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 青空の下で食後のアマチュア喜劇を楽しんだあと、出席者は厩舎前の馬走りに集まった。
 ハンは庭師たちから万重咲きのラナンキュラスを、厩舎からは東洋趣味な白馬の置物をプレゼントされた。
「ハンさま、どうぞこちらへ」
 カーグが手招きしてハンは車庫に案内された。愛用する箱馬車の隣に、光沢のある布ですっぽり隠された乗り物らしき物体が置かれている。ハンは胸を躍らせる。
「新しい馬車かしら?」
 何気ないハンの一言が耳に入った家政婦ダルトワは、上ずった高音を一瞬のぞかせた。その口を手で押さえる。
「馬車がよろしかったですか、お嬢さま?」
「いいえ、馬車は高価だもの。わたし、どんなものでも嬉しいわ」
 慌ててダルトワをなだめながら、ハンは小首を傾げた。馬車でないのなら、なんだろう。
 ふとある可能性が浮かんでハンはひとりごちた。
「まさか、蒸気自動車……」
「残念ながら蒸気自動車でもございません、ハンさま」
 再度すまなさそうに頭を下げるダルトワたちをハンは落ち着かせる。その傍ら、北世界で数少ない蒸気自動車の所有者ザキルカの笑い声が聞こえてきて、唇を噛んだ。
 いよいよラファルグとショウによってプレゼントの覆いが取り除かれると、ハンは目を瞠った。
「まあ……自転車だわ」
 植民地ナールでは、研究所の所長ザキルカとその婚約者であるピクネシア公女が上流階級の流行を作っていた。北世界の紳士淑女は天気の良い昼下がり、緑鮮やかな並木道を親密になりたいひとと散歩する。その定番は無蓋馬車や馬であるが、近ごろはピクネシアがザキルカとのデートに使ったことで、並走するふたり乗り自転車が人気を集めていた。
 淑女になりたいハンは、鉄骨の三輪車をうっとりと眺めている。すっかりご満悦な女主人にダルトワたち贈り主――使用人一同――は胸を撫で下ろした。
「これは最新式の自転車よね。新聞で見たもの。お値段はったでしょう?」
 ダルトワは「実はですね」と一歩前へ進み出て、節ばった中指で眼鏡の位置を直した。
「匿名の寄付金があったのでございます。ラクダのコインが一枚」
「まあ」
 ラクダといえば、とターバン頭のショウの顔を窺い見るが、ショウは小首を傾げてラファルグを見ている。どうやらショウとは関係ないらしい。ハンへの寄付金で思い当たるのは研究所かしら、とエマを見れば機械文明にわなわなしており、ザキルカは淑女へ近づくハンが不愉快といった顔をしている。
 出所が分からないのが気になるが、寄付者と贈り主の気持ちに応えるべく、ハンは晴れやかな笑顔を見せて辞儀をした。
「さあさ、ハンさま。早速お乗りになってみてはいかがでしょう」
「そうね。これはふたり乗りよね……」
 言いながら、ハンはカーグを目で誘った。しかしカーグは首を振る。不服な顔になって、ハンはもう一度カーグを見る。
「わたし、カーグと乗りたいわ」
「申し訳ございません、ハンさま。僕はいま気分が優れないのです」
 そういえばカーグは青い顔をしている。
「わかったわ。ラファルグと乗るわ」
「ハンナ! 僕の頭痛が悪化します」
 思わずカーグはハンを愛称で呼んだ。ラファルグがカーグに引けを取らない美青年なので、夫として妬いているのだろう。カーグの愛が垣間見えてハンは嬉しかった。
「そうだ、ショウと乗ったらいいですよ。脚の長さが似ているから漕ぎやすいのではないでしょうか」
「脚の長さ……」
 なるほどショウは小柄で脚が短い。一緒に乗るのは脚の短さを強調するようでためらうが、ハンは自転車に乗るのが初めてでいささか不安である。今回はカーグの薦める方法が無難そうだ。
「分かったわ。ショウ、わたしと乗ってみましょう」
「おいら、ジテンシャ初めてばってん、怖いですくさ」
 ショウの共通語は訛りが強いので、ハンは理解するまで時間がかかった。
 つまりショウは乗るのが怖いらしい。しかしそう言いながら、背丈と同じくらい巨大な前輪を興味津々に見ているし、すごく乗りたそうである。
「わたしも初めてなの。ふたりで乗れば怖くないわ」
 背中を押そうとハンはショウの手を握った。瞬間ショウは手を固くこわばらせたが、やがて緩めた。
 白い歯で笑う少年にハンははにかんだ。
 一、二の三の掛け声でハンとショウは右のペダルを踏み込んだ。両脇の車輪が大きく回り、がたがたと揺れながら前に進んでいく。慣れるとハンは楽しくなり、スピードを出してギャロップのように自転車を走らせた。風を切り、帽子のリボンをたなびかせながら、ハンは子どものように無邪気に笑った。前にある風景があっという間に後ろに流れていく。ショウは声にならない声をあげて今にも失神しそうであった。
「ちょっ跳ねる跳ねる飛ばされるですたい!」
「あなたペガーズで飛んだことないの?」
「無いですばい。でもおいら危ないラクダ乗りこなせるっちゃ。ばってん、ジテンシャは馬やラクダと違うですたい。さっき石ころ、鉄砲の弾みたいに飛んどったよ! あなた、漕ぐん速すぎます!」
 ただでさえ聞き取りづらい片言なのに興奮してまくしたてるものだから、ハンが返事をするまでにペダルを十回くらい漕いだ。
「そうね。でも、あなた男でしょう? こわいの?」
 むっとした顔をうつむかせて、ショウはぼそぼそと答えた。
「お話できんですやろうも」
 ハンは「それもそうね」と笑って、スピードを落とした。呼吸を整えたショウは上気が残る顔をハンに向けた。
「ジテンシャ楽しいですね。あなたも綺麗……ポルラム庭園綺麗ですたいね」
「ええ、とっても」
 ゆったり走ってみてはっきり見えるようになった極彩色の大自然は、ハンを誇らしい気持ちにさせた。季節外れに紅葉しているイチョウの木を目で示して、
「あそこにイチョウの木があるでしょう。一年中葉っぱが黄色くて、落ちてこないのよ」
 と自慢げに紹介する。
 素直にショウは感嘆の声をあげた。
「旦那さまの作品ですたい?」
「もちろん」
「ハンさまは旦那さま大好きですね?」
 思わずハンは真顔になった。ショウのターバンの裾が自然体になびいている。透き通った海のように悪びれない隻眼だった。
「小鳥がさえずっているわ」
 ハンはショウの問いとは関係ないことを言った。そのあとふたりはしばらく黙っていた。ハンが口を閉ざしていたからだ。
 やがて並木のあいだから、きらめく湖が覗いた。そこにロロットと必要以上に仲睦まじいカーグが垣間見え、木々の葉に隠れた。一瞬の景色にハンは背筋を凍らせた。漕ぐ足を速めて湖から遠ざかる。
――またロロットさん。
 ハンは目をつむった。まぶたの裏には先程の光景が焼き付いている。
 カーグが触れているのだった。ポマード頭のロロットの耳もとに“うぶ”なカーグが顔を近づけて、くすくすと笑っていた。
「ハンさま」
「なあに」
「あなた、ソーンさん好きですばい?」
 焦燥するハンは返事をしようとショウへ顔を向けたものの、言葉を詰まらせた。ショウもあの現場を目撃したのだ。
 ショウはハンが弱っているところでもって、はっきりと口に出した。
「ソーンさんは男色ですけん、あなた好きじゃない」
「やめて、ショウ。ちがう。さっきのはカーグじゃない」
「いいえ、ソーンさんばい。一緒にいたのは手を出した男、あなた知っちょうやろ?」
「うちの執事だったロロットさん」
 白髪混じりのロロットが――品位を失ったロロットが、カーグを無理やり同性愛の罪に引きこんでいるのだと思いたかった。でもカーグはラファルグとは違い、みずからの意思でロロットといちゃついている。ブルーベルの森でロロットがカーグを「淫乱」呼ばわりしていたのも、作り話ではないのだ。誇張しているだろうけど、火の無いところに煙は立たない。
――ソーンさんは男色ですけん――
 ショウの言葉が頭の中を駆けめぐり、ハンはうなされる。いつの間にか、カーグの相手がロロットからピーターになっている。ピーターが愛したカーグ。ピーターに買われたカーグ。ふたりの血のつながり。死の香り漂うシノワズリの絹布団に残っていた生々しい痕跡!
「ハンさま!」
 ショウが叫んだので大木に衝突するのは免れた。自転車は大きく道から外れて草むらを突っ切った。
「ごめんなさい」
 軌道を修正してハンはまた道を走りはじめた。
「ショウ。さっき見たもの、黙っていてほしいの」
 口止めしたところでカーグの男色なぞ、とっくに屋敷中広まっているのだろうけど、女主人としてショウに釘をさした。ハンは目を落とした。茶室の前で噂していた家女中どもの囁きが聞こえてくる。
「そうやね。口止め料、くれます?」
 面食らって黙するハンをショウはまじまじと見つめた。なぜだか分からないがハンは赤くなった。
「お金は払うわ。だからそんなに見ないで」
「お金、いりません。あなた大変ですけん。だからあなたの……髪の毛、少しください」
 蒼穹のような瞳がハンを見ている。ユリエが死んだ日を思い出して叫んだときに、雨の中で光っていた大きな隻眼だ。ハンはショウの瞳に無言の脅迫を感じた。
 ハンの髪の毛はいくら切っても翌日には鎖骨のあたりまで伸びている。だから財産としては構わない。しかし、髪の毛は身体の一部である。ハンはためらいつつ答えた。
「いいわ、あげる。でも髪の毛だけよ」
 ショウはハンの健康的な細い黒髪を、まるでショー・ウインドーに貼りつく子どものように嬉々として見つめていた。

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