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 楽団の演奏がひととおり終わると、招かれた客は村に帰っていった。
 ハンは宿泊するザキルカとエマとサイ、そしてロロットを晩餐会に招いた。
 途中でエマの体調が悪くなり、彼女はサイ――終始「ザキルカの親戚の令嬢」で通していた――を連れて途中退席してしまう。高齢のせいであろうか。この頃のエマは以前に比べて大人しくなったように感じていた。心配である。
 しかしそれよりもずっと気にかかるのが、最後のアイス・クリームが終わっても姿を現さないカーグだった。
 ザキルカとロロットだけが残った晩餐の席は気まずく、ハンは疲れているふりをしてさっさとお開きにした。こうしてハンの誕生日パーティーは不穏の色を帯びながら幕を閉じたのだ。
 晩餐会場をあとにするやいなや、ハンはカーグの寝室へと向かった。ろうそくを頼りに廊下を進んでいく。暗く、寂しく、ハンの足音だけがカツカツと響いた。
 なんだか嫌な予感がする。
「カーグ。カーグ?」
 寝室のドアをノックしながら愛するひとの名前を呼んだが、あんのじょう返事はない。しばらく悩んだ末、そっとハンは扉を開けた。
 やはりカーグはいなかった。
 しかし乱れた布団と食べたあとの食器がまだ温かく、暖炉に火が入っている。
 続き部屋の居間にいるのかしら、とハンはどんどん中に入ってみる。机上のオイル・ランプが灯ったままで、ピアノの蓋も開けっ放しだ。間仕切りを抜けてハンは部屋の奥へ駆けた。
 そこには、まるで巨人が揺さぶってひっくり返したかのように本棚の本が床に散乱していた。横たわるブランデー・グラスの口から、残った滴が絨毯に垂れている。湿り気のある絨毯はところどころしわが寄って乱れている――。
 犬を放し飼いにするハンの居間なら分かるが、執事室から出戻ってきたばかりのカーグはまだそれほど暮らしていないのだ。雑然とした部屋だが、掃除される前のエマの研究室みたいにだらしなくてそうなったのではない、とハンは思う。
 部屋中ブランデーの臭いがするのに、いくら探してもボトルはどこにも見当たらなかった。養父ピーターの中毒症状をよく知るハンはこの状況にすぐ直感した。
 寝室に脱いだ寝間着が見当たらなかったので、カーグはまだ着がえていない。室内がアルコール臭でいっぱいなのに窓も開けていない。それはカーグがブランデーか、それとも“捨てられないなにか”で心神喪失状態にあることを意味していた。
 カーグの寝室をあとにしてハンはまず自分の寝室へ向かった。
 屈んで化粧台の引き出しを開け、ケイトの遺品であるオルゴールの小箱を取り出す。そこから古びた真鍮の鍵を拾い上げて、固く握りしめた。
 かび臭い使用人専用階段から、娘たちの囁き声が聞こえてくる。声のする方へハンはろうそくの灯りを向けた。茶室のドアに三、四人の家女中が耳をそばだてているのだ。ハンは眉をひそめた。彼女たちはきっと「カーグさまファン・クラブ」の会員で、中でもピーターとカーグの背徳愛を面白がる不謹慎な娘の集まりに違いなかった。
「な、なにをしているの、あなたたち。仕事に戻りなさい」
 群がる家女中がとても怖かったけど、ハンは女主人としての威厳を保ちながらいさめた。エプロン姿のうら若き乙女たちは、漆黒の夜会服に身を包んだ女主人にぎょっとし方々に散っていった。
――化け物を見るような目だった。
「いやな子たち」
 ファン・クラブの娘たちは酒瓶片手に寝間着姿で秘密の部屋に入っていくカーグを見てしまったのだろうか。ため息をついてハンは扉に触れた。
 室内が震えていた。ハンの指先も震えていた。
――たとえカーグがどんな状態であろうと、うろたえてはいけないわ。
 意を決して茶室に入ると、内鍵をしっかりかける。
 甘ったるい変な臭いが陰気な部屋を漂っていた。
「叔父さん、ピーター叔父さんなの?」
 くすくすと笑いながらカーグの声がたずねた。それを聞いてハンはカーグに会うのが恐ろしくなった。阿片窟に浸っているカーグが来るはずのないピーターを呼んでいる。
「――カーグはわたしの罪の顕現なのだから」
 ひとりごちるとハンは魔の巣窟に足を踏み入れた。
 四角い木と丸い陶器で出来た異国調の世界にカーグを探すが、姿は見当たらない。
 その代わり、艶やかな刺繍布団の中にもぞもぞと生物がうごめいている。布団にすっぽり隠れているのはカーグひとりに違いないのに、ハンはそこにピーターの気配を強く感じるのだった。
「叔父さん、僕を離さないで。二度と放ってしまわないで」
 我を失って快楽に支配されるカーグはハンの知らないエロチックな呼吸を繰り返している。――いるのだ。そこには確かにピーターがいる。カーグはいまピーターに愛されているのだ!
 しゃがみこんで、ハンは布団の淵に指をかけた。盛り上がった布団は一体になったピーターとカーグを包むまゆのようだった。ピーターの亡霊に抱かれて好きなひとが喘いでいる音を間近で聞きながら、ハンの血は冷たくなった。
 カーグを奪ったピーターが憎い。けれどピーターを死んでなお欲するカーグのほうがずっと憎い。ピーター・ポルラムに幸せを感じているカーグが憎い。ハンがいるのに、ハン以外の手段で辛さを紛らすカーグが憎かった。
「わたしを愛して。わたしを愛してよ、カーグ」
 力無くハンはつぶやいた。片手を伸ばしてまゆに添え、手の平でまゆを感じた。まゆは心臓のようにどくどくと鼓動していた。
 刺繍布団にハンは身を投げ、夜会服で剥き出した裸の肩をまゆに近づけた。鼓動が、息遣いが、体温が、カーグの生命が布団越しにハンへ伝わってくる。仰向けになったハンの頬を涙がつたった。
「カーグ。わたしはパパの……代わりにはなれないの?」
 大きく息を吸うと阿片の臭いがした。阿片に蝕まれてハンの細胞のひとつひとつが黒ずんでいくようだった。このまま自分も酔いしれてしまいたかった。
「ねえ、叔父さん、気持ちいい? もっと、もっとちょうだい」
 壁に飾ってある剣がハンの目にとまった。
 なにも考えずに剣を手に取り、鞘から抜いた。真っ直ぐな刃は枕もとの光を集めて微かに輝いている。快楽的な声にならない声をあげて彼は性的興奮のうちに果てた。ハンは手首をくねらせて角度を変えながら、たゆたう光に見とれ続けた。やがてそれが凍てつく鋭い光をまとったとき、ハンは刺繍布団に刃先を立てた。
「幸福の絶頂で夢うつつに死ねれば本望でしょう」
「……もっと阿片をおくれ。このままおかしくなってしまえばいいんだよ。楽になれるから」
 まゆに突きつけた切っ先がぶれる。
 冷静に考えてみれば、カーグの嬌笑は本来の性質ではなかった。我に返ったハンは悲鳴とともに慌てて剣を投げ捨て、尻餅をついた。ぞっとする。ハンはカーグを救いにきたはずなのに、いつのまにか嫉妬に狂って殺そうとしていたのだった。
「ハンナ」
「なあに、カーグ」
 やっと自分の名前を呼ばれたのが嬉しくて、ハンは喋ってくれるまゆに寄り添った。
「ミイラ取りはミイラになってしまうんだよ。叔父を阿片漬けにした報いだ」
「カーグ」
 なんて可哀想なカーグ。声だけではもどかしい。ハンは思い切って布団をひっぺがした。
 そこには全裸のカーグがうずくまっていた――。
 ちょうど布団が枕もとのオイル・ランプを隠す形で捲れあがっているので、その姿に生々しいものはなかった。薄暗い部屋に白くしなやかな肢体がビスク・ドールさながらごとりと置かれている。ぐったりしたカーグは普段ハンが見ていた彼とはまるで違い、怪しい気配を漂わせていた。カーグを包む闇に魅惑的で危険な別世界が潜んでいそうだった。
 まるで計算されたかのようにカーグはシノワズリの部屋に調和していた。そう仕組んだのはもちろんピーターである。この部屋の美は生きたカーグを使うことで完成される。ハンは創造主ピーターに対する自身の非力さ、ちっぽけさを感じずにはいられなかった。
 異性の裸体を前にしてハンは不思議と落ち着いている。いま対面しているカーグへは恥ずかしい気持ちより隠されていた悪事を見てしまった気持ちが強かった。そしてこの“罪と罰の具現”の姿から、目を逸らしてはいけないと思うのだ!
 一方、カーグがハンに生まれたままの姿を見られても恥らう様子がないのは、泥酔しているためであろう。彼の視線はぼんやりと定まらない。そのさまは痛々しく、中毒が進んでどうしようもなくなったピーターを彷彿とさせた。
「僕は……僕は、このまま地獄へと堕ちる! 叔父に殺意を抱いた日から……そのときは、決められていた! いま……僕を陥れようとしているのは、ザキルカさんじゃ……ない! 彼の魂と肉体を……借りた……“魔神”の……“魔神”の裁きなんだ!」
 憑かれたように喘ぎ紡ぐその言葉が、ハンには自分自身のことを言っているように思えてならなかった。
「カーグ。地獄に堕ちるべきはこのわたしなのよ。わたしだけでよいのに」
 カーグは震えた手でハンの頬に触れて、顔をくしゃくしゃにして静かに涙を流している。その手を取ると“してしまったこと”の大きさが直に伝わってきた。

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