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 あなたはご存じなのか知りませんが、奥さまはたびたびポルラムの薄暗い森に流れる川にオレを連れてって下さいました。
 奥さまは川に着くと真っ先に絹の靴下をお脱ぎになり、冬の冷たい水に素足を浸されます。そしてオレのほうを振り返って馬鹿みたいにはしゃぐんです。
「あなたもお入りなさい」
 けらけら笑いながら容赦なく水をひっかけるんで、オレはズボンの裾をひざ下まで捲って仕返ししました。ふたりは水をかけあってびしょ濡れになる関係になっていました。
 しばらくして、奥さまが川に通っていたのは「娘が死んだ場所だから」と知りました。奥さまは娘を失った母親なのに、嫁入り前のように幼く笑うんです。その姿にオレは心を痛めました。
「川で足を滑らせるような子ではないのです」
 しぶき崩れる水面をじっと見つめながら、奥さまの声は力強かった。けれどその背中には孤独が溢れていました。
 奥さまはおひとりで“ポルラム邸”と戦っていたんです。
 慈善活動のほかには、オレに勉強を教えるのが喪に服するケイトさまの日課で楽しみでもありました。オレはこの部屋の一角――いまちょうど座っているあたりです――で文字の読み書きを習いました。ポルラム邸で使われるブリンガル語と共通語はもちろん、奥さまは祖国シルゾルトの言葉も教えて下さいました。
「ほら見なさい。ピエールは賢いわ。すぐにあのひとなんか追い越してしまいますよ」
 ただそばにいるだけの侍女に向かってケイトさまは自慢げにおっしゃいます。
「救貧院に戻りたくない意地でございましょう」
 ジョゼットは辛辣に言葉を返しました。女主人を切れ長の瞳で見返して、
「奥さま。すでに成長してしまった子どもより、これから成長する子どものほうが教えがいがありますわ。一度染みついた悪癖はなかなか取れないものです」
 ことあるごとにジョゼットはオレの卑しい生まれを幾度も強調し、やっかいな拾いものを捨ててくるよう奥さまにほのめかしていました。
「ピエールは救貧院とは縁を切りましたのよ、ジョゼット。あなた、ピエールに嫉妬しているのだわ!」
 奥さまは激しい感情を剥き出しに叫ばれました。
 しかしジョゼットは眉のひとつも動かしません。奥さまに庇護されるオレを見下げながら、
「嫉妬なんかございませんわ。その男は侍女にはなれませんし、紳士どころか従僕にすらなれないでしょう」
 冷静な口であるじに答えやがるんです。
「ピエールが階下でどんな風に噂されているのかご存じですか? 奥さま」
 ジョゼットは奥さまとオレが男女の仲にあるといつもしつこく疑っていました。
 でもあいつの気持ちも分かるんです。手がかかる奥さまに気苦労は計り知れなかっただろうし、腸も煮えくり返る寸前に違いなかったんだ。
「ピエール。あなた、奥さまに利用されているのよ。まだ分からないの?」
「分かんねえ」
 ジョゼットとふたりきりになって、いつものように詰め寄られたオレは目を逸らしました。
 ケイトさまがオレを連れてきたのは夫を苦しめるため。それだけなんだってもう分かっていました。オレは夫婦喧嘩の道具でしかなかったんです。
「勘弁して。エレオノールみたいになりたくない」
 それがジョゼットの本音でした。あいつが奥さまから距離を置くのは、昔旦那さまの浮気に意見して解雇された奥さまの侍女みたいになりたくないからだったんです。あなたがとてもよくご存じのあの事件のことですよ、ソーンさん。ジョゼットはオレのことを、当時旦那さまの浮気相手だった幼いあなた――夫婦の溝を決定的にした原因――の再来と危惧していたんです。
 ソーンさん、あなたがオレの生い立ちに反応したように、オレはあなたに自分と似たものを感じて苛立たしかった。オレと似ているあなたは階下で苛められていたからです。あなたを見ているとあの愛おしい奥さまの微笑みが歪んだように思い出されて、オレは不安になりました。
 オレがあなたに罪を語るのは、ソーンさん、あなたならもしかしたらオレの気持ちが分かるんじゃないかと思ったからです。許してほしいだなんて言いません。ただあなたに黙って聞いてほしいんです。ハンお嬢さまへの懺悔を。

 ソーンさん、あなたがに奥さまにピアノのテキストをお尋ねになったことなど覚えてますか?
「わたくし知りません。あの子が取っていったのではありませんか?」
 図書室であなたに訊かれた奥さまは、迷惑そうに答えました。そしてあなたがひとりで世話している少女を思いながら、
「カーグ。あの子、ピアノの進みが遅すぎやしませんか?」
「僕の教えかたが下手なんです」
 奥さまがご自分のこめかみを指差してみせるので、あなたは苦笑するばかりでした。
「日曜日は止めてちょうだいね」
 あなたの後ろ姿を見送ったあと、奥さまは深刻な表情を大げさにして嘆かれました。
「かわいそうに。あの子、脳みそが小さすぎるのよ。ねえ、ピエール」
 奥さまがハンお嬢さまの悪口をなにかにつけて言いはじめると、それはしばらく止まらなかった。奥さまは愛娘のユリエさまがお亡くなりになってなお生きておいでになる、娘と歳の近い里子の存在が気に食わなかったのです。
「夫はあの子が好きなのよ。夫好みの小さな子ですもの」
「奥さまは旦那さまにまだ未練がおありなんですか?」
「あるわけないでしょう。冗談はよしてちょうだい、ピエール。わたくしは夫がだれを好きになっても、なんにも感じないわ。だってもう愛していないんだもの。でも妻としてのわたくしが馬鹿にされたような気もちになるわ。夫はあの子と一緒になってわたくしを嘲笑っているんでしょうよ。『なんて惨めな女だろう』って!」
 喋っているうちに奥さまはだんだん興奮して早口になってきます。ですから抱きしめますと、オレの胸におすがりになって子どもみたいにわんわん泣いていました。
「ピエール。あなただけよ。わたくしにはあなたしかいないのよ」
 そんなことをおっしゃると、愛おしくなる。利用されていると頭では分かってても。
「安心してください、奥さま。オレがあなたを護ってみせます」
 ピンク色の緩い巻き髪が喪服の肩に落ちています。ケイトさまはオレより十歳年上ですが、小さくなって泣いているとずっと年下に感じられました。
 言い訳にしか聞こえないかもしれない、でも極限の精神状態だった。喪服一色に染まる閉じられた屋敷で、険悪な夫妻の緊張は使用人にも伝染していました。だれも息がつけなかった。たまに離れのほうからハンさまの無邪気な笑い声が聞こえてくるのがオレの癒しでしたが、ケイトさまの耳には障ったらしかった。あの狂った悲劇は起こるべくして起こったんです。
 始まりは、オレが共通語を片言で話せるようになった冬の終わり、霧雨が降っていて冷える夜でした。図書室から出てきたオレの目の前を小さい女の子が駆けていった。ハンさまでした。
「追いかけて、ピエール!」
 見ると、息を切らした奥さまがオレの袖をつかんでいらっしゃる。
「わたくし、あの子が夫の寝室から出てくるのを見たのよ」
 戸惑いましたが、奥さまの目に不安の色を感じたオレは駆けだしました。
 追いついたオレはお嬢さまを両腕で押さえこみました。
「ケイトママのところに連れていくのでしょう? はなして!」
「怖くねえから」
「やめて! はなして!」
 少女はちからずくで振り払おうとしますが、大柄な青年にはまったく歯が立ちません。大声で叫ばれるのでオレはその口を塞ぎました。
 オレは嫌がるお嬢さまを半ば強引に連れていきました。
 そのときはこうすることが正しいんだと信じてたからです。オレにとって、ケイトさまだけが正義だったんです。
 奥さまの寝室まで連れて行きました。お嬢さまを受け取ると、奥さまはだれも入ってこないようオレに見張りを命じました。
「いや! いや! やめて、ケイトママ!」
 奥さまは嫌がるお嬢さまをベッドに連れていき、ふたりは天蓋のカーテンの中に隠れてしまいました。
 姿こそ見えないものの、そこには確かに地獄絵図が繰り広げられていた! けたたましい女の笑い声に子どもの悲鳴が混じっている。オレは背筋が寒くなりました。
「奥さま、なにをしてらっしゃるんです?」
 ハンさまがいつまでも泣きやまないので、おそるおそる訊ねました。返事はなく、狂った哄笑が響いてくるばかりです。淑女の寝室ですので、ドアの前から動くことは出来ません。だから彼女たちがなにをやっているのか分からなかった。ますますオレは不安になりました。
――奥さまのヒステリーにまともに付き合うなんて馬鹿げている――
 ジョゼットの忠告が蘇ってオレは一歩後ずさりましたが、首を振って思い直し、待ち続けました。
 やがて静かになりました。奥さまがおひとりでやってきて、事情を聞かされないまま出て行くように言われました。
「奥さま、あのお嬢さんはどうされたんですか」
「わたくしのベッドで眠っているわ。今夜はあの子と一緒に寝ます。着がえるから出て行ってちょうだい、ピエール」
 お嬢さまの異常な声を聞いたにもかかわらず奥さまの笑みがあまりに安らかだったので、オレは「義母が娘を寝かしつけていたんだ」とすっかり思い込んでしまいました。
 廊下に出るとあたりはしんとしていました。まるで嵐が過ぎ去ったあとのようです。離れてみると罪悪感も薄らぎました。おかしなことに、ハンさまとケイトさまがひとつのベッドで仲良く寝息を立てている幻聴さえしたのです。
 それからオレはお嬢さまを捕えて奥さまのもとへ連れていくようになりました。お嬢さまはいつも奥さまを恐れて必死に逃げ惑います! オレは気がつかないふりをし続けました! お嬢さまを引き渡すときに見せる奥さまの嬉しそうな顔だけを見るようにしていたんです。
 奥さまが笑って下さるから、これは悪いことじゃない。可哀想な奥さまのために、お嬢さまには辛抱していただくしかない。オレは犯罪を正当化しました。奥さまの愛に不審を抱くオレは彼女の純粋な愛が欲しかった。だから自己暗示をかけ続けた。罪を罪だと思わなくなるように。
 でも閉じられた屋敷の中で、三人だけの秘密がいつまでも隠し通せるわけがなかったんです。
 ある日オレがひとりになったところへジョゼットが待ち伏せしていました。明らかに不機嫌なジョゼットは近寄りがたい雰囲気です。見なかったことにしてそのまま前を通り過ぎようとしたら、勝手に話しはじめました。
「拾ってきた男を寝室に連れこんでいるなんて、奥さまも落ちたものね」
 相も変わらずあるじを見下げたジョゼットの口ぶりに、オレはすぐさま弁解をしました。
「指一本触れてねえよ!」
「だれも救貧院出の男の言葉なんか信じないわよ」
「ひとの弱みにつけこみやがって。この高飛車女!」
 つんとすます上級使用人にオレは怒りで震えました。腕を組みながら彼女はいやらしく口角を上げて、
「間男だと言いふらしてほしくなければ答えなさい」
 ときつい目を向けます。脅迫でした。
 未婚の母は「あばずれ女」と蔑まれて路頭に迷いました。ケイトさまをそんな目に遭わせたくなかったオレは、ジョゼットの吹聴を阻止するためならなんでも答えようと思いました。
 数秒オレを見据えてジョゼットは刺すように言いました。
「ハンさまに傷をつけているの、あなたでしょう?」
 ……どこからともなく急に現れた真相にオレは驚き目を見開いた。ジョゼットを壁に追いやって詰め寄りました。
 するとジョゼットはオレから目を背けて珍しく顔を赤らめたんです。
「切り傷が見つかったのよ」
「どこに?」
 いつもの彼女らしくなく、ジョゼットは言葉を詰まらせました。うつむいてしばらく黙りこんでいましたが、意を決して顔を上げました。
「あなたしかできないところよ。このけだものが!」
――あら、よく切れるナイフだこと――
 ケイトさまがおっしゃっていた言葉が頭の中で繋がってしまう。疑問がいっぱいのなか恐ろしい不安に駆られて、居た堪らなくなったオレはケイトさまのもとへ駆けだしました。
 ハンさまはピーターさまの寝室にも呼ばれます。しかし奥さまの仕業に決まっている。ハンさまがあんなに泣き叫ぶのは奥さまが傷をつけなさるから、そう考えるのが一番自然でした。
 ではどこで発覚したのか。おそらく最初に傷を見つけたのはあの小児性愛者でしょう。そして傷つけられている場所――それはオレがこれまで気づけなかった場所です――黒いワンピースの中だと思いました。真実はもう分かりませんが、男性に見られたら恥ずかしく旦那さまの目に留まる場所といえば……多分。
 ケイト奥さまは夫の性的嗜好を逆手に取って復讐しなさったんでしょう。
「奥さま! もうやめてください!」
 開いたドアから奥さまの顔を見つけるなり、オレは叫びました。
「どうして……」
 夫への復讐。分かっているけど、理由を訊ねました。
「夫が殺したのです。わたくしのユリエちゃんを。だからわたくしも、あのひとの大事なハンを殺してやるのよ!」
 オレはずっとケイトさまの心中を見破れなかった自分に腹を立てました。
 ケイトさまが夫を憎んでいたのは浮気のためじゃなく、「夫が娘を殺した」と疑っているからだったんです!
――川で足を滑らせるような子ではないのです――
 ケイトさまのすべては娘でした。娘のための喪服の黒色はどぎつくて目に染みました。
 確かに奥さまは頭がおかしい。狂っていました。
 もっと早くに気付くべきでした。もう手遅れです。
 ハンさまの傷がピーターさまに見つかり、ケイトさまはポルラム邸でますますひとりになってしまいました。
 ケイトさまは春が来るまえに娘のもとへ旅立たれました。その死に顔はとても幸せそうでした。

 ひととおり話しきって、ラファルグは頭を抱え込んだ。
「オレは奥さまとハンさまに取り返しのつかねえことしちまったんだ。だから、許してもらえるまで――」
 途中で言葉を切ってラファルグは自嘲した。カーグに「きみのせいじゃないよ」とか「きみが悪い」とか意見してほしかったのに、なにもなかった。なんだかんだ言って結局ケイトに利用されていた、そんなラファルグに呆れ果てているのだろう。
 カーグのほうを見るのが怖かった。
「ラファルグ?」
 老いた女性の声にラファルグは開いたドアを見た。家政婦の厳しい顔をろうそくの光がぼんやり照らしている。近づいてくる彼女の、腰に下げた鍵束がじゃらじゃら鳴っていた。
「ダルトワさん」
「消灯時間をとっくに過ぎていますよ、ラファルグ」
 ラファルグが机上の灯りを柱時計に向けたときだった。ダルトワは小さく悲鳴をあげた。彼女の視線を追うと、ラファルグは目を疑った。
 どうりで気配がしないと思った。ダルトワが灯りを向けた先、奥の窓際にカーグが倒れている。
「カーグさま!」
「おいおい、こんなところで寝るなよ」
「ラファルグ。お医者さまを呼んできてちょうだい」
 話している最中カーグが吸っていたタバコに、阿片が入っていたのではなかろうか。
 頭をかいてラファルグはきびすを返す。すると足首を握られた。
「呼ぶな……だいじょうぶ」
 カーグはその場にうつ伏したまま、顔を上げた。エメラルドの眼光が消えそうになっていた。ぎりぎり意識を保っている状態。彼は震えていた。
「顔が青いじゃねえか! 医者を」
「呼ばなくていい! ダルトワさん、ハンさまに伝言を頼みます」
 ふたりが見守るなか、よろよろとカーグは立ち上がる。明らかに無理をしていた。
「ハンさまが『お医者さまを呼んだほうがいい』とご決断されましたら、診察を受けていただきますよ。カーグさま」
 ラファルグの背に身体をあずけたカーグは低く消え入るような声でダルトワに「もちろんです」と答えた。
 ケイトの死後七年経って、ピーターまで死んだ。やはりポルラム邸には死が取りついているのだ! カーグもこのまま死んでしまうのではないか、とラファルグは心配になった。
 ハンが絶望の淵に沈んでしまう! 彼女の泣き叫ぶ姿はもう見たくなかった。

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