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 胸の鼓動が高ぶっていた。カーグはひとりドア近くのソファーにもたれつつ、ハンをラファルグから遠ざける。その演技が巧みだったのか、ラファルグはそのままカーグのために紅茶を注いでいる。ハンは安堵の息をついた。
「もう一杯、淹れましょうか?」
 ハンは息を止めた。
 マントルピースの影からそっと顔を出すとラファルグと目が合いそうになり、反射的に身体を引っ込めた。しっかり隠れたはずなのに。ハンは唇を甘く噛んだ。
――ラファルグはどうしてわたしの存在に気付いたのかしら。
 ふと足元を見るとドレスの裾が暖炉の光に照り映えていた。
 背の高いラファルグの視野は広かろう。彼は見たのだ。紳士の寝室にある筈もない裾が動くのを!
 こんなに豪奢な裾の持ち主はポルラム邸にただひとり、女主人のハンしかいなかった。もし女主人と休職中の執事が恋仲にあると知れたら――禁断の恋で身を滅ぼしたラファルグである――ふたりを軽蔑するに決まっている。そして屋敷中にふたりの関係を悪意で歪めて吹聴することだろう。
 たまらなくなり、ハンはマントルピースの影から飛び出した。ラファルグは軽蔑したようにこちらを見ている。
 なにか言わなければ――
「ラファルグ。わたし、ただ“お兄さま”を看病していたの。だから……」
「見なかったことにいたします」
 言い訳は速やかに遮られた。口元に笑みを携え、瞳を光らせたラファルグにハンの心臓は鷲掴みにされる。
 ラファルグは皮肉のようにハンの分まで紅茶を注いで、腹に一物残したまま退室した。純白のティー・カップに紅茶の色は鮮やかだった。
――ラファルグの置き土産をさっさと飲み干してしまおう。
 ハンは苦い薬を飲むように、一気に紅茶を喉に流し込んだ。
 ティー・カップの底に残るわずかな琥珀色を眺めていると、かちゃりと音がした。ハンは目を上げる。カーグがティー・カップの底をソーサーにぶつけたのだった。
「ああ、なんてことだ。まずくて飲めたものじゃない」
「どうしたの、カーグ」
 紅茶の中に苛立ちを吐いて、カーグはドアに目をやった。釣られてハンも見やる。先程ラファルグが出て行ったドアだ。
「立ち聞きしていたんだ」
 ティー・カップを傾けて紅茶を波立たせながらカーグは言った。小首をかしげるハンに低い声を出して、
「ラファルグはドアの前で僕たちの話を聞いていたんだよ。そしてお湯が冷めているのに気がつかないくらい動揺していた」
 目を見開き、ハンは口もとに手をやり小さく悲鳴をあげた。
「どこから……」
 頭が白くなった。もしピーター一家の死を肯定する発言をラファルグに聞かれてしまったとしたら――お終いだ。ハンは立ち上がり、その反動で椅子は後ろに倒れた。
「カーグ、どうすればよい? うわさが流れてしまうわ。わたしたちが……ポルラム邸を乗っ取るために殺したって」
「落ち着いて。ハンナ、落ち着いて。そんなもの最初っから流れているじゃないか。落ち着くんだよ」
「おちつけない! おちつけない!」
 血の気が引いたハンは取り乱す。カーグはハンの椅子を起こして、乱れた部屋をまず整えた。
「大丈夫。まずラファルグを解雇しよう、ハンナ」
 カーグはハンを鼓動ごと抱き包んだ。ユリエが死んだときのように。
「彼は――ラファルグはきみを拘束したときの感触を忘れていないんだ。そしていまでもケイト奥さまを愛している。そんな男をきみのそばに置いてよいものだろうか」
 カーグは正当化を謀ってくれる。ピーターの墓を荒らしたときのように。
 ユリエの死体を見たときみたいに理性が吹き飛んでくれればいいのに、ハンの頭はますます冴えて心はやけに落ち着いていた。
「解雇したらラファルグは復讐しにくるわ。それに彼には行くところがないのよ」
「マヌヴォー邸へやればいい」
 優しい声でカーグは言った。ハンは青とも緑ともつかぬ瞳を見据える。
「マヌヴォー邸?」
「僕が家庭教師をしていた」
――ソーンは結婚前の長女をあろうことか誘惑したのです――
 マヌヴォー氏の手紙を思い出し、ハンは苦い笑みを作った。
「あなたが不当に解雇されたところよ。雇ってもらえないわ」
 いつのまにか日が暮れてすっかり暗くなった室内にカーグの顔が溶けていた。蝋燭の火に透ける銀細工の癖っ毛を弄りながら、彼は自嘲の笑みを零した。
「マヌヴォーに解雇されたって? 僕が?」
「彼からお手紙がきたのよ。ご令嬢があなたに誘惑されて傷物になったと」
「へえ、面白い手紙だね。実は誘惑されたのは僕で、僕のほうから辞めてきたのにね」
――誘惑……“された”?
 カーグが失踪していたときの真実は想像以上に非情だった。ハンは頭を振って嘆いた。カーグは同性愛の罪に苛まれ続けているのだ。
「ごめんなさい。わたし、あなたをつらい目に遭わせてしまったのね」
「謝らないで。僕の運命なんだ。仕方のないことさ。――それはいったん置いといて」
 ハンが泣きだして、進めたい話が脱線するのを煩わしく感じたらしい。カーグが両手で物を掴んで移動させる仕草をしたので、ハンはこくりとうなづいた。気丈に振る舞う彼の言葉に耳を傾けることが、せめてもの償いとなればいい。
「そういうわけだから、マヌヴォーが美しいラファルグを雇用しないなんてことはないんだよ」
「ええ。ええ……ちょっと待って、カーグ。それではラファルグは……」
「マヌヴォーの愛人になれば生活に困らないよ。救貧院より遥かにましだ」
 聞き惚れていたバリトンがいつの間にか不穏な色を帯びている。ハンは身を乗り出して、訝しげにカーグを見た。
「カーグ、そこはあなたが逃げてきたところよ。正気なの?」
「きみはラファルグに追いかけられて怖かったろう? これは当然の罰なんだよ。きみも言っていたじゃないか。『あの男は忠誠心がない』って」
 スコーンにクロテッド・クリームを塗りながらカーグは辛辣に言った。なにごともなかったかのように甘いスコーンを口に運ぶ。
「あまりにかわいそうだわ。そこまでしなくても……カーグ、あなたおかしい。わたしの知っているカーグじゃない。まるで……そうよ、まるでこれから死ぬみたいに。わたしがひとりになっても生きていけるよう準備しているみたいに」
 カーグがツカサの誤解を解くこととハンを見つめること、そしてラファルグを消そうとすること、すべてがカーグの命は長くないことを予感させていた。
「お医者さまを呼ぶわ」
「待って」
 立ち上がって出て行こうとするハンの手首をカーグは捕えた。ハンは振り返る。「呼ぶな」とカーグは首を振った。
「ハンナ、きみは状況を甘く考えているんだよ。三人の死は無かったことにはできないんだ」
 その絶望の音律はハンの頭を幾度も殴った。カーグは手首をつかんだまま、ハンに“現実”を説いた。
「医者にかかれば中毒が知れて、僕はピーター・ポルラム殺害容疑にかけられる。それと同じでラファルグだってきみや僕を訴えかねない。どこから足をすくわれるか分からないんだよ!」
 ティー・カップが激しい音を立て、レースのテーブルクロスに紅い染みが広がった。カーグの手が震えていた。
――カーグが死んでしまう!
「おねがい。すこし休んで」
 カーグに掴まれた手を剥がして、両手で祈るようにそれを握り、ハンは声にならない声をなんとか形にした。
「そうさせてもらうよ。ハンナ、彼のことよく考えておいてくれ。僕たちはじわじわ追い詰められているんだよ。忘れないで」
――三人の死は無かったことにはできない――
 病人のカーグを目の当たりにしながら、ふたたび“現実”がハンの頭を掠めるのだった。
「僕の可愛い奥さん。幸せを諦めないで」
 潤む瞳の中には泣きそうな顔をしたハンが映っていた。彼女ははっとして微笑みを作った。
「だいじょうぶよ。いとしいひと」

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