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 パパは猟銃を向けたわたしに親しげな笑みを浮かべて、わたしの手を取ったのだ。
 喪服のケイトママはユリエちゃんの棺にしがみついて泣いていた。
 オリアーヌ、だれにもしゃべってはだめよ。ぜったいよ。おねがいだから。
 ああ、階下から従僕の笑い声が聞こえてくる。化け物、化け物。わたしは耳をふさいだ。
――カーグの寝室になぜ警察のひとが立っているの。
 ハンのぐちゃぐちゃした心を知る由もなく、レスター警部は淡々と手錠を取り出す。そして意外にも、カーグはそれに大人しく捕まったのだ! ハンは叫んだ。
「おねがい、連れていかないで! わたしの大切なひとなの!」
「生憎ですが、マドモアゼル。貴方の願いを聞き入れることは出来ません」
「どうして?」
 わがままを通そうとする童女のように、ハンは警部に食い下がった。
 カーグが帰ってきた日、彼を二度と独りにしないと誓ったのだ。地獄へ堕ちるのなら、ふたりで一緒に。抜け駆けは許さない。――夫婦なのだから。
「ハンナ、だいじょうぶだよ。僕は無実なんだから」
 カーグはそう言うが、彼の身分はそんな盤石なものではない。社会は上流階級に都合が良いように出来ている。
「行ったら二度と帰ってこれない……おしまいよ」
 泣きそうな声で首を横に振ると、ハンは再び警部に取りすがった。
「代わりにわたしを捕まえてちょうだい。おねがい」
「離してください!」
 レスター警部は部下の助けを借りて、しつこい童女をやっとのことで振り払った。
 振り払われた勢いでハンはよろめき、椅子を巻き込んで倒れた。カーグは即座にハンを助け起こそうとした。しかしカーグは拘束されていた。ふたりの距離は既に遠く、引き裂かれようとしていた。
「レスターさん、この手錠を外してください。別れる前に一度だけ妹を抱きしめさせてください。本当にもう二度と会えなくなるかもしれないんだ!」
 気絶しているハンの額からは血が垂れている。情けによってカーグの悲痛な訴えは許可された。両手が自由になるとカーグは駆け寄って、抱きしめ、目を閉じて妻の体温を忘れぬように感じた。
 「さあ、もういいだろう」と警部の部下が促すと、カーグは名残惜しみつつも素直に両手を差し出した。
「そちら、妹さんなんです? さぞかし別れがつらいことでしょう」
 警部の言葉は上っ面だけ。両手はもう使えない。カーグは悔しさをかみ殺した。
――あなたが思っている以上に僕らの別れはつらいのだ。
 ふたりに兄妹以上の繋がりがあることを、ここにいるだれもが知らない。「妹」ではなく「妻」だと叫びたかった。

 銀のトレイにティー・ポットとマカロンを載せてオリアーヌがやってくると、人だかりになっていた。野次馬根性むき出しの使用人たちが、ハンとカーグと警察の模様を鍵穴から覗いているのだ。オリアーヌは大きく息を吸った。
「あなたたち、なにしてるのよーっ!」
 野次馬は例の「カーグさまファン・クラブ」中心に構成されていたから、たちが悪い。オリアーヌは唇を尖らせながら、若い家女中を不愉快そうに見まわした。するとそのなかにターバン頭を見つけ、呆れかえってしまった。
「ショウ、あなた」
「お、おいらもファン・クラブの会員ですけん」
 オリアーヌのなかに再びショウへの軽蔑心が生まれたとき、ドアが開いた。
 警察という権力にファン・クラブは道を作らざるをえない。――ああ、手枷をされた「我らが王子さま」が連行されていく。辺りは厳粛な空気に包まれていた。たまに少女のすすり泣きが聞こえ、なかにはエプロンの端で涙をぬぐう者さえいる。
 最後に出てきたハンが群がる彼女らを見つけるなり頬を膨らますと、蜘蛛の子は散っていった。
「ハンさま、血が……」
「たいしたことないわ」
 額の血を拭ってもらいながら、ハンの視線はショウの手にしているものにいった。オリアーヌもそれに釣られる。野次馬で三階まで上がってくるにはちょっと重たい荷物だ。
「カ、カーグさまのお部屋に石炭を足そうとしたんよ。そしたら騒ぎに巻き込まれて」
「見送ってくるわね」
 ハンはショウの言い訳に言葉を返さず、廊下を進んでいった。
 オリアーヌが窓から見下ろすと、正面玄関前にブラック・マリア――囚人護送車――が堂々と停まっていた。カーグが乗りこんでいくのが見える。ポルラム邸に暗雲が立ち込めていた。
 いたずら小僧を取り押さえている場合ではない。

「ハンさま、今日のドレスはいかがなさいましょう?」
 ベッドの中で濃いめの紅茶を飲んでいると、侍女のイェリムが訊ねた。
 するとハンは茶化すような笑みを浮かべ、
「午後に執事室のお披露目会があるから覚悟しておいて」
 と言って、ビスケットをつまんだ。
 ステッチのきいた子羊革の手袋を選びとりながら、「執事室のお披露目会ですね」と繰り返したイェリムはようやく感づいたみたいだ。
「執事室とは以前ソーンさんが使っていらしたお部屋のことでしょうか?」
「そうよ。その前は逮捕されたロロットさんが使っていたでしょう。昨日の朝刊を見て『新聞や雑誌の取材をしたい』ってひとがいっぱいいて。午後は警察のかたも来ることだし、まとめてお呼びしたの」
 気の利いた言葉を返せないでいる若い侍女に、ハンはふふっと笑って「だいじょうぶよ」と言い添えた。
 紅茶を飲み干して、ハンはひと息ついた。大丈夫じゃない。しかし追い込まれてしまったのだ。それが没落への道だと知りながら、ハンはポルラム邸の実態を露見させようとしていた。
 午後になり、二十数台もの大がかりな写真機が運び込まれると、ハンはいよいよ固唾を飲んだ。ハンの生活圏を中折れ帽や鳥打帽が土足で踏み込んでいく。
 家女中たちが慌てて掃き清めたのであろう、使用人区画の廊下は古びていながら埃ひとつ落ちていなかった。
 執事室のドアが開かれると、警察関係者と報道陣がどっと押し寄せて室内を満たした。書類が飛び交い、引き出しがひとつひとつ開け放たれた。木製のシンクの排水溝やデキャンタの中身まですみずみ調べられ、ハンは丸裸にされた気分になる。
 探し物は見つからないでほしい。ロロットが隠しきれなかったものを、カーグが綺麗に掃除しているようハンは願った。
「ポルラム嬢」
 レスター警部が手招きする。しゃがんでいる警部の視線に合わせてハンも屈みこむと、引き出しの中に阿片チンキの小瓶が二十から三十、薬の備蓄としては多すぎる量が入っているではないか。カーグの私物だ、とハンは直感した。
 こんなところでカーグの弱みが見つかってしまうなんて。警部と目を合わせられず、ハンは押し黙っていた。
「ロロットもソーンも阿片中毒の気がありますし、見つかっても彼らは執事だったんですから『具合の悪い部下に舐めさせるんだ』とでも言い訳できますねえ」
「阿片中毒? あなたが調べているのは奴隷法違反でしょう?」
 警部は皮肉ったように唇の端を歪ませて笑んだ。
「実は奴隷法なんちゃらというのは口実でしてね、ポルラム嬢。……主人が重度の阿片中毒患者だったのに、阿片チンキがこの量で済みますかねえ?」
 と言って、灰色の瞳でねぶるように見つめてくる警部にハンは鳥肌を立てた。
「どういうことでしょう?」
 すると警部は鼻の穴を膨らませた。自信たっぷりに人差し指を遊ばせながら、
「ポルラム博士が亡くなったとき、我々は一度この屋敷を捜索しましたね――使用人区画を除いて。そのときね、引きこもりの博士にしちゃー阿片が少なすぎると思ったんです。これはその感覚に似てます」
「うちのだれかが、阿片を隠しているとおっしゃりたいの?」
「物わかりのいいお嬢さんで」
 なんということだろう! 警察は水面下で養父の死因を訝しんでいた。静かな水面を保とうとするわたしたちの努力は報われないのか。水面を波立てたいザキルカの勝ち誇った笑みが目に浮かぶ。
 そしてやっかいなことには、警察は貧しい甥のカーグを疑っている。
「そんなわけで、使用人区画の他の部屋も調べさせてください」
「その必要はないわ。パパはポルラム邸に自分の阿片窟を持っていました」
 ハンの言葉が耳に入った記者がひとり注目して大声を上げた。すると途端に部屋中の取材陣がどよめきはじめた。
 ついに阿片窟が公になるときが来たのだ。いったいどこにカーグを救う道があるのだろう。
 警察関係者と取材陣を引き連れて格子模様の玄関ホールを贅沢に横切り、ハンは使用人階段の裏を指差した。掃除用具を抱えた家女中が曲がり角から、ひょっこり顔を出している。ハンはカーグから託された合鍵を警部の手の平に載せた。秘密の部屋はあっけなく秘密でなくなった。
 茶室の扉が開かれると、狭くこじんまりとした部屋が現れた。ハンが飾り棚から象柄の紅茶缶を取って中身を見せると、カーグのコレクションはあっという間に没収されてしまった。あれほど重たく感じていた紅茶缶はただの空き缶に成り果てる。まるで空腹の物取りに奪われたあとみたいだ。
 ハンはピーターとカーグの温もりが残る隠し部屋の入り口を開けた。そして別世界だった阿片窟は露見された。
 滅多にお目にかかれない上流階級の東洋趣味に男たちのため息が漏れた。取材陣は贅を尽くした極彩色の部屋を文字に起こして、美術的に価値の高い竹煙管を写真機に焼き付けた。ハンは自身の両腕を抱いた。
 呆気ない。しかしそう感じながらもほっとしている自分がいた。もうこの部屋はピーターとカーグだけのものではないのだ。重苦しい秘密をひとりで抱える必要はなくなった。
 すべてを知りつくし、客人は満足して帰っていった。視姦されつくした阿片窟のなかにハンは佇んでいた。
――夢の残りかす。
 疲れた。ピーターとカーグが愛し合った刺繍布団もなんだかぐったりしている。阿片の臭いが甘酸っぱくて吐き気を誘う。くらっとして、ハンは花鳥画の上に膝をつき額に指を添えた。
「阿片窟。貴女という罪から逃れるための場所だったんでしょうね」
 道化のようなザキルカの笑い声にハンは神妙な面持ちで振り返った。

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