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 カーグの寝室をあとにして、もたつく裾をずるずる引きずり、ハンは自室に入るなりドアを背にもたれかかった。
「わたしがカーグの中に映っていた」
 ひとりごちてハンはそのままずり下がる。そしてへたりと座りこみ、うなだれた。
――きっとカーグはわたしの罪をこの世に顕現する媒介なのだわ。弱っているカーグも非情なカーグも。わたしは既に“不老の石女”という罰を受けたけれど、それでは足りないらしい。
「おいで、リュシアン」
 ハンは寄ってきた愛くるしいポメラニアン犬を抱き込んだ。彼のふわふわの白毛を撫でて、慰めてもらおうとする。
 しかし不安は物凄い勢いでハンの胸に渦を巻いた。カーグがいないとハンは自分の罪に押しつぶされてしまうのだ。カーグの部屋に駆け戻りたくなる気もちをハンは首を振って追い払った。
――どうすれば許されるの?
 シャンデリアの光と影の煩多な模様が映りこむ天井を見上げて、ハンは静かに涙を流した。

 朝食室にカーグが現れなかった食事のあと、出しなにラファルグが手紙を持ってきた。
 今日は二十四日――ピーター・ポルラムの命日――である。封筒を裏返し、ラズリ=キリミネ家の紋章が入った黒い封蝋を確認したハンは「やっぱり」と苦笑いした。
 これで四回め。毎月『お悔やみの手紙』を送り続けるザキルカの律義さにはほとほと感心してしまう。
 開けた扉を維持しているショウの前をハンは動揺を隠して通り過ぎた。すると余計にその小姓が気になってしまい、ちらり振り向くと真っ直ぐな独眼がこちらを見ている。ハンはどきりとした。
「わたしの顔になにかついている?」
 ターバン頭の少年にゆったりと笑んだ。
「いいえ。あなた悲しそうだったから。それ――手紙。悪い手紙ですか?」
 幼い子どもが大人の嘘の裏に隠された本音を感じ取るように、片言のショウはハンを見抜いていた。ハンはショウと相部屋のラファルグにも聞こえるように、
「ザックさんは親友だもの、悪い手紙なわけないでしょう」
 とにっこり微笑んだ。ラファルグは変わらず朝食室の食器を片づけており、ショウは重たい扉を閉めた。その瞬間女主人と彼ら使用人の世界が、切り離された。
 黒玉の耳飾りを揺らしながら、ハンは煌びやかさの名残みたいな廊下を歩いていった。
 愛玩犬が暮らす居間に戻ってひとりになると、ピアノの音色に気付いた。ペーパー・ナイフを取り出しつつハンは耳を傾ける。――音源はカーグの居間に出戻ってきたアップライト・ピアノのようだ。
 本来カーグの好みは穏やかでゆったりした曲である。しかし倒れてからはテンポが速く力強い曲ばかり弾いていた。その焦燥する音色はときに混沌とし、ときに空虚だった。
 雨が降り出しそうな空模様を背景にフランス窓の前に座りこみ、そっと封筒を開けた。便箋を抜き出す拍子に『エリザベス』の花びらが落ちてくるのは想定内である。案の定、便箋には嫌味のように太い黒枠が非情に施されている。ハンは深呼吸して、『お悔やみの手紙』に目を落とした。

『親愛なるハンナさんへ。
このままだとカーグさんはどんどん不幸になっていきます。彼を救う方法を一番よく分かっているのは貴女だと信じています。
――貴女の親友ザキルカ・ラズリ=キリミネより』

 貴族令息の綺麗な手書き文字にハンは息を飲んだ。どうせまた「ピーター・ポルラムを忘れるな」という殴り書きだと思っていたから。
 過去三度のぶしつけな警告文に比べればずいぶん丁寧に書いてあるが、これも警告文。むしろ脅迫文。ハンはため息を漏らした。なにが“親友”だ。そんなものもう粉々に壊れているではないか。
――このままだとカーグは……
 もう一度読んで咀嚼し、ハンはザキルカの思惑を考える。つと便箋を持つ手が震えた。
――「貴女だと信じています」
 窓際に吊った鳥籠がなにやら騒がしくて、目を上げた。二羽の伝書鳩が羽根をばたつかせている。それを見て、自分は「籠の中の鳥」のようにザキルカから逃れられない立場なのだ、とハンは思った。
 とち狂うピアノの音が自棄になって、突然終わりを告げた。
 ハンは足元に散乱する黒い花びらを鷲掴み、部屋中にぶん投げるように撒いた。立てた膝の中に顔を埋める。
――早く燃やしてしまおう。
 暖炉の灰を火掻き棒でよくかき混ぜた。火の粉となった花びらがハンの顔前を舞う。炎の熱はハンを上気させ、オレンジ色の光は気分を高揚させた。
 火が舐めるように包みこんで、手紙は灰に変わり果てる。
「ハンナ」
 振り向くと、いん滅したはずの手紙の切れ端がカーグの手の中にあった。
「また『お悔やみの手紙』が来たんだね、ザキルカさんから」
 カーグは煤けた黒枠の角を深刻そうに見つめている。そこが文字部分でないことにハンはほっとした。あの脅迫文はハンとザキルカだけの秘密でいいのだ。
「おそろしかった。でもだいじょうぶよ、燃やしてしまったから」
 灰となった手紙をさらに火掻き棒で粉々に砕きながらハンは明るく言った。カーグは物憂げに微笑む。
「いつもと変わりなかった?」
「ええ。『ピーター・ポルラムの死を忘れるな』。『エリザベス』の花びらも同封されていたわ」
「怖い思いをさせたね」
 愛する人を残して死に別れるときの穏やかな声のように聞こえた。不安を掻きたてて、カーグを見る。熱と光が届かない場所にいるカーグは薄暗い闇に侵されてしまいそうで、ハンは急いで部屋中のランプをつけて回った。
 光に満ちた温かな部屋になるとハンは安堵の息をついた。
 カーグに長椅子を勧めると彼は「長居しないから」と断った。それにはハンも賛成だ。ハンとカーグは女主人と休職中の執事であり“死の館の遺族”であるからだ。
 しかし、ハンは意に反してカーグの両手をぎゅっと握っていた。
「しばらくいてほしい。わたしひとりではつぶれてしまうわ」
「いいよ」
 紅茶好きな夫には珍しいカフェ・オ・レをかき混ぜながら、ハンは不協和音で締めくくったせっかちなピアノ演奏を思い出す。その夫はと言えば、パピヨン犬と戯れているうちに純粋な笑みを取り戻していた。
「はい。うんと甘いカフェ・オ・レよ。それで、わたしに用があって来たのでしょう?」
 差し出すカップの温かさで緊張をほぐしながら、できるだけ明るくハンは訊いた。
「きみの誕生日パーティーのことでね」
「誕生日パーティーですって! あなたベッドの中でそんなことを考えていたの?」
 禁句を耳に入れるや否や、ハンは過剰に目を見開いた。
「どうして? 嬉しくないのかい?」
 喜ぶと思ったのに、と言わんばかりにカーグは目をぱちくりさせている。残念そうにハンは首を振った。
「悪いけれど、わたしの誕生日はもう祝ってくれなくてもよいわ。どう見ても子どもなのに……二十一歳だなんてだれも信じてくれないわ」
 唇を尖らすと、鼻先を人差し指で小突かれた。その指がアーモンドのボンボンをつまむのを見て、カーグが手袋をはめていないことに気付いた。
「そうやってまた卑屈になる。きみの悪いくせだよ、ハンナ。疑う者がいたら、僕がきみの二十一年間を事細かに語ってやる」
「やめて。恥ずかしいわ」
 ちいさいころのやんちゃな思い出――実は今とさほど変わりないのだが――をみんな知っている元子守は意地悪な笑みを浮かべている。ハンは赤い顔を両手で覆い隠した。
「誕生日パーティーには執事を務めるから」
 顔を上げると、爽やかなアップル・グリーンの瞳がこちらを見つめていた。形の良い口はさらに言葉を紡ぐ。
「だってザキルカさんに知られちゃまずいだろ。ザキルカさんはまだ僕が倒れたって知らないんだから」
 焦点を失い、ハンは目を泳がせて暖炉の火にいきついた。『お悔やみの手紙』。カーグが帰ったあと、ハンは火掻き棒を取って灰をいじった。暖炉の前に散っていた燃え残りの『エリザベス』の花びらを手に取って見つめる。
――このままだとカーグさんはどんどん不幸になっていきます――
 カーグが倒れたことは公にしていない。けれどもザキルカの文面はそれを知っているかのようである。たまたま噂が耳に入ったのかもしれないが、ハンにはそう思えなかった。カーグの不幸をまるで直接目にしたかのように――インチキな預言者のごとく――ザキルカは確信しているのだ!
 背筋を冷たいものがなぞり、ハンは自らを抱きしめた。
 モノクルに光る鷹の眼はポルラム邸を見透かしている。もう捕えているのだ。ハンは鳥籠を見上げた。

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