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 カーグのいない朝をさびしく迎え、晩はザキルカが捕まる日を指折り数えて過ごしていた。
 ピーターの墓の秘密を話してからもう二週間が経とうとしているが、警察からは何の音沙汰もない。ハンはもどかしさを感じていた。ポルラム邸のスキャンダルは連日止むことを知らないのに、このまま日替わりでカリーを楽しんでいてよいものだろうか。舌が肥えていくばかりである。
 庭木の枝で子育てする小鳥を愛でながら昼食をとっていると、ラファルグが銀盆を運んできた。
 手紙を受け取ると中に真っ白い封筒が混ざっている。
「あら、差出人の解らない手紙は燃やしてちょうだい」
 また、いつものいたずら。ため息ついて、手紙を銀盆に戻そうとすると、
「それはザキルカさまからのお手紙でございます。彼の使用人から直接受け取りました」
 と、執事代理はためらいがちに言った。ザキルカの名に顔を曇らせたハンがいつまでも封を開けずにいるのを見て、
「……いっそ燃やしますか?」
 怪訝な顔をするラファルグにハンは首を振った。
「いいえ、ありがとう。あとでゆっくり読むわ」
「ハンさま、カリーお代わりするです?」
 突飛に背後からターバン頭の小姓が首を出したので、ハンは驚いて悲鳴を上げた。その拍子に手紙が落ちる。
「まあ、びっくりした。あやうくカリーで読めなくなるところだったじゃない。おかわりはいらないわよ」
 花壇の土を払いながら、封筒にラズリ=キリミネ家の紋章が透かして見えることにハンは気付いた。郵便配達人を介さなかった手紙はやけに畏まっている。封蝋は血の色だ。
――もしかして。
 ザキルカが捕まる日が来たのかもしれない。私室に戻ったハンは、ペーパーナイフで丁寧に手紙を開封した。

 ハンは姿見に映る新しい首飾りを撫でた。レース編みのような黒玉が胸もとの貧弱さを見事にはぐらかしている。思いきったけれど、大人っぽいローブ・デコルテの夜会服にしてよかった。両手を広げてハンがくるりと回れば、あでやかな薔薇が漆黒の海で踊った。
「イェリムに任せてよかったわ。ほんものの淑女みたい!」
「そんなご謙遜を。ハンさまは生まれながらの淑女ですわ」
 そうね、と笑いながらハンは指先で口に蓋をする。――「ほんものの淑女みたい」ってなに? わたしはいまだに引け目を感じているのね。
「大変お可愛らしゅうございますう」
 若い侍女はハンの繊細な心など気がつかず、上機嫌で肩に毛皮をかけてくれた。
 ハンとイェリムを乗せた馬車は静かな高級住宅街に到着した。ガス灯が青白く照らす石畳の歩道にハイ・ヒールの音が響く。都会の夜はハンの暮らす郊外より明るくてどこか落ち着かない。
 社交シーズンには“パパたち”も街屋敷で過ごしていたっけ。歩道沿いにそびえる三階建ての集合住宅をハンは見上げた。貴族の邸宅では明け方まで夜通しパーティーが行われるという。一番賑やかな街屋敷の玄関前には白髪のかつらをかぶった男性使用人が立っており、紳士淑女らを丁重に招き入れていた。
 シルクハットの紳士に寄り添って歩くふくよかなご婦人をきらめく噴水ごしに眺めながら、ハンは胸を高鳴らせる。
「わたしたちも行きましょう、イェリム」
 イェリムの手をひっぱって、ハンは受付に並んだ。
 順番が来て、イェリムが手提げかばんをまさぐり招待状を探していると、受付のひとりがハンを見つけてにっこりと笑んだ。
「ハン・ヘリオス・ポルラムさまですね。お待ちしておりました」
「まあ、わたしを知っているの?」
「もちろんでございます。貴女さまのことは、ザキルカさまから『丁重にもてなすように』仰せつかっております」
 「従者のウィルソン」と名乗った燕尾服の男性が前を進み、ハンとイェリムを案内してくれた。しかし他の招待客とは違う道へ。次第にひとけが無くなっていった。
「ねえ、ウィルソンさん。晩餐会の席はあちらではなくって?」
 たまらずハンは賑やかな階段の上を指し示した。
「ああ、そちらは侯爵夫人――ザキルカさまのお母さま――が主催なさっている晩餐会です。ザキルカさまの私的な晩餐会はこちらでございますよ」
「私的な?」
「特別待遇という意味です」
 角を曲がるたびハンは不安になっていった。特別ってよい意味で? それともわるい意味?
――レスター警部はザックさんが犯人だとつきとめられたのかしら。
 もしザキルカが死罪に科せられる前の「最後の晩餐」ならば、ハンはとことん華麗な悪女になりきってみせよう。それが親友に対する愛情だから。
 しかしそうでないのなら、わたしはどうすればいい?
 思い惑ううちにイェリムと別れて、ハンひとりを連れたザキルカの従者は晩餐会場の扉をノックした。
「おや、今夜の主役が来たようだ」
 主役? ハンが小首を傾げていると、ザキルカみずから扉を開けて大歓迎してくれた。
 こぢんまりとした食堂が目に飛び込むと、ロビンのさえずりみたいに愛らしい笑い声が聞こえた。オレンジ色のロウソクが照らす和やかな空間に、「貴族の晩餐会」と意気込んできたハンは拍子抜けしてしまう。
 ザキルカの私的な晩餐会に招待されたのは、ハンと先程笑った少女のふたりだけだった。少女はリボンがいっぱいついた淡色の、乙女の特権ともいえるドレスがよく似合っていた。華やかな巻き髪が懐っこい顔立ちを引き立てている。少女がハンをじっと見ているので、ハンも気兼ねなく彼女を観察した。見れば見るほど夢ではないかと思うのだ!
「ハンナさん。こちら、シルゾルト公爵令嬢のピクネシア殿下です」
 やけに上機嫌なザキルカの紹介で、ようやくハンは目の前にいる少女がピクネシアだと信じられた。すぐさま憧れの姫君にぎこちない挨拶をする。
「はやく食べましょう? あたくし、お腹が空いてしまいました。呼び鈴を鳴らしてくださる? ザキルカさん」
 ピクネシアはザキルカにくりくりした目を向けた。婚約してからデートを重ねたふたりのあいだには、優しい信頼関係が育まれていた。
 ザキルカは幸せの最中なのだ。ハンはザキルカの幸せをぶち壊そうとしたのを後悔した。
 緊張しすぎて食べられるわけないと思っていたが、開放的な海を思わせるご馳走は美味で、「コルセットが無ければもっと食べられるのに」と惜しくなるほどだ。
 ハンがさくらんぼのジェラートに舌鼓を打っていると、黒目がちな瞳と目が合った。令嬢は品良く口角を上げる。
「よくお食べになりますわね」
「だってめずらしいですし、とってもおいしいんですもの。帰ったらうちのシェフにも牡蠣のペペロンチーノを作ってもらうわ」
「そう」
 言葉少なにピクネシアは目を細めた。その仕草にふと「しゃべりすぎだろうか」と感じたハンは下を向いた。本物の淑女はあまり話さないのかも。ピクネシアはジェラートで冷えた口をエスプレッソで温めていた。
 くすくす笑いながらザキルカがワイングラスを揺らしている。
「ハンナさん、ケーキもっと食べますか? ズコットなんてどうです?」
 ずっしりと甘そうなクリームが詰まったケーキとザキルカの顔を見比べて、ハンは彼が酔っているのに気が付いた。ハンが来る前にふたりで飲んでいたのだと思うと、不快な気持ちになった。
 ピクネシアも酔っているのだろうか。ハンと目が合った彼女は、顔色が悪かった。いつも目が合うたび微笑みかけてくれたのに、今度はにこりともしなかった。
 急にハンはコーヒー・カップを置いた。カプチーノはひとくちで十分だった。そのときピクネシアの嬌笑が聞こえ、それはやけにおんなおんなしていてハンは眉をひそめた。
「あなたの胃の中を思うと、あたくし気分が悪くなってきましたわ。……どんなに飾っても所詮“化けの皮”でしてよ、化け物さん」
 もう、ハンはピクネシアと目を合わせることができなかった。それがピクネシアの本音なのだ。
 ピクネシアには一点の曇りもなく、非はハンにあるのだと思わせる言い方だった。まるでハンの罪をピクネシアが知っているみたいに――。
 これ以上話すことはないと黙するピクネシアと気まずくて顔を上げられないハンの沈黙を心待ちにしていたのか、というタイミングでザキルカは立ち上がった。
「『化け物』という言葉ですが、あながち間違いとは言えなくなるんですよ、ハンナさん」
 食卓に百本近くあるロウソクの火がザキルカの薄い笑みを小刻みに照らし、顔の形は雲のようにおぼろげになってくる。
 先程のおちゃらけた態度はどこへ行ったのか、ザキルカはいたって冷静であった。一呼吸おいて、彼は明瞭なテノールを響かせた。
「先日十七日のレッガス・ナール研究所合同会議で、『不老不死開発プロジェクト』の廃止が通りました。ハンナさん、もう貴女は『エリクシール』ではありません。研究所が保護する義務も無くなったわけです。おめでとう! これが貴女の望む自由でしょう?」
 握手を求めるザキルカの手を取りながら、その手が離されることにハンは恐怖を感じた。けれども、握手はあっけなく解けてしまう。
「わたしは……どうなるの?」
 ピーター一家の死が疑われている今、ハンは身ひとつで世間に放り出されたのだ。
「自分のことくらい自分でなんとかしてくださいよ。それが自由ってものでしょう」
「どうして今なの?」
「さあ、どうしてでしょう。自分の胸に手を当てて、よく考えてみてください」
 ザキルカは本気だ。友情なんか欠片も残っていない。恨みしかない。本気でハンを堕としてしまうのだ。
「待って! わたし、生きていけないわ!」
 ハンは背を向けるザキルカをなりふり構わず追いかけた。

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