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 一年中実がなるイチゴ畑があっという間に小さくなった。
 ハンは白馬の脇腹を蹴って飛行スピードを上げる。風を切る音だけが耳に流れるように。
「こりゃあ、春までもたねえさな。ほれ、言ったろう。呪われた館だべ」
 無我夢中でペガーズを駆けさせた。いつもより空高く飛んでいた。頭が雲につきそうなくらい。領地の小作人の声などもう聞こえないはずだった。なのにどうして、耳に残って消えてくれないのだろうか。
 カーグが倒れてから、ハンはポルラム邸のよくない噂が気になりはじめた。使用人のそばを通るたびに「没落するのも時間の問題」だとか「女主人の陰謀」だとか聞こえてきて堪らなくなり、ときおりハンはペガーズを駆り出した。しかし気持ちは晴れず、足下にどこまでも広がる極彩色の庭園がハンをよりみじめな気持ちにさせるのだった。
 三十分も飛んでいると上空の冷たさにすっかり凍えて、薄ら暗い屋敷へ戻らざるを得なかった。乗馬服から陰気な色のドレスに着替えて、ハンは重い足取りでカーグの寝室へ向かった。ドアをノックする前にため息が漏れる。はっとして慌てて首を振り、口角を上げた。
 部屋はカーグが出て行ったときの名残を残しており、こざっぱりしていた。しすぎていた。私物の荷造りはまだ半分しか解かれていない。
――カーグが寝るためだけに出戻った部屋。
 ハンはえも言われぬ物悲しさ、そして悔しさを感じた。没落。カーグが上流階級の子息さながらに暮らしていた時代――ピーターの愛人時代――が華やかだったから、彼の没落は強烈に感じられた。執事を休職したカーグは、紳士から哀れな病人に成り下がってしまったのだ。
 洗面台の鏡がハンを映していた。耳もとで黒光りする石も、夜のビロードに満天の星が瞬いているドレスも、消えてなくなってしまうのだろうか。そしてそのまま、温かな家庭どころか二度と人間として生きることを望めなくなるのかしら。落ちぶれていく現実を直視するのがつらくて、ハンは目をつむった。
 カーグはベッドの中にいなかった。
「ちょうどよかったよ、ハンナ」
 無邪気な声に振り向くと、続き扉からカーグが入ってきた。どうやら今まで平服の背広姿で動き回っていたようだ。
「カーグ、寝ていなくてはだめよ」
 病人はいたって元気そうであったが、ハンは疑ってかかった。寄ってくるカーグを痛ましげに見つめる。
 肩をすくめてカーグは苦笑した。
「はいはい。それよりね、これを見てほしいんだよ」
 視線を追うと、カーグが引き出しを一本抜いて両手に抱えているのに気付いた。その引き出しにハンは見覚えがあった。確か――
「ツカサおじいさまのお手紙?」
 素っ頓狂な声を出したハンに、カーグは素直な子どもみたいにうなづいた。それはハンとエマがカーグを追い出す理由を作るために開けた引き出しだったのだ。先日の愚行にハンは少し俯いた。そして思う。
 ポルラム邸を追い出されてもカーグには帰る家があるのだ。
「しょっちゅうやり取りしているようね?」
「もちろん。かけがえのないじいちゃんだからね!」
 皿いっぱいのマッシュポテトを所望したあの日から、カーグはツカサのことをよそよそしく話すのをやめていた。ツカサは彼にとって“じいちゃん”なのだ。それをさみしく感じながらハンは微笑んだ。
 暖炉が赤々と燃えている。ふたりはテーブルに置かれた引き出しを囲んで座った。
 カーグは封筒をひとつ手に取ってみせた。まだ封のされていないそれは、カーグがツカサ宛てにこれから送ろうとしている手紙だった。
 机上に出された中身にハンは思わず目を見開いた。一枚の白黒写真がある。その作られた笑顔は記憶に新しかった。
「――わた、わたしの写真を送ろうとしているの?」
 すかさずハンは写真を奪おうとする。が、長い腕がそれを遠ざけた。手が届くところまで近づいてはまた遠くなる写真を追うハンは、まるで猫じゃらしと戯れる猫のようである。カーグは写真をぴらぴら見せながら、ハンを愛しむ目で面白がっていた。
「それを送ってどうするのよ! エリザベス――亡くなったパパのお母さま――に“そっくり”なわたしの写真を送って……おじいさまの怒りが大きくなるばかりだわ」
「誤解を解いてもらうんだよ」
 両手で顔を覆ってハンは崩れるように椅子に座った。「誤解を解く」? 不可能だ。ハンは首を横に揺さぶる。
 かつてツカサはハンを見て「本物の化け物」だと言った。写真一枚でどうしてその偏見が消えようか。
 けれどもカーグは諦めず、俯くハンの顔を覗きこんで彼女のふっくりした頬に手を添えた。
「きみとエリザベスさまは違う人間で、きみはきみなんだ。よく見れば分かってくれるはずだよ」
「でも」
「無理じゃない」
 ハンが言う前にカーグは弱音を全否定する。そして明るく笑い飛ばした。
「僕はきみとじいちゃんが絶対仲良くなれるって信じてる。そんな日は来るんだよ、ハンナ」
 ハンの頬にキスをして、カーグは彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
「カーグ。あなたは夢に逃げているのよ」
 ハンは目を逸らした。前向きなカーグが眩しかったのだ。
「やる前から無理だと決めつけるきみのほうが逃げている」
「ねえ。だったらわたしは本物の人間になれるの? 『キメラ』なんていや。あなたといっしょに歳をとりたい。あなたの子どもの母親になりたい。そんな日はほんとうにくるの?」
 暗澹とした愚痴を吐き捨てて立ち上がり、ハンはカーグの前から消えようとした。だが、カーグの手がハンの手を固く繋ぎとめていた。
「ここまできたんじゃないか、ハンナ。ポルラム邸の隅っこで生きていた僕たちがいまや支配者だ。絶望は覆るんだよ」
 不思議だった。カーグと一緒にいると、彼が病人に成り下がったことなど問題ではないように思えてくる。カーグはハンの不安な気持ちを取り除いて前向きにしてくれる魔法使いに違いなかった。
 ハンは潤んだ瞳でまばたきした。
「カーグ。ユリエちゃんとケイトママとパパが死んでしまったこと、間違っていなかった?」
「間違っていないさ。それをこれから証明するんだよ。僕たちがだれよりも幸せになってね」
 気もちが軽くなったハンは自分を支え導いてくれる夫になんどもなんども頷いた。過去を思い出して不安になることが間違っているのだ。ハンもカーグもこれまでの人生、最善の行動を選んできたではないか。これでよいのだ。ピーター一家が死ぬことは、ふたりが未来を切り開くために必要なことだったのだ!
「カーグ! わたしたち幸せになれる気がしてきたわ!」
「『なれる気』じゃない。幸せになるんだよ。現実を一個ずつ変えていくんだ。僕たちならできる」
 ハンは両腕で抱きついた。こんなにも力強く励ましてくれる彼が突然倒れたなんて信じられない。不安から生じた妄想だったのではなかろうか。
 カーグはまだ足りないというようにハンをぎゅっと抱きしめて離さなかった。顔のすみずみまで目に焼き付けるように見つめるので、ハンは赤くなって俯いた。そしてまた不安に侵食されていく。
 便せんの文字を人差し指でなぞりながらハンは呟いた。
「ねえ、カーグ。もうすぐ死んでしまうからそんなに見つめるのではないでしょう? あなたが死んでしまうなんて嘘でしょう?」
 カーグの肉筆は零したインクの染みをひっかいたみたいにうねうねのたくっている。
 嘘だと言ってほしい。恐ろしくてハンはカーグの顔を確認できない。
「死なないよ。これからも生きていくために、きみを見つめているんだ。僕はとても弱いから」
――死にそうなのね。
 ハンは眉根を寄せて微笑んだ。カーグは震えていた。
――ああ、パパの霊がカーグを連れていこうとしている。
 エメラルド色の瞳は澄んでいて、虚ろなハンの表情をそのまま映しこんでいた。
 そのときノックの音がして、ふたりは肩をびくっとさせた。
「紅茶を頼んでいたんだった」
「カーグさま、紅茶をお持ちいたしました」
 失念を悔やむカーグのバリトンをそれよりやや低いバスが重なり打ち消した。
 ハンは急いでマントルピースの隅に小さくなった。

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