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「好き。嫌い。好き」
 黒い薔薇の花びらをちぎっては、「好き」と「嫌い」を交互に繰り返した。夜風が興奮するザキルカの頭を程よく冷やしてくれている。
「嫌い」
 と言ってザキルカが次の花びらをちぎろうとすると、最後の一枚であった。
 ちぎる指がためらった。これではハンとの友情が成立してしまう。結果をすんなり受け入れられないこの状態に、ザキルカは自嘲ぎみに笑んだ。
「友情は決裂だ」
 ザキルカは丸テーブルに散った花びらを片手に鷲掴んで夜空へ撒いた。バルコニーの手すりに寄り掛かって、『エリザベス』の花びらがはらはらと闇に溶けていくさまをサラマンダー・ランプで照らす。
「おやおや、ザキルカさまではありませんか。お部屋を間違えていらっしゃいますよ」
 ロロットが宿泊部屋に戻ってきたようだ。大げさな物腰の低さに嘲笑がほの見える喋りかたである。
 ザキルカは動揺を隠しながら振り返りつつ、
「お帰り、ロロット。用があって待っていたのさ」
 夜のバルコニーにサラマンダー・ランプの無作為な光が遊んでいる。愛想笑いを浮かべる中年男の胸中が不気味に躍動しているように思えた。
 暖炉の焚かれた部屋にザキルカが入る様子を見せないので、ロロットはバルコニーに足を踏み入れた。椅子に座るザキルカはテーブルに片肘をつきながらにこにこしている。
「どのようなご用件でしょうか、ザキルカさま」
「長い夜だ。身分の垣根を越えて、男同士腹を割った話をしようではないか」
 差し出された黒革の手の平にロロットは困惑を見せたが、やがてにたりと笑ってそれを取った。
「そういうことでございますか?」
 ロロットの手を固く握り返したザキルカは、彼に引き上げられる感じで椅子から立ち上がった。
「そういうことって?」
 ロロットが思い当たることをはぐらかして、ザキルカはバルコニーの手すりから夜のポルラム庭園を眺めた。
「こういうことでございましょう?」
 淫らな気配を感じると同時にザキルカは背後に回り、ロロットの長い両腕を後ろで拘束した。バルコニーから上半身を乗り出させる。ここは三階である。うそ寒い風がロロットの首筋を撫でた。
 自由を得ようとロロットがもがいたとき、彼の後頭部に冷たく重みのある金属が密着する。コインほどの大きさであるその一点に、おのずとロロットの意識は集中した。そのままロロットは大人しくなった。神経が痙攣しているようだった。
「この瞬間のために俺はお前を呼びだしたのさ、ロロット!」
 拳銃を握るザキルカの声は異様に明るく、それは狂気じみて響いた。
「馬鹿な真似はおやめなさい。私を殺せば、貴方の人生は――」
「黙れ。軽蔑するお前の説教など聞きたくはない」
 引き金に指をかけると、ポマードたっぷりの油っぽい頭が目に見えて震えていた。
「……温室育ちの坊ちゃんには引き金が引けますまい。私の頭を飛ばすのが恐ろしいのでしょう?」
 小馬鹿にしたようにロロットが強がるので、ザキルカは銃口をさらに押し付けた。
――いまロロットの命を握っているのは、この俺だ。
 そう認識したら、ふっと笑えて、
「ピーター師匠の中毒症状を思えば、俺は何だってできる。一回じゃ足りないくらいだ」
 射抜くような眼でザキルカは銃口に密着する頭を睨みつける。
――醜く泣いて命乞いをしろ!
 ガラスのなかに閉じこめた、蛍のように飛び交う火の神サラマンダーがごうごうと音を立てながら燃えていた。

 三日後、ポルラム邸の女主人ハンは朝食の席で新聞を広げた。子どもの身体に大きすぎる新聞が滑稽で、給仕を手伝うショウははにかんだ。
「なんち書いとうとです?」
 ショウが読めないブリンガル語の新聞を覗きこむと、ハンは当惑しておもむろにそれを閉じた。浮かない顔をしている。
 すぐさま声をかけようとしたショウをどかして、オリアーヌがハンに寄り添った。オリアーヌはしゃがみこみ、ハンの手を姉か母親のように優しく包み込む。
 小作りな顔に不安の色を浮かべながら女主人は客室女中を見つめ、
「オリアーヌ。ロロットさんが逮捕されたそうよ」
「それは本当でございますか?」
「ええ、もちろんよ。奴隷法違反ですって」
 とび色の目を見開かせたオリアーヌの肩をショウがとんとんと指で小突く。
「奴隷法違反っちなんです?」
 ハンとオリアーヌ、おまけに後ろからラファルグの視線が自分に刺さってくるのをショウは感じた。
「先代と彼の執事の“愚行”をわざわざ知らないあなたに話す必要があって、ショウ?」
 厚ぼったい唇を尖らせて、オリアーヌはハンを背中に庇いながらショウにきつい目を向ける。
 隠すのはそれが重要だと言っているようなものだ。ショウは引き下がらない。
「奴隷を折檻で死なせたんです?」
「違う。ショウ。ハンさまの名誉のために深く探るな」
 苛立つショウは、やってきたラファルグに不快な目をあからさまに向けた。ラファルグはスパイの報酬でもあるラクダのコインを、ザキルカが見ている前でハンのプレゼントに変えてしまった。いつの間にかスパイから足を洗ってしまったのである。
 ショウはポルラム邸で孤独なスパイとなっていた。
 ピーターの愚行がばれる奴隷法違反とは一体なんであろう。
――同性愛。ピーターが男の性的奴隷を買ったとか?
 と円らなヘリオドールの瞳に目配せすると、ハンは首を横に振った。それもそうだ。ピーターには男の愛人が既にいるではないか。
「とにかく。元執事の逮捕が新聞に載ってしまったからには、ポルラム邸の悪評は増えるでしょう。それに騙されないでちょうだいね、ショウ。ファン・クラブの面々にも重々伝えておきなさい。ね?」
 ショウがハンを責めようとすればオリアーヌは厳しい口調でそれを制して、無言の脅迫をしてくる。後ろを向けば、ラファルグが「ハンさまを苛めるな」といった顔でショウを見張っている。板挟みだ。
 ハンのほうを見れば、彼女は女主人という張りつめた糸が切れて今にも泣きだしそうなひ弱い少女になっていた。
 ヘリオドールの神秘的な輝きが涙で増して、ハン・ヘリオス・ポルラムは至高の形態のひとつを見せていた。ショウは彼女にまたしても見惚れ、引き付けられた。
 使用人三人で朝食を片づけたあと、ショウは朝食にあまり手をつけずに退席した青白いハンが心配になって、三階まで上ってみた。
 ご家族の寝室がある私用な区間に侵入したのだ。もしだれかに見つかったら「カーグの寝室に用があった」と言えばいい。ショウは言い訳のためにブリキの石炭入れ――動き回れるように石炭を減らしてある――を持ってきていた。
 おそらく使用人の寝室と同じで、男と女の部屋は離れているはず。方角に見当をつけてショウは廊下を歩きはじめた。ハンの居間には犬が何匹も放し飼いにされているそうだ。
 居間と思われる部屋は奥まったところにあった。ショウは石炭入れを足下に置いて、ドアをノックしてみる。
「ハンさま?」
 返事がない。ドアノブをひねると鍵はかかっていなかった。ドアを少し開けてショウは隙間からなかを覗いた。
 部屋を間違えたらしい。犬が見当たらない。どうやら犬は壁の向こう――隣の部屋――で吠えているみたいだ。
 しかしショウは雑然と物が置かれたこの部屋がひっかかった。
 入ってみると、車輪のついた籐編みの椅子が目に付いた――車椅子である。どうして車椅子があるのだろう。ショウは小首を傾げた。ハンには大きすぎるようだし、この屋敷で車椅子といえば阿片中毒のピーターが思い浮かぶのだ。
 さらに奥に進むと化粧台があり、目を移せばハンには丈の長い黄ばんだネグリジェが吊るしてある。部屋の隅には『エリザベス』が咲き乱れ、足下にはガラス容器に入った羊歯が青々と茂っている。
 そして部屋の最奥、中央には大きなベッドが鎮座していた。天蓋から上品で繊細なレースのカーテンが垂れている。
 ショウは息を飲んだ。うっかり女性の寝室に入ってしまったらしい。しかしここはハンの部屋であろうか? 壁には蝶の標本が並んでいるし、ソファーの足もとには虎の顔を保った状態の毛皮が敷いてある。動物が大好きな少女の寝室だとはとても思えなかった。
 というのは、シェフ・ポワンが通訳を介してこんなことを言っていたからだ。
――お嬢さまに、肉料理の正体が庭で捕まえた鳥や兎だと勘づかれてはならない。隠し通すのだ――
 だからこの部屋のぬしがハンであるわけがないのだ。
 ショウは物置の可能性を考えたが、だとしたら植木鉢の薔薇が瑞々しく咲いているのはおかしい。ケイトかユリエの寝室の可能性も考えたが、暖炉は今朝も使われた形跡があるし、化粧台に置かれた香水は朝食の席でハンがつけていたものと一致していた。
 信じられなくても、ここはハンの寝室なのだ!

 傍らでは、朝食を食べ逃したハンがバターとマーマレードを塗ったトーストを頬張っている。新聞の犯罪欄に印字されたロロット逮捕の記事に、カーグは眉をひそめた。
「『ロロットは十三歳未満の奴隷を月平均五人借用していた』――この記事おかしいな」
「あら、どうして?」
 カーグの呟きに、ミルク・ティーを一口飲みハンが訊ねた。少なくとも「十三歳未満の奴隷を借用していた」のは事実だからだ。
 ハンと同じミルク・ティーを口に含んで、カーグはハンの前に新聞を広げて人名の部分を人差し指でなぞった。
「ロロット?」
 小首を傾げるハンにカーグは頷いた。
「これだとロロットの私用みたいじゃないか。ロロットは執事として叔父さんの命令に従っていただけなのに、ピーター・ポルラムの名前はどこにもない。本来ならば一面に『ピーター・ポルラム奴隷法違反』ってでっかく載るところだ」
 カーグが両手を使って訴えると、ハンはおかしそうに笑った。
「ほんとうね、パパの罪がロロットさんの罪になってしまっているわ」
「まったく。警察は上流階級に賄賂をもらっているらしいからね。痛い目にあうのはいっつも労働者階級だ」
 ウミガメのスープよりもマッシュ・ポテトが大好きなカーグは不愉快そうにぼやいた。
「わかるわ。でも、ロロットさんには悪いけれど、これでよいのよ。パパの名前が載った日にはわたしたち、犯罪者の家族として路頭に迷ってしまうもの」
 それはそうだ、とカーグは大きく頷いた。しかしまだ難しい顔をしている。
「どうしてロロットは捕まってしまったんだろう」
「ロロットさんに捕まってほしくなかった?」
「いいや、どうでもいい。でもあまりにも突然すぎる。奴隷法なんて上流階級にはあってないようなもので、いちいち捕まえてたらきりがないんだよ。現に叔父さんは今まで捕まらなかったじゃないか」
 突然といえばザキルカがロロットを招待したことも疑問である。
「カーグ。ポルラム邸を没落させようと企んでいる“だれか”が告発したのではないかしら」
「ロロットは完璧に数字を誤魔化していた。不正な奴隷使用が外部に漏れていたとは考えにくい」
 ハンは首を左右に振った。
「知っている人間よ」
 両肘をテーブルにつき組んだ指に顔を埋めて、ハンは親友の名を心で繰り返した。
「内部告発? まさか。反乱分子はみずから去っていったじゃないか」
 カーグは使用人のなかに犯人を捜したらしい。ポルラム邸に出入りしていたザキルカも内部の人間のひとりだとカーグに教えるべきだろうか。
 しかし、ザキルカが告発したという確証はどこにもない。告発すれば最愛の師の名誉に傷がつくかもしれないのだ。一般的にザキルカは考えられない。
 そもそも簡単に親友を疑ってよいものだろうか。
「告発でなかったら自首か。でもロロットは自首する、ような男、じゃ――」
 そのときマッシュ・ポテト――シェフ・ポワンの「究極のマッシュ・ポテト」だ――をすくい取るカーグのスプーンがハンの目前で派手に飛んだ。銀食器は大げさな音を立ててフローリングの床に落ちた。
「だいじょうぶ?」
 カーグは失敗した右手を左手で包んでうつむいている。手を滑らせただけなのだが、彼にとって、ただごとではなかったようだ。
 倒れた日から彼は手袋を常に着用していなかった。――ときおりいまのような発作が起こるのだろうか。ハンは心配になった。
 自分のフォークを取って、ハンはカーグの皿からマッシュポテトを一口すくった。
「はい、カーグ。あーんして」
 口もとに運ばれたマッシュ・ポテトを見つめてカーグはためらっていた。終いには顔を背けてしまう。
「ひとりで……食べられるから」
 赤くなるカーグにハンはにやにやしてしまう。同性なら平気でやっていそうなのに、なぜかハンには異常に免疫がないカーグが可愛かった。だからよけいに勧めたくなるのだ。
「わたしが食べさせてあげたいの。お部屋には鍵がかかっているから、もっと仲良くしましょうよ。あーん」
「わかった」
 カーグの口はマッシュ・ポテトには行かずにハンの頬を掠めた。そこから唇を滑らせて、カーグはハンの唇を貪りはじめた。マッシュ・ポテトがそっちのけである。
「鍵がかかっていますね」
 緊張した声が室内に響いた。ドアノブを執拗に回す音とともに、見知らぬ男のだみ声が聞こえてくる。夫婦はいちゃつくのをやめて、ドアのほうに注意を向けた。ハンがカーグの腕にしがみつく。カーグは一歩前へ進み出てハンをドア側から隠した。
「合い鍵とかありません?」
「ここに、ございます」
 ダルトワの返事がして、かちゃかちゃ鍵を開ける音がする。ふたりは身構えて、ドアが開くのを待った。カーグの袖をつかむハンの手は微かに震えていた。
 ドアが開け放たれ、見慣れぬ中年紳士が山高帽片手にどかどか入り込んでくるなり、
「カーグ・ソーンさん。えー貴方をケヴィン・ロロットの共犯者容疑で逮捕します」
 突きつけられた逮捕状を見て、ハンとカーグは息を飲んだ。

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