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 すっかりできあがった庭師らしき男が、音の外れた歌を大声で歌っていた。酒の力とはいやはや恐ろしいものだ。羞恥心が薄れてしまうのだから。そんなことを思いながら、ザキルカ・ラズリ=キリミネはコーヒー・カップを傾ける。
「ねーザキルカもお酒飲もうよおー」
 隣にいる女装男もすっかりできあがっているらしい。相手をするのが面倒で、ザキルカは聞こえないふりをしていた。しかし彼は下品に笑いながら身体に纏わりついてくるので、傍目が気になるザキルカは耐え切れず物申した。
「なにが『俺の親戚の令嬢』だ。お前いい加減にしろよ、サイ。安い娼婦にしか見えない」
「安い娼婦ってなにさ。酷い辱めだね」
 変装したサイは栗毛の巻き髪をくるくる指に巻き付けながら、くちびるを尖らせた。サイは大人しくしていれば深窓の佳人に見えるかもしれないのに、その振る舞いで美貌を台なしにしている。まったくこいつはエマの悪いところばかりしっかり受け継いでいるんだから、とザキルカはため息をついた。
「子守は疲れるよ。一体どこ行ったんだ、あの婆さんは。迷子になったんじゃないだろうな」
「あたいのお師匠をぼけたババアみたいに言うんじゃないよ、ザキルカ」
「お前、その悪い口やめろよ。ドレスを着ている意味がないだろう」
 酒で潰れたような声をつぐんでサイはぷいとそっぽを向く。どう見ても、安いプライドを傷つけられた娼婦にしか見えなかった。
 手持無沙汰なザキルカはコーヒーをすすろうとしたがカップはすでに空で、ばつが悪そうにソーサーに戻した。
 またサイがシャンパンなど勧めてきたが、ザキルカは断った。今日は酔いたい気分じゃなかった。我を失う酔っ払いを見てピーターを思い出したからだった。
「ザキルカさま、コーヒーのお代わりをお持ちいたしましょうか」
 生返事をして声の主を見れば、あの従僕ラファルグが純情そうに給仕の許可を待っている。ザキルカは不満そうに、
「なんだ、お前か。オリアーヌを呼んできてくれよ。美女に注いでもらいたいんだ」
 未練がましくきびすを返すラファルグに、思いついたザキルカは「待ちたまえよ」とひきとめた。
「ラファルグ。ブルーベルが咲いているマーメイドの噴水があるだろう。あのあたりにまだロロットがいるはずなんだ。挨拶してきたらどうだ?」
 すみれ色の瞳が大きく開かれるのを見て、ザキルカはラファルグもまたロロットのことをよく思っていないのだと内心苦笑いした。ラファルグはザキルカをまるで憎いロロットであるかのように見つめて、返す言葉を探していた。
 そのときロロットの名に驚いたのはラファルグだけではなかった。
「ボク帰る!」
 女装姿のサイは突然立ち上がって人気のないところへ駆け出した。慌ててザキルカは自分の従者にサイを追わせる。――サイの存在を忘れていた。サイとロロット、奴隷とロロットの関係を。
「ちくしょう、オレも帰りてえ」
 飛び出していったザキルカの妙な連れの後ろ姿を訝しみながら、ラファルグはぼやいた。そしてザキルカに訴える。
「……どうしてロロットさんを連れてきたんですか」
 紙巻きタバコをくわえながら、ザキルカはラファルグから目を逸らした。マッチを擦って、
「お前の“仕事”が遅いからだよ」
 タバコが着火する。ザキルカのスパイは顔を青ざめさせたようだった。

 ぶどうジュースが美味しかった。給仕のオリアーヌはラム肉のローストにミント・ソースをかけている。
「お代わりをいただける?」
 ハンは空になったワイン・グラスを差し出した。
「はい、かしこまりまし……ああっ、やっちゃった」
 そのとき皿の上のラム肉には多すぎるミント・ソースがかかってしまい、オリアーヌは固まった。
 口もとに手を添えて、ハンはくすくすと笑い声をたてた。
「それはわたしがいただくわ、オリアーヌ」
「でもハンさまは今日の主役ですから」
「よいのよ。今日のホステスはわたしだもの」
 ハンが身を乗り出してオリアーヌから失敗した料理を取り上げると、周囲から拍手が起こった。
「ありがとうございます。本当に申し訳ございません、ハンさま」
「なーにしてんだ、オリアーヌ」
 拝む勢いで手を合わせているオリアーヌの背後から低い声がして、反射的に肩を震わす。ハンが「ラファルグだ」と認識する間もなく、ラファルグは例の皿を取り上げてワゴンに載せながら、
「申し訳ございませんが、お嬢さま。これは下げさせていただきます。当家のシェフが意図した料理ではございませんので」
「でも、ラファルグ、わたしはそれでもよいのよ」
 ハンはラファルグと目を合わせずにこわごわ言い返した。ラファルグの声を待つ時間がとても長い。
「いいえ。私の女主人にいい加減なものを食べて頂くわけには参りません」
 厳しい口調に思いやりが感じられて、ハンは無意識にラファルグと目を合わせた。するとハンに見つめられることに慣れていないラファルグのほうが目を背ける。「ごめんなさい」とハンは心で呟いた。
「あなたは自慢の従僕だわ」
 するとラファルグはすみれ色の瞳をぱちくりさせるのだった。軽く会釈して、照れ隠しにオリアーヌに話しかける。
「オリアーヌ、ザキルカさまがご指名だ。ここはソーンさんかショウに任せて、行ってこい」
「え……分かった。そういうあなたはどこへ行くの」
「ロロットさんに挨拶してこいって言われたから行ってくるよ。まじ行きたくねえ」
「あら、ロロットさん来ているの? だれが誘ったのかしら」
「オレと代わるか、オリアーヌ」
「ううん。がんばってね!」
 笑顔で手を振りオリアーヌはラファルグを見送った。ぶどうジュースを注ぎながら、不思議そうに小首を傾げる。
「ハンさま、ロロットさんをお招きになりました?」
 下を向いていたハンは顔を上げ、きょとんとした様子で、
「いいえ、わたしではないわ」
「そうですよね。ハンさま、お代わりができましたわ」
 ハンはぶどうジュースを口につけながら、ロロットのところへ向かったラファルグを思った。彼は「行きたくない」と零していたのだ。
 うそ寒い風がハンの頬を撫でた。胸騒ぎがする。――ザキルカはなにを企んでいるのだろう。
「オリアーヌ。わたしここをしばらく離れますから、料理はいらないって引き継ぎのお給仕にそう伝えておいて」
 まだ半分飲み残している真っ赤なぶどうジュースを置いて、ハンはラファルグの消えた方角へと足を速めた。

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