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 ラファルグはマーメイドの噴水を横切って霧の中に入っていった。
 視界が開けると幻想的な青い絨毯が一面に広がっている。ハンは恍惚のため息を漏らした。
 春と言えども分厚いコートが手放せないこの時期に、ブルーベルの花が見られるのはポルラム庭園だけ。美しい『キメラ』に触れるとき、ハンは錬金術師ピーターを思わず称賛してしまうのだ。
 この森はロロットには似合わない。ハンにも似合わない。
 ハンはおもむろにしゃがんで、ブルーベルの花を摘んだ。それを胸元に忍ばせて軽く目をつむる。花のごとく、清浄になりたかった。
 耳を澄ませていると、ロロットとラファルグの声がした。ハンはハイ・ヒールで花を踏まないよう気をつけながら、その方へ近づいていった。
「急に表舞台に立ってみてどうだね?」
 穏やかな口調だが、皮肉めいている。ハンは太い幹を探して隠れた。
「お陰さまで、あなたのお茶を淹れた日々が役に立ってますよ」
 ラファルグの皮肉も負けてはいなかった。安心したハンは、様子を窺おうと幹から両目だけ覗かせた。
 ロロットは虫を這わすように元部下の全身を眺めまわして、
「私との日々はお茶汲みだけではないだろう? 私のシャツのボタンを留めたり、外したり」
 とくつくつ笑った。
 気持ちが悪くて、ハンはぞっとする。想像はしていたものの、ここまで露骨に品を欠くロロットを今まで見たことがなかったのだ。ハンの知っているロロットはハンの人格を認めない嫌な執事だが、公には「趣味のよい執事」で通っていた。どうやらロロットは本性を階下に隠していたらしい。
「あなたはきっと地獄に堕ちます」
「黙っていれば、いい従僕なんだがなあ」
 目を背けたラファルグの金髪を節ばった指で掻きあげたかと思うと、次の瞬間ロロットはラファルグの唇を奪っていた。咄嗟にラファルグはロロットを突き放して一歩後ずさったが、ハンの目にはふたりの秘め事が焼きついたままだった。
 ロロットは美しい同性にキスをするという罪を犯した。その光景にカーグを愛でるピーター・ポルラムが思い起こされて、ハンは身震いする。
 横暴なピーターは、天使のように清らかなカーグを同性愛の罪に堕落させた。幼いカーグの肉体だけでは飽き足らず大人のカーグの魂まで食いつぶしてしまったのだ。もうカーグは帰ってこない。胸元までシャツをはだけさせて恥辱に晒されている同性の肌を、ハンの目の前で、ピーターは愛撫する――罪を見せて笑うのだ。カーグは肉体の快楽にいかれてしまった。いかれてしまった! パパはもう死んだのに、カーグはパパの肉体を欲してしまう身体になってしまった。まるで阿片の中毒患者みたいに、カーグは同性愛の深い沼から抜け出せなくなってしまったのだ。
「幾らもらった? 幾らもらっているんだね」
 ああ、ロロットがラファルグの首筋にキスをしている。
「オレは……もらっていません!」
 ラファルグがもう一度ロロットを引き剥がした勢いで、ハンの耳にラファルグの言葉が強く残った。ふたりはいつの間にか金銭の話をしている。
 息を潜めてハンが見守るなかでラファルグは続けた。
「オレが憎んでいるのは旦那さまやあなたであって、ポルラム邸は関係ねえ」
――ポルラム邸……お金……
 ハンははっとした。ロロットを含む屋内の男性使用人がみんな辞めていったのに、ラファルグだけ残ったから疑われているのだ。
「淫乱なカーグさまと関係でもできたのか? それともあの化けも……」
「やめて!」
 たまらずハンは叫んだ。低俗な裏切り者の元執事とラファルグは、いつの間にか森に入ってきている女主人の存在に顔色を変えた。
「これはこれはハンお嬢さま」
「いまさら取り繕わなくてもよいのよ、ロロットさん。ラファルグに特別なお手当は与えていません。彼は忠誠心で“わたしのポルラム邸”に残ってくれたのよ。見捨てたあなたには分からないわね」
 揉み手が固まり、ロロットは返す言葉を失って白々しく微笑むばかりだ。敵はあとひと押しで化けの皮がはがれるはず。興奮したままハンは強い口調をロロットにぶつけた。
「ねえ、ロロットさん。なぜわたしのお誕生日パーティーに来てくださったの? あなたが仕えていたわたしのパパは、もうこの世にはいませんわ。ポルラム邸の当主は“わたし”です。養父の時代は終わったのです」
「なにをおっしゃりたいのですか」
 作り笑いに疲れの色が見えた。ロロットの狐色の瞳に恐ろしい裏の顔が浮き出てきたように思えて、ハンは足をすくませる。
「わた、わたしに興味がないくせに、どうして今日いらしたの?」
「二十年間お仕えした、ピーターさまの、ご息女のお誕生日を、私が祝うのは、おかしいですか?」
 幼い子どもに噛んで含めるようにロロットは一語一語区切りながら答えた。子ども扱いされることが、ハンにとってひどく屈辱であった。
「出て行って! ここは“わたしのポルラム邸”です、ロロットさん。どうぞお帰りになって」
「“わたしのポルラム邸”だなんて、うぬぼれもいいところですね」
 朗らかなテノールにハンは振り返った。装飾的な草花のステッチを施した、乗馬ブーツの踵には拍車がついている。それはチャラチャラ音を立てながら、ブルーベルの花畑をかき分けていく。
「ザックさん」
「随分と偉くなったものですね、ハンナさん」
 帽子の広いつばを上げて、ザキルカは顔を覗かせた。瞳の青がブルーベルの色に呼応して、この世のものに見えなかった。微笑する彼は、地獄と天国の境目にいる黒尽くめの断罪者のごとく――
「わたし、女主人ですもの」
 ハンは伏し目がちに答えた。
「俺は認めていません」
 はっきりと言い切るザキルカにハンは胸が潰れるようだった。じわじわ責めるザキルカの目から、逃れられない。
「『エリクシール』が女主人だなんて、ポルラム邸に失礼ですよ。ねえ、ロロットさん」
ハンを越え、ゆっくり歩み続けたザキルカはロロットに辿り着いて彼の肩を抱いた。その光景にハンは違和感を感じた。
「ロロットさんは俺が呼んだんです。ハンナさん、貴女に帰らせる権利はありませんよ」
 ザキルカがハンの非礼を詫びると、ロロットは快くうなづいた。長いものには巻かれる性質のロロットではあるが、ザキルカとつるんでいるのは不自然な気がする。
「今夜ロロットさんも泊めてあげてください。ひと部屋くらいどうにかなるでしょう」
「ええ、わかったわ。そろそろラファルグとおいとましてもよいかしら。彼、具合が悪いみたい」
 ザキルカから許しを得ると、さっきからひと言も喋っていないラファルグにハンは寄り添った。
 結託するザキルカとロロットを幻想の森に残して、ハンはラファルグの手をひきながら歩いた。
 ラファルグは同性にキスされただけでひどく動揺してしまっている。カーグは「ラファルグをマヌヴォーの愛人にする」と言っていたけれど、そんなことをすればラファルグはどうなることやら。あまりに残酷である。
「ラファルグ、ごめんなさい。ロロットさんがあんなひとだったなんて、わたし知らなくて」
「あいつはずっと旦那さまの悪事を支えていた男です。止めもせず、言われるがまま手配していた男ですから」
 ずっと黙っていたラファルグは、春の土を睨みながら淡々と言った。
 ラファルグの言葉は真実だ。ロロットの表と裏の顔が繋がり、ハンの視界は揺らいだ。
 ロロットはピーターのために子どもと阿片を調達していた。いまのハンには後者がひっかかる。
 ザキルカとロロットの関係が阿片によるものだったからだ。

 ザキルカは、ピーターに阿片を勧めるカーグと調達するロロットを憎んでいた。
――執事のやつ。折角俺が隠した阿片酒を引っ張り出して、師匠に飲ませたんだ。許せない!――
 ザキルカはよくハンに愚痴っていたが、ハンもまたピーターにせがまれて戸棚から阿片を探し出していた。ピーターの周りでザキルカだけが阿片を止めるよう、うるさく言っていたのだ。
 阿片中毒患者から阿片を取り上げれば、罵詈雑言を浴びせられ、暴力を振るわれる。それを厭わず、健気にもザキルカはピーターの嫌われ役を一身に引き受けていた。
 みな手に負えなくて言われるがまま阿片を与えていたのに、ザキルカは本当に愚かだ。阿片を隠したりしなければピーターにもっと可愛がられただろうに。
 ザックさんはパパに嫌われても生きていけるけれど、ロロットさんはくびになったら村八分にされるし、わたしとカーグは人買いに売られてしまって見世物の奴隷になるわ。だからこれは必要悪、仕方のないことだったのよ。

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