指示仰がんといけんから」
 オリアーヌは間抜けっぽく口をぽっかり空けた。彼女のこういった表情にひとは侮ってしまいがちだが、それに惑わされてはならない。よく観察すると案外油断ならない女性なのだ。
「そっか。そうよね! いいわよ」
 でもやっぱり返事が馬鹿っぽいなと思う。
 いや、馬鹿なのではなかろうか。
 そんなことを考えぬいて、もうすぐ使用人ホールだというところでショウは顔を上げた。
「なんでピエール・ラファルグを監視しとるんですか?」
 単刀直入に問うてみた。そしてすぐ周囲に二、三人の女中を目にとめたショウは、彼女らがこちらを見ていないことにほっとした。おしゃべりで、きまって秘密を知りたがるからだ。
「ピエールだからよ」
 オリアーヌは気前よく答えてくれたが、それは望むものと違っていた。ショウはくすぶったように口をとがらす。
「名前のことは知っちょうよ。でも答えになっとらん。ピーターさま亡くなったき、紛らわしくないやろ?」
 小声で言うと、オリアーヌはショウを見ながら返す言葉をしばらく考えていた。
「旦那さまと名前が似てるから呼ばないんじゃないわ。かつてピエールって呼ばれていた時代を思い出さないように」
「オリアーヌ」
 興味をそそるところで割り込んできた低く柔らかな声に、オリアーヌは肩を震わせた。
 使用人ホールに現れた執事カーグ・ソーンにショウとオリアーヌはもちろんのこと、若い女中たちの好奇な視線が注がれる。ソーンは優しい笑顔の唇に人差し指を添えた。
 彼は青色とも緑色ともつかぬ瞳でショウを見据えた。
「きみが知るべきことじゃないよ、ショウ。少なくともここで話す話題じゃない」
 そう言ってソーンは自分に見とれていた若い娘たちを見回し、笑顔を向けて追い払った。彼女たちのラブレターを燃やしているときもあんな顔をするのだろうか。
――目が笑っていなかった。
 ソーンはそのままの笑顔をオリアーヌに向けた。
「きみはなぜショウについているの? だれの許可で?」
「ごめんなさい、ソーンさん。つい……。私、持ち場に戻りますね」
 はっきと顔を上げ、オリアーヌはソーンに一礼して駆けながら出ていった。
 いやはや笑顔がこんなに恐ろしいものだとは知らなかった。使用人ホールにいた女中たちがみんな出ていってしまったではないか。
「ふたりっきりだね、ショウ」
 素肌の形に沿うように白手袋の手はショウの肩を心地よい圧力で包んだ。ショウは胸を高鳴らせて、執事に向き合った。先ほどの怖い笑みは跡形もなく消えていた。彼は目尻を下げて、慈しむようにうんと温かくショウを見つめた。
「僕の部屋にこないか?」
 ソーンの指先がうなじにくすぐったく触れた。耳にかかる吐息にショウは軽く目を伏せる。
 彼の本心じゃない。騙されているのに彼を振り払えず、ショウは彼の胸に顔をうずめた。

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