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 闖入者は東洋趣味な絹布団をカウボーイ・ブーツの足で乱した。
「カーグさんは生ける現実逃避に違いなかった。ここまでやられると逆に清々しいですよ、ピーター・ポルラム。なんなんだ、この部屋!」
 ザキルカは花鳥の刺繍をかかとの拍車で乱暴に蹴り裂いた。艶やかな純白の真綿が顔を覗かせ、それは伸ばされちぎられ丸められ、金の間仕切りに勢いよくぶつけられた。
「やめて、ザックさん」
 興奮するザキルカの脚にハンはしがみついた。冷たい視線が落ちてくる。
「ハンナさんも知ってたんですか、この部屋? 三人で――いや、ロロットも入れて四人か――隠れてこそこそやってたんですか」
 ザキルカの視線に耐えきれず、座りこんだままハンは二、三歩後ずさりした。脚が自由になったザキルカは引っかかっる真綿をブーツで力任せに引きちぎる。ハンは肩をびくつかせた。
「くそっ!」
「阿片はもうここにはないわ。それにこの部屋は……もうすぐなくなる。いっぱい写真を撮られたから」
 拳を握りしめて震わせるザキルカを宥めようと、ハンは阿片窟の未来を囁いた。すると、ザキルカはハンに軽蔑の目を向けた。
「他人事のようにいいますね」
「だってわたしもこの部屋を知らなかったのだもの。パパが死んで初めて知ったの」
「当事者はピーター師匠とカーグさん、ですか」
 ハンはくすっと自嘲した。
「あなたはわたしもって言いたいのね。全部わたしのせいにしたいのでしょう? わたしだってこの部屋はきらい。だいっきらいなのよ。だってカーグが……」
「俺はピーター師匠とカーグさんの関係よりも、貴女とカーグさんの関係のほうが気になりますけど」
 そう言いながらザキルカはふらっとハンに近づく。強引に両肩を押しつけられて、気がつけばハンは刺繍布団に仰向けになっていた。恐怖を覚えた。ザキルカがハンの全身にのしかかっている。
 ハンの顔のすぐ上には、高慢な女誑しの顔があった。スカートの脚は両脚に挟まれて、身動きが取れない。ドレスの下の重装備――コルセットやバッスル――がやわくて頼りないものに思えた。素肌をうそ寒い風――いや、ザキルカの存在が撫でた。ハンは顔を背けた。
 ザキルカは笑い声を立てた。華やかなテノールが彼をより威圧的にしていた。
「貴女とカーグさんの関係が兄妹を超えていることくらい知っています」
 驚いたハンは友人の顔を見る。
「隠していたのに」
 ザキルカはおかしそうに笑った。
「だれだって知ってますよ。貴女はカーグさんが好きで、カーグさんも貴女が好きなんだって」
 懐っこくザキルカが微笑むので、ハンはおそるおそる頬を緩めた。しかし安心したのも束の間、ザキルカの手のひらがハンの耳もとを掠め、刺繍布団を叩きつけた。びくっとしてハンは目をつむる。ふたたび視界を開くと、ザキルカはキスが出来るほど唇を近づけて吐息を漏らした。
「師匠の亡骸の上にふたりの幸せを築こうと思っていたんですか?」
 その言葉は体内にすっと染みこんで心臓を締め付けた。黙っているうちにザキルカの身体が離れ、ハンが上体を起こすと彼は異国の家具を観賞する風にうろついていた。
「あなただって……」
 ようやっと反論を口に出しかけたが、途中でやめた。
「俺がなんです?」
 ザキルカはぴたりと足を止めた。ハンは鋭いラピス・ラズリの瞳を見つめ、見つめられながら、自分と彼の友情について彷徨っていた。
 ハンの視線に堪りかねたザキルカは、皮肉な笑みを浮かべた。
「屋敷とともに滅びるがいいさ」
 布団の上にへたり込んでいるハンのもとへ捨て台詞が浴びせられ、雨上がりの湿気のようにシノワズリの室内に残った。独りになったハンは消える運命にある阿片窟を直視して、まばたきをした。

 朝刊に昨日の取材結果が出ているはずだ。そう思うとハンはなかなか起きられなかった。オリアーヌが連れてきたトイ・プードルに誘われて、なんとかベッドから出たありさまである。
 問題の朝刊はまだ届かない。なんでも新聞配達人が寝坊したからだそうで……。腑に落ちないハンはもぐもぐ朝食を口に運んでいたが、ついに給仕のラファルグ――届きたての新聞にアイロンをかけるのが彼だ――が下げた皿を割ってしまう。慌てて破片を掃除するラファルグとオリアーヌを眺め、ハンはナプキンで口を拭いた。
「新聞がそろそろ届いてもよいころだわ。そう思わない?」
 「あるのでしょう?」と女主人が目で促すと、客室女中は緊張した面持ちでこくりと頷いた。
「実はちゃんと届いているんです。けど……ラファルグが……焦がしてしまったんです」
 ラファルグを見つめれば、彼はハンから視線を逸らして「本当です」と言った。ハンは納得いかない。
「焦げていてもよいから、見せてちょうだい」
 するとオリアーヌはまたもや気まずそうに口を開いた。
「さらにラファルグが新聞を……台所に持っていくものですから」
 と言ってラファルグと顔を見合わせる。ラファルグは軽く頷いて立ち上がると、ハンに向かって深く頭を下げた。
「申し訳御座いません、ハンさま。私の不注意により、とてもお見せできる状態ではございません! 新しいものを取り寄せている最中ですので、今しばらくお待ちいただけますでしょうか」
「待てないわ。読めるところだけ読むから、焦げたやつをちょうだい」
「捨ててしまいま――」
「よいわ。エマ先生に見せてもらう。馬車を出して」
 椅子を引いて立ち上がるハンに、オリアーヌは慌てて駆け寄った。
「ございます! まだ捨てておりませんので、持ってまいります」
 早足で退室するオリアーヌを尻目にハンは着席し、なにごともなかったかのように食事を再開した。焼きたてだったイングリッシュ・マフィンは少し冷めていた。
 本当に焦げて表面が波打っている新聞に、目を瞠ってハンはティー・カップを置いた。
「わたしに見せたくない口実だと思ったのだけど」
「自分一人で抱え込むにはあまりに大きすぎる記事でしたので」
 ラファルグが衝撃を受け階下で回されたという、いわくつきの朝刊に阿片窟の写真を確かめようとハンは一面を広げた。
 しかし一面は想定外だった。新聞はハンの手から膝の上に滑り落ちた。拾い上げ、震える手で顔に近づけて再確認する。
「ピーター・ポルラム博士殺害事件……」
 大人びた低い声でひとりごちて、ハンはまばたきを忘れる。
 起こってほしくないことが起こってしまった! 養父の死亡から四か月。事故死とされていた死因を警察は早くも覆し、北世界中に公表してしまったのだ。――レスター警部の顔が脳裏をよぎる。
「でもよく見て下さい。ソーンさん、ロロット共犯容疑のほうは釈放されていますよ」
 オリアーヌの声にハンははっと我に返り、あどけなく驚いた。オリアーヌはハンの横から一面の隅を指差した。
――釈放後、三十分後にピーター・ポルラム博士の殺害容疑で再逮捕。
 月の瞳がわなないた。ザキルカの思惑通りに、カーグに罪がきせられてしまった。
 してやられた。
 ハンは新聞の一面をもう一度確認した。まだカーグの写真は載っていない。そこにカーグを救う希望があった。思うに、カーグの顔立ちには信仰対象として描かれた少年の名残がある。だから決定的な証拠が出るまでうかつには載せないはず。
 しかし、気がかりなことがある。一面を飾っているのはピーター一家の家族写真であった。著名な研究者だったピーター個人の写真はいくらでもあるはずなのに、なぜ?
 マスコミは見出しの「ピーター・ポルラム博士殺害事件」以上のことをほのめかしていた。警察は“まだ”疑っている。
 倒れないでいるのがやっとだった。ハンはオリアーヌに支えられて自室に戻った。
 侍女のイェリムが「ハンさまの社交界が遠のいた」と泣いていた。イェリムはハンのことを「悲劇のヒロイン」だと言った。聞こえはいいけれど、感傷に浸っていてもなにも変わらない。状況を変えたいのだ。

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