-3-

 しかし、さらなる悲劇がハンを襲った――。
「水銀中毒?」
 ハンはレスター警部の口から発せられた言葉を繰り返した。自分の声で聞いてみてようやく飲みこめてくると、膝の上に置いた指先が震えはじめた。
「ご存じなかったですか? ソーンが水銀中毒を阿片で誤魔化していたことを」
「うそ……阿片の症状だと思っていました」
 思わずハンは両の手をぎゅっと握りしめた。けれど、まだ心のどこかでは信じきれておらず、楽観している自分がいる。
「もちろん阿片中毒でもありますよ。しかしそれは水銀中毒を隠すために、故意になった中毒だったんです。彼、阿片をちらつかせていたでしょう?」
 警部の声はひどく冷静であった。嘘の可能性なんて微塵もなかった。
 カーグの水銀中毒はてっきり完治したものと思っていた。養父の葬儀に出席したときには決着がついたものと思っていたのに。
「うそよ!」
「本当です。医者に行きたがらない彼の場合、逮捕されてよかったんです。不幸中の幸いでした」
 その言葉はハンの心にあまり届かなかった。下手したらカーグは死んでいたかもしれないのによくも平然としていられる。
 しかしハンの減らず口がおさまったころ、目に涙をためはじめた幼な顔に我が子でも見たのだろうか、警部はついにほだされて、
「確かに水銀中毒はピーター博士の殺害容疑に繋がりますがね、それは致命的な原因ではありません。犯人は必ずしも水銀中毒である必要はないんですよ」
 と個人的な意見を述べた。
 ふいにハンは警部を見る。慰めの言葉は逆にハンを追い詰める形となっていたのだ。
 阿片窟の件といい、熟練の警部は勘が鋭い。
「そうね」
 心をかき乱されながら、ハンはやっとのことで一語発した。忘れていた紅茶に砂糖を入れてスプーンでかちゃかちゃかき混ぜる。動揺を悟られてはいけない。
――もっと簡単なことだと思っていたのに。
 紅茶を飲んで心を温め、天を仰ぎ、息を吸って吐いた。壁に描かれた、いとけない天使たちがハンを見つめている。
「少し、休まれますか? 貴女のアリバイをお聞きしようと思っていたのですが」
「アリバイ?」
 ハンは大げさに口角を上げてみせた。
 警部は「カーグが犯人ではない」と、どれくらいの可能性で思いはじめたのだろうか――。
「わたしにも聞くのね。推理小説みたいだわ」
 楽しそうに言いながら、両手で腰を浮かせて椅子に座りなおし、ハンは姿勢を正した。
「よいわよ。その代わり、カーグのアリバイもちゃんと聞いてくださいね」
――だって百パーセント、カーグではないのだから。
――そして、わたしでもない。
 養父が死んだ夜のことをハンははっきりと覚えている。
「わたしとカーグは十二時前まで同じ部屋にいました。シルゾルト語を見てもらっていたんです。カーグはわたしの家庭教師でしたから」
「どこの部屋です?」
 懐から出した手帳に書きこみながら、警部の口は質問を投げることを忘れなかった。
「わたしの居間です。『異性とふたりきりになるのはよくないから』ってジョゼットさんも一緒についていて」
「ジョゼットさん?」
 鋭く向けられた灰色の目に気圧されたハンは乱れた鼓動を落ちつかせながら、
「わたしの“もと”侍女よ」
「“もと”?」
「パパが亡くなってすぐ辞めてしまわれたの。お給金が減るとでも思っ――」
「彼女とは親しい間柄でしたか?」
 二言めを聞き終わらないうちに警部が次の質問を繰り出したのでハンはむっとした。
「いいえ、特に。でも仕事はちゃんとやるひとでしたわ」
「深夜に勉強を見てもらうのはよくあることなんですか?」
 ジョゼットのことを考えていたら、今度はカーグのこと。質問が色々な方向へ飛ぶので、気づけばハンの笑みは消えていた。
「いいえ。あのころのカーグにはあまり会えなくて……十回頼んで一度捕まればよいほうね。あの日はたまたま身体があいていたのよ」
「身体?」
「パパの介護で、いろいろ呼び出されるんです」
「介護……そうですか」
 顔を赤らめてどぎまぎしているハンの心に気が付かなかったように、警部は手帳を見つめつつ眉をしかめて、
「ところでお勉強は十二時前までですよね。ピーター博士の死亡推定時刻はその一時間後の午前一時前後とみていますが、その時間はなにをされていたんです?」
「ごめんなさい。眠っていたんです。十二時前にカーグが部屋を出て行って、寝る支度をして……時計を見ずに灯りを消して寝てしまったのよ」
「なるほど。貴女のアリバイはジョゼットさんに聞くしかないわけですね」
「ええ、そうよ」
 すると急に心もとなく思えてきた。あの夜ハンのそばにいた侍女はオリアーヌでなくジョゼットでよかったと思っている。ハンとジョゼットは仲が良くも悪くもないからだ。オリアーヌのようになまじハンと親しい感情があれば、アリバイを捏造したりなんかして状況が悪くなりかねない。しかしジョゼットに自分の運命がすっかり委ねられたと思うと、やはりオリアーヌのほうが良かったのではないか、と今更ながらに迷いが生じてくる。
「ありがとうございました。それではお暇いたします」
「待って、警部さん」
 席を立ち早々に袖を通したフロックコートの右腕をハンは慌てて捕まえる。
「わたし、気になることがあるんですの。迷っていたのだけど、思いきって言うわ」
 横座りに腰かけた警部にチョコレートを押しつけて、ハンは静かに言った。
「養父が、生きているかも知れないんです」
 口に残るチョコレートの甘さを紅茶で中和している警部の返事を待たず、ハンは言葉を継ぐ。
「ザキルカ卿が特別にしつらえた『安全ひつぎ』の中で」
「ほう」
「彼がわたしに言ったんです。パパは中で眠っていて、目覚めたらお墓の鐘が鳴るのだと」
「『早すぎた埋葬』ですか。ところでその鐘は鳴ったんですか?」
 警部はティー・カップをソーサーのくぼみに一発で置いた。
「まだ鳴らないの。だからザキルカ卿に許可を取って、お墓を掘りおこしてもらえませんか? 怖いのよ、錬金術師の悪霊が」
「分かりました、やりましょう。腕利きの神父さんに祈りを捧げてもらいますから、心配はご無用です」
 薄くなった頭に山高帽を載せながらレスター警部の瞳は燃えていた。
 ペガーズ馬車を見送れば、青空が眩しくてハンは目を細めた。
 まだ希望はある。

Return to Top ↑