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――なんてよく切れるナイフなのかしら。
 ラファルグが塊のローストビーフにためらいもなく刃を入れている。その光景にハンの心臓は軋んだ。
 ふいにラファルグと目が合い、素早く顔を背けた。彼の瞳は深海のように、なにを考えているのか分からない色をしている。
 食堂にラファルグの足音がかつかつと響いた。従僕として努力しているようだが、野卑な感じが抜け切れていない。彼だと分かる足音が嫌だった。同じ部屋に彼がいるというだけで落ち着かない。
 ハンはワイングラスを傾けてぶどうジュースを飲みほした。
「ローストビーフの芽キャベツ添えでございます」
 グラスを置くと、カーグが例の肉料理を差し出した。ラファルグに目をやると、彼は自分が切り分けた肉の行方を見守っているようだった。
 なにも知らずに微笑むカーグにハンは心中で助けを求めた。しかし届くはずもない。
「ぶどうジュースのお代わりをお注ぎいたしましょうか」
 カーグと入れ替わりにラファルグがやってきて、ハンはびくついた。そのとき彼の仕着せの袖が素肌に触れた。ハンはシルクの手を滑らせてしまい、からんと音がしてナイフが床に落ちた。
 少女は表情をこわばらせる。またラファルグと目が合ってしまった。とっさに手のひらで胸を抑えた。
 ラファルグは静かにかがんで、ハンが落とした銀のナイフを拾い上げようとする。
「さわらないで」
 燕尾服の広い背に跳ねる金髪に小さな声を震わせた。図体のでかい従僕は呆気にとられたように、おびえる女主人をみつめた。
「申しわけございませんでした」
 弁解もせずにラファルグは頭を下げる。ハンは首を振った。
――哀れむような目で見つめないでほしい。
「もうよいわ。食べたくない」
 ハンは席を立って、逃げるように食堂から出ていった。
 本当はラファルグがなにを考えているのか分かっている。
――だからわたしに近づかないで。
 七年前もハンはラファルグから逃げていた。彼は捕まえるまで追いかけてくる。だから必死に逃げた。
 捕まったらおしまいだ。
 怖い。怖い。ピエール・ラファルグが怖い。ラファルグのがっしりとした腕は一度捕まったら抜け出せない。
 ラファルグは完璧な従僕だけど、ピエールとしては最悪だ。理由は思い出せない。

 居間でコーギー犬を膝に抱きかかえて横になっていたが、不鮮明な恐怖の名残は消えなかった。お気に入りの恋愛小説も開いてみたが、心にはなにかが刺さったまま。
「わたくしの……わたくしの愛したひとはもういない」
 目についた台詞を声に出して読んでみた。すぐさまハンは本を閉じる。悲しい台詞だと思っていたが、今日は違った意味に思えたのだ。
「夫が浮気して、彼女は気が変になってしまったのよ」
 口を衝いて出た言葉にハンはまばたきした。暖炉の前にいるのに寒気がする。
「カーグ!」
 ノックするのも煩わしくハンは執事室のドアを開けた。書きものをしていたカーグは羽根ペンを紙の上に転がして駆け寄った。ハンは安堵の涙で喋ることができなかったので、しばらくカーグの両腕の中にいた。
「ハンナ。女主人がひとりで執事の部屋にきたら、勘ぐられるよ」
 妻の心のうちをまだ知らない夫は、起きもしないことを心配してドアを閉めた。
「だれにも見られなかったわ」
 ハンはちょっとむくれる。
「いつどこから僕たちの秘密がザキルカさんに漏れるか分からないんだよ」
「いますぐあなたに会いたくてたまらなくなったの!」
「……ごめん」
 言葉を詰まらせたカーグはもう一度ハンを抱きしめる。さっきよりも強く。ハンはまぶたを閉じた。
「なぜあやまるの、カーグ」
「ううん」
 様子がおかしいので、カーグの顔を覗きこんだ。どうして夫は目を逸らすのか。
――わたくしの愛したひとは……もう……
「わたしに隠しごとをしてもむだよ、カーグ」
 燕尾服の襟をぎゅっとつかんでハンはカーグを睨んだ。
「あなた、まだ隠していることがあるでしょう?」
「ごめん。言えない」
「わたしのため?」
「うん。きみのため」
 いったんカーグを開放した。彼が真っ直ぐな瞳でハンを見つめてきたからだ。
 赤くなった頬を手で隠してハンはうつむいた。
「カーグ。なぜわたしは“ピエール”から逃げていたの」
「なにを言っているんだい、きみ。晩餐のことなら――」
「七年前、なぜケイトママはピエールにわたしを捕まえさせたの?」
 カーグは急に黙ってハンを執事室の奥へ連れていって、椅子に座らせた。
「お茶の用意をしてくるよ」
 落ち着かないカーグはすぐに出ていこうとしたが、ハンはそれを止めた。カーグはふたたびハンを抱きしめた――自分を安心させるために。なだめるようにハンは彼の背中に手を添えた。
「ユリエちゃんの死に関係しているのではなくて?」
 ハンはぽつりと言った。
 ハンの向かいに椅子を持ってきて、カーグは腰かけた。苦しそうに眉間にしわを寄せる。
「思い出さなくていいんだ」
「もう思い出しかけているわよ、カーグ」
 カーグは大げさにため息をついて、いつもより低い声を出した。
「どこまで知っているんだい」
 美しいエメラルドの瞳は輝きを増して、脅迫しているようだった。
 ハンは自嘲めいた笑みを浮かべ、
「ユリエちゃんを殺してしまったわたしを救うために、カーグがパパの愛人になって口止めした。でもケイトママはわたしを疑っていた」
 と曖昧な記憶を繋ぎ合わせてカーグを見ると、彼は安らいだ笑みを浮かべていた。ハンは目を見開いた。
――わたしの推理が間違っている!
 本当のことを知ってほしくないカーグはおかしそうに笑い声を立てた。
「答えをおしえて! カーグ!」
「ユリエさまは川で事故死、奥さまは娘の死が原因でヒステリーを悪化させて亡くなりました。そして旦那さまは阿片中毒による事故死です。模範解答はこうだよ、ハンナ」
 椅子の背にもたれながら、夫は目を細める。
「でもパパは……本当はザックさんに殺されたのよね?」
「まったく、ザキルカさんにはあきれるよ。そのままにしておけば自然に死んでいったのに、“平穏”が乱されて困っているんだ」
 おどけたようにカーグは肩をすくめた。
 ハンが何度もうなづいているとカーグはそこに鋭い目を向けて、
「きみもだよ、ハンナ。八年も前のことを掘り返すものじゃない」
 と厳しい口調で言った。
「でも、思い出してしまったものは仕方がないね。教えてあげよう、ハンナ。――ピエールが奥さまを焚きつけたんだ」
 ハンはきょとんとした。
「ピエールが夫妻の仲を壊すために、きみが叔父の愛人だって奥さまに吹き込んだのさ」
「わたしがパパの……愛人?」
「ピエールの口から出まかせだろうけど、奥さまはその言葉を信じてしまった。それはきみが叔父の大好きな母親に似せて創られたからだよ。そのことを知っている奥さまはきみに嫉妬したんだ、覚えていないかい?」
 目をつぶってハンは遠い記憶を蘇らせようとしたが、頭痛がそれを遮った。しかし頭で考えてみれば養父は“子ども好き”であるし、ハンは“おとなにならない”。それならばケイトに嫉妬されていたのもうなづけた。
「でもケイトママはわたしの憧れのひとよ。わたし、小さなころからずっとケイトママみたいになりたいと思っているのよ」
「ハンナ……」
 不安になって見上げるとカーグのほうがつらそうな顔をしているではないか。ハンは小さく微笑んでみせた。
「きみの脳が耐えきれずに記憶をすり替えているんだろう。だから僕はむりに思い出してほしくないんだよ」
 カーグはハンが消えてしまわないように抱き包む。ハンは眠るようにまぶたを閉じた。
「でもこれだけは言っておきたいんだ」
 心臓の音が聞こえてきて、ハンはエメラルドの瞳をぼんやり見た。不安げな瞳だった。
「ユリエさまを殺したのは僕だよ。正当防衛だった」
「おぼえていないわ」
 真っ直ぐな視線に耐えきれず、ハンは目を伏せた。
「ユリエさま殺しを疑われたのは僕のほうで、だから……奥さまを殺してやった。そして叔父を阿片中毒にしてやった。きみはそれを黙っていなくちゃならない」
 理解が追いつかなくてハンは頭をかかえこむ。薄い笑みを浮かべるカーグが可哀想でたまらなかった。ハンの瞳に涙がにじむ。
――すべてわたしのためにやったこと。
 胸が抉られるように息苦しかった。ふたりは地獄の深淵に落ちきってしまったのだ。
「もちろんだれにもいわないわ、カーグ。愛している」
 眉根を寄せて、ハンは夫の綺麗な顔に手を添えた。すると夫はいつもの優しい笑みを見せる。
 ハンの指先は震えた。

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