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 深く考えると涙が零れて不安でいっぱいになってしまうから、無心にペンを走らせた。
 書き損じの手紙を丸めて暖炉に放りこむ。なかなか職の決まらない台所女中クララの紹介状をどう書いたらよいものか。頬杖をついて悩んでいると、ノックの音がした。
「ショウです。いま、入ってよかたい?」
 その声はすでにハンの心にずけずけ入りこんでいる。小姓がこんな夜更けにいったい何の用だろう。日替わりカリーの打ち合わせはシェフと一週間分済ませてある。少し間を開けて、ハンは入室の許可を出した。
 入るなりショウは書斎を物珍しそうに見回した。
「ここはそのままなんやね」
「ええ。まだ使うから」
 ショウは窓際にあった椅子を適当に持ってきて、書き物机ごしにハンと向かい合って座った。
「スパイスの店なんやけど」
「わたしが紹介したお店、気に入らなかった?」
 書きかけの紹介状を引き出しにしまいながらハンが訊くと、ショウは首を振った。
「おいら、故郷へ帰るんよ」
 少年は褐色の首筋に映える白シャツの肩をすくめた。思えばハンがターバンを巻いていないショウを見るのは初めてだった。くすんだブロンドはザキルカの言うとおり趣があって、しかし結局ポルラム邸には馴染まなかったとハンは思う。
「そのほうがよいわよ。ここだと珍しそうにじろじろ見られるだけだもの」
「ハンさま」
「なあに?」
「おいらと一緒に行きます? あんたひとりくらい養えるけん」
 吸いこまれそうな空色の独眼に、ハンは目を背けた。弱っているため、ぐらっと傾きかけた自分が怖い。これはプロポーズなのだろうか、もしかして。もしかしなくても。
 答えに迷っているのを見抜かれたのか、ショウの目がさらに覗きこんでくる。どこまで見透かしているの?
「ソーンさんはあてにならん。おいらはあんたんことが好きですばい」
「わたしは……あなたに見られることがいやなの。ごめんなさい」
 深々と頭を下げたついでにハンは目をつぶった。
「ハンさま、おいら……」
「こわいの。わたしには何の価値もないのに、どうしてそんなこというのよ。あまり知らないくせに」
 するとうつむいたハンの頭に温かな手のひらが触れた。
「おいら、あんたがこんなんなるっち思っちょらんかったばい。――破産するなんて」
 ショウの優しさを、救いの手のひらを退けてハンはおもてを上げる。
「自分で決めたことだもの。でも、心配してくれてありがとう。だいじょうぶよ」
 そう言って微笑むが、上手くいかなかった。やはり無理している。
「だいじょうぶやないよ!」
 がたんと椅子を倒して立ち上がったショウに、ハンはぶんぶん念を押して首を振った。そしてはっきりと強い調子で言った。
「わたしにはやるべきことがあるのよ。この土地で」

 ピーター・ポルラム殺害事件の容疑者として逮捕されたカーグは、起訴猶予処分を受けてようやく釈放された。真犯人が見つかったのかどうなのか警察は明らかにしていないが、カーグが釈放されたのは病のためらしい。拘留中もほとんど病院のベッドにいたそうで、今後はエマのもとに身を寄せることが決まっていた。カーグが両親に売られたとき、まだほんの六歳だった。そのころ頼りにしたエマはなんだかんだ言っても母親代わりで、カーグのもっとも信頼できる医者になりえた。
 ハンとカーグは天使の舞う応接室で再会した。ハンは二週間の拘留を経て少しやつれたように思うカーグの頬に手を差し伸べた。
 カーグは愛しそうにハンの顔をしばらく見つめていたが、どうしてもポルラム邸の異変が気になるらしい。シャンデリアが虚しく照らす空っぽの応接室に眉を寄せた。椅子もソファーもテーブルも、部屋の広さに数が足りない。
「ハンナ、グランド・ピアノはどこへやったんだい? 帰ったらあれで弾くの、楽しみにしていたのに」
 苦笑いしながらカーグは留守を任せていたハンに訊ねる。ハンはカーグから目を背けた。
「ごめんなさい。売ってしまったわ」
「あれはケイト奥さまの嫁入り道具なんだよ。あれだけ立派なピアノはもう二度とお目にかかれないだろうね」
 惜しそうにカーグは言って、ハンの顔を覗きこむ。
 ハンは唇を尖らせた。
「カーグはケイトママを好きではなかったでしょう?」
「うん、そうだけど……」
 気圧されたカーグは茶漉しから滴り落ちる紅茶をしんみり見つめて時を過ごし、やがて切り出した。
「ハンナ。どうして破産なんかしたんだ。『不老不死開発プロジェクト』が廃止されたから?」
 ハンが黙っているのでカーグはそうだと判断したらしい。エメラルドの瞳に熱がこもった。
「きみらしくもない。ふたりでポルラム邸に幸せな家庭を築くって決めたじゃないか」
 カーグの心は墓を荒らしたとき――いや、養父に阿片を勧めたときから少しも変わっていなかった。カーグはポルラム邸でハンと暮らしたいと願い続けてきたし、ハンも同じ思いだった。
 しかし今ハンはそう思えない。あの頃には、戻れない。
「もう、見栄を張るのやめましょう?」
 ハンは冷めた瞳でカーグを見つめた。カーグはテーブルの上で拳を握りしめた。
「見栄なんか張ってない。ポルラム邸は僕らの育った家じゃないか」
 身を乗り出して顔を近づけるカーグからハンは適度な距離を取った。ふるえる唇を噛む。
「カーグ。わたしたち、紳士と淑女には向いていないわ。ハイ・ヒールを履いたら足をくじいてしまった。わたしは化け物になった。あなただって身も心もぼろぼろじゃない!」
 ハンは涙の滲む目をさりげなく指でぬぐった。
「そのくらいなんだ。へこたれるな。諦めちゃだめだよ、ハンナ」
 カーグの精神がとても美しいと思った。そんなカーグに愛される自分を名残惜しく感じる。ハンは席を立って、ソファーに座るカーグの胸にしなだれた。あんのじょうカーグは抱きしめてくれた。
「ごめんなさい。わたしは、わたしはもう……できない」
 心地よい胸の音を聞きながら、ハンは愛しいひとの腕のなかでひとしきり泣いた。
 悔いはない。顔を上げたハンは愛する夫に優しく微笑んだ。
「ねえ、カーグ。わたし、あなたに話していないことがあるのよ」
 カーグは微笑み返せなかった。ハンがカーグの右手をさみしそうに握っていたから。

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