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 ラファルグは図書室の本棚から辞書を見つけて取り出した。湿った革表紙が手に馴染む。なかを覗いてみると懐かしさがどっとこみあげてきた。
 そのまま昔よく座った場所に腰かけてみたくなり、つと柱時計を見ると就寝時間まで三十分あった。――ちょっとだけならいいだろう。
 ウォールナットのテーブルに片肘をつきながら、ラファルグはページをめくった。
――ピエールがシルゾルト語を覚えたら、内緒話ができますわね――
 胸奥にしまっていたものがおぼろげに引き出されて、ふっと微笑む。
 辞書の中には三十二歳のケイト・ポルラムが住んでいた。ケイトが時折見せる少女染みた笑顔は、ささくれたピエール・ラファルグの心を癒すのだった。
「奥さま……シルゾルト語でお話したかった」
 切なくひとりごちてみると、手もとのほか真っ暗な図書室にもうひとつ灯りがすうっと入ってくる。ラファルグは顔を上げた。
「だれかいるんですか?」
 と柔らかく深みのある声がして、カーグと目が合った。彼は立ったまま部下を見下ろして、困った笑みを浮かべた。
「使用人ホールで読んだら?」
「そうですね。そうします」
 まとわりつく声を避けるように素っ気なく返事して、ラファルグが辞書を閉じると、
「これはなに? ラファルグ」
 テーブルにある薄い冊子に目をとめたカーグが白手袋の指先を添えていた。
「自転車のカタログかい?」
「ええ。お嬢さまのお誕生日に使用人みんなで自転車をお贈りしようってんで、ダルトワさんに下調べを頼まれて」
「僕は聞いていないけど」
 上司はカタログを手に取って散漫にめくった。白地に黒で自転車の細密画がみっちり描かれているのを見て、
「なるほどシルゾルト語だからきみに任せたのか」
 と意味深な表情をラファルグに向けた。
 返事を期待しない風だったのでラファルグが黙っていると、カーグは自然な仕草でカタログに目を戻した。
「二輪車はだめだよ。危ないからね。たしかにハンさまはシルゾルトの最新式自転車が気になっているけど、乗りたいんじゃなくってピクネシア公女の生活スタイルに憧れているだけだから」
 嫌味なやつ。ハンのことを言うカーグの口ぶりは女主人に対する執事のものではなく、身内のそれだった。
「わーかってますって」
 横目で見てくる上司にラファルグは頭をかいて受け答える。
 カーグは漠然とめくる手を止めて、開かれたカタログをラファルグの前にほうった。
 そのページには、ふたり分並んだ座席とペダルを巨大な二個の前輪が挟み、その後ろに小さく可愛らしい車輪のついた三輪車が描かれていた。ラファルグは目を丸くする。
「オレはひとり乗りに目をつけてたんですけど。だって……」
 言いながらカーグのほうを見れば、彼は窓をひとつ開けて紙巻きタバコを吸っていた。夜空に小さな光がちらちら瞬いている。
 ラファルグは眉根を寄せた。もしハンがふたり乗り三輪車を手に入れたら、この男が隣で漕ぐのだろうか。カーグは最近調子に乗っている。今だって、ひと言くらい声をかけてもいいのに話の途中で吸いはじめているではないか。
 しかし汗ばみながら一生懸命自転車を漕ぐハンがふと微笑んだ先にいるのは、カーグしか思い浮かばなかった。純真無垢な子どもが権力に取り入る汚れた野郎に誑かされてしまっている。それはラファルグにとって忍びないことだった。
――お嬢さまはオレが護る。
 テーブルの下でラファルグは密かに拳を握りしめた。
「きみが選んだって知ったらハンナは乗らないよ」
 戻ってきたカーグは厳しい口調で言い放った。ラファルグは晩餐のときにハンに逃げられたことを思い出す。彼女は明らかに怯えていた。胸を締め付けられ、ラファルグは目を伏せた。
「ピエール」
 反射的に肩が震えた。カーグが突然ラファルグをファースト・ネームで呼び、肩に手を置いたからだ。あわててその手を払うが、彼の定まった視線は取り除けなかった。
「ピエール、きみの中にある奥さまの名残がハンナを怖がらせているんだよ」
 乱れる心臓の音を抑えるようにラファルグは胸元のボタンを握りしめた。
「オレは罪から逃げたくねえんだよ」
 血眼を向けると、カーグは隣に腰かけて頬杖をついた。ほろ酔いみたいに視線をぼんやりさせている。
「きみの正義はハンナにとっての悪だ」
「……奥さまの事情も知らねえで外から物を言いやがる」
 整った女顔に舌打ちして、ラファルグは思いの丈を喋りだした。

 オレは救貧院で育ちました。くたくたになるまで働かされて、毎日毎日ひもじかった。
 十五のときに母親が死んで院を出ましたが、その生活も上手くいきませんでした。救貧院育ちの上オレは父無し子でしたから、まともな職にありつくことができなかったんです。悪い仲間とつるんでは窃盗を繰り返して、刑務所を転々とする日々でした。
 オレは生まれを呪いました。悔しかった。でも自分の運命を変えることもできず、憤りを感じながら屈して生きるしかなかった。
 そんなときオレはケイト奥さまと出会ったんです。忘れもしない七年前、オレは母の命日に救貧院を訪ねました。
「ガキども! これからポルラム夫人が読み聞かせをして下さる。静かに聴くように」
「ポルラム夫人と呼ばれるのはあまり好きではありませんの。ケイトと呼んでください、院長さん」
 ケイトさまは救貧院の子どもたちに童話の読み聞かせをしていらっしゃいました。いわゆる貴婦人の慈善事業ってやつです。貧乏地獄から抜け出せないオレにはそれが鼻につきました。そんなもの上流階級の自己満足、偽善だからです。だからオレは冷やかしてやろうと、奥さまの聴衆のなかに割って入りました。
「あら、大きな坊やが混ざっているわね」
 それが奥さまを上流階級としてではなくひとりの女性として見た最初の瞬間でした。奥さまのお顔を見た途端、オレは何も言えなくなった。喪服姿で悲しそうに微笑まれるのを見て、奥さまは不幸な女性なんだと悟りました。実際その通りでした。
 不幸なオレは不幸な奥さまに好感を抱きました。気がつくとオレは子どもに混じって奥さまに自分の身の上を語っていました。そしたら奥さまは、
「よろしかったらピエール、ポルラム邸に住んで働くのはいかが? わたくしのお話相手になってくださればと思うの」
 とオレに言って下さったのです!
 ポルラム邸――お屋敷暮らし。オレは甘い言葉に一瞬耳を疑いました。けど、いまここで誘いに乗らなかったら一生刑務所と救貧院から抜け出せない。人生を変えるチャンスだと思いました。
 オレはふたつ返事でその提案に乗りました。

「――よくあるありふれた話じゃないか」
 思わず口を開いたカーグにラファルグの話はいったん途切れる。
 カーグは長い睫毛の伏し目がちに机上の灯りを眺めていた。馬鹿にして言っているのではないと口調で分かったが、なにか言いたげなカーグにラファルグは眉根を寄せた。
「旦那さまに買われた六歳の少年を思い出すよ。きみはその子によく似ている」
「奴隷の子ですか?」
「いや。……いいんだ。話を遮って悪かった。続けて」
「あなたのことですか?」
 カーグはもう口を利かなかった。肘枕に後ろ頭を載せ、聞く耳だけをラファルグに向けている。
 すっきりしないものを覚えつつ、ラファルグは話を再開した。

 あなたの知っているとおり、オレはポルラム邸で歓迎されませんでした。
 奥さまの侍女のジョゼットは邸へ向かう車中、ずっとオレに白い目を向けていました。
 もちろん救貧院で拾った男だからに決まってます。でも、オレはそればかり思っていたけど、それだけじゃあなかったんです。
 奥さまは当時ユリエさまを亡くされたばかりで、旦那さまとの関係が上手くいっていなかったでしょ。そんなとき奥さまが若くて美しい青年を屋敷に連れてくるのは意味のあることだったんです。
「私へのあてつけか!」
 案の定、旦那さまは憤慨されました。黄金色の眼光とでかい図体――オレはいつも人を見下ろしていましたから――に圧倒されたのも束の間、オレは腹を蹴られて板の間にくずおれていました。知的な上流階級らしからぬ、旦那さまの挨拶代わりの暴力が信じられませんでした。まさか屋敷のあるじがアルコール中毒だなんて思いもよりませんでしたからね。
 旦那さまと奥さまはオレのせいで喧嘩になりました。
「お前が愛人を持とうとは、見損なった! 娘の服喪期間に恥ずかしいとは思わないのか? ケイト」
「愛人ではありません。だからあなたに紹介したのでしょう、ピーターさん。それにあなた、ひとのこと言える立場じゃございませんでしょう? 女やら子どもやら、さんざん好き放題してきたくせに!」
 奥さまが金切声をあげなさったのには、驚きました。それはそれは娘のように可愛らしい奥さまでしたから。ショックでした。
 奥さまは、夫を鈍器で殴りつけるように睨んでいました。
「好きなのでしょう、あの子が。ハンが可愛いのでしょう?」
「またそれか。あれは研究対象だ。個人的な感情などない」
 旦那さまが眼鏡越しに冷ややかな視線を向けなさるもんだから、奥さまは激昂して壁を叩きつけました。
「うそおっしゃい! 可愛いんでしょう。あなたが大好きな“子ども”だものね! 研究所で面倒見ることだってできるのに、いつまでも自分の屋敷に住まわせて」
「“子ども”に妬いているのか?」
「あなたの趣味が異常だからよ!」
 嘲る旦那さまに、奥さまはふたたび壁を叩きつけて威嚇しました。ジョゼットは慣れているもので全く動じていませんでしたが、オレは初対面なんです。奥さまの変貌ぶりにうろたえました。
 奥さまの目からは涙がぼろぼろ零れ、発する声は痛々しい。オレは思いました、ケイトさまをこんなふうにさせたのはこの男――旦那さま――なんだと。赤ら顔の旦那さまをかすめ見て、オレは唇を噛みました。
 泣きながら奥さまは我を忘れて喋り続けます。
「カーグだって……あなたが愛したカーグだってかわいそうに。あなたに捨てられてかわいそうに。本当あなた“子ども”にしか興味ないのね。“子ども”はあなたの欲望を満たすためにあるのではなくってよ、ひとでなし!」
 あなたのせいだとは言っていませんよ、ソーンさん。ケイトさまは夫にさんざん浮気され、しかも相手は“子ども”だった。屈辱に違いありませんでした。そしてオレはようやくポルラム邸の異常性を知ったのです。
 オレは奥さまが哀れになり口を挟もうとしました。するとジョゼットがそれを阻み、オレを強制的に夫妻から遠く引き離して衣装部屋に連れ込んだのです。
「なにすんだよ、てめえ!」
 ケイトさまを見捨てた侍女に、オレはいきり立って吠えました。ジョゼットは相変わらずオレを白眼視します。
「あなたが余計なことして、わたしまで巻き込まれたら大変だからですよ」
「なんっだと? ありゃどう考えたってあの男がわりい。ケイトさまが可哀想じゃねえか! おめえこそなんだ。侍女のくせしてあるじがやべえってのに平然と見ていやがって!」
「あなた、侍女を勘違いしているわ。侍女は騎士じゃないの。頭がおかしい奥さまの相手をいちいちしていられないわ」
「なんだとこのあま!」
「さすが救貧院の男だわ。“ピエール”って名前は優れてるけど、中身は下卑てる」
 オレの名前を聞いた瞬間、ケイトさまもピーターさまも顔色を変えなさりました。その理由がようやく分かったのです。
 オレはジョゼットの胸ぐらから手を離しました。その代わり顔を近づけて、
「“ピエール”のどこが優れてるって?」
 と睨みながら問いかけました。
 ジョゼットは澄ました表情のまま瞬きをして、近い異性の顔から目を逸らしました。
「“ピエール”が本国のブリンガル語だからよ。“ピエール”は共通語で“ピーター”。旦那さまはご自分のお名前がブリンガル語でないことに劣等感を抱いているの。そして“ピエール”という名前に憧れを抱いているの。それを奥さまは知っていてあなたを連れてきたのよ。旦那さまを傷つけるために」
「あいつを傷つけるためだって?」
 眉間にしわ寄せてオレは聞き返しました。

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