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 ユリエの死体が運び出された窓を左右に目一杯開くと、ポルラム庭園の山々を業火が赤く染めていた。不気味な雲が沈みゆく太陽を覆い隠そうとしていた。
 窓枠を両手で押さえてハンが上半身を乗り出すと、下方にはずっしりしたイチイの大木が植わっている。その先にはなだらかな丘が続いており、子どものシメールが白いカラスと戯れていた。夕焼けに染まる風景は無限に広がって小さなハンを包み、彼女はぐるぐると巻きこまれた。
「やっぱり、言えない」
 振り返るとカーグが目の前に立ちはだかっている。カーグはハンの手を取って窓から遠ざけるべく少し歩かせて、剥き出しのマットレスに座らせた。そしてその隣に腰を下ろした。
 ベッドの横にあったユリエの眼球標本コレクションはさっぱり無くなっていた。代わりにクマの縫いぐるみが置いてある。カーグはクマの頭をぽんと叩いて、
「これ、きみの仕業かい?」
 と室内をあらためて見回しながら呆れた。
「事件があってからこの部屋には入らなかったんだけど……入れなかったんだけど……八年。すっかり模様替えされちゃったね」
「カーグ」
「いつからこの部屋に入れるようになったの? ――殺害現場に」
 カーグはハンを見られずにいながら、空笑いした。そんなカーグの気遣いがハンの胸を締め付けた。
「かなり前から。殺したこと、忘れていたから」
 そう言ってハンはまぶたを閉じた。
「でも、いまではすっかり思い出してしまったの」
「そうか」
 ハンの手の甲にカーグの体温がかぶさった。温もりのおかげで、ハンは早めに呼吸を落ちつかせることができた。
「カーグ、ポルラム邸を没落させたのはわたしよ。わたしだったの」
「違う。きみひとりのせいじゃない。僕もそうだし、叔父も奥さまもユリエもザキルカもロロットもそう! みんなで壊したんだ」
「でもみるみる悪くなったのは、わたしがユリエちゃんを殺してからよ」
「違うよ」
 頭ごなしに否定しながら、カーグが次の言葉を考えるのにしばらくかかった。
「ユリエが僕に窓から飛び降りるよう命じたとき、きみは人質にとられていた。僕はきみのために命を捧げようと思ったんだ。きみが殺してくれなかったら僕はそのまま飛び降りただろうし、僕が落ちたあとで事件を目撃したきみはユリエに口封じされていただろう。正当防衛なんだよ」
「いいえ。わたしはもともとユリエちゃんの死を望んでいた。まったく口を効いてくれなかったのもあるけれど、わたしは両親に愛されるユリエちゃんが憎かったのよ」
 心細くてカーグに寄り掛かりたかったけど、ハンは堪えた。例の窓に目をやると、燃える空はいつのまにか青みを帯びて不穏な気配を含んでいた。ハンの胸の内と同じだった。
「ユリエちゃんがいなくなれば、わたしが愛されると信じていた。でもわたしは愛されなかった!」
「ハンナ」
 抱き包もうとするブランケットの手から逃れるべく、ハンは立ち上がってベッドを離れた。あわててカーグが追いかける。すぐ捕まってハンの背をカーグが覆い隠したが、温もりに甘えるわけにはいかなかった。言わねばならない。ハンは真っ直ぐ正面を向いて、額縁を取り外したあとの壁の穴を見つめた。
「ケイトママは『ユリエちゃんの代わりにあなたが死ねばよかったのに』とわたしを傷つけるようになった。やわらかい太ももにナイフを入れるのよ。わたしの罪をとがめない代わりにわたしのからだを弄んでいたパパが見つけやすいように」
「ごめん。ハンナ」
 背後から絡みつくカーグの腕がきつくなった。カーグの密着する部分から、ハンは自分が震えていることに気がついた。
「カーグ、わたし、うれしかったのよ。だって両親がようやくかまってくれたのだもの」
「馬鹿言うんじゃないよ!」
 兄か教師みたいに叱り飛ばして、カーグは背中しか見えないハンの顔を無理矢理自分に向けさせた。するとハンはぼろぼろ泣いていた。カーグはハンの額にそっとくちづけた。
 一瞬、ハンの視界が白んだのは虐待を思い出したからではない。カーグが愛想を尽かすときが近づいている。不安でいっぱいで、いっそのこと今すぐ嫌われてしまいたかった。
 なのに、カーグが優しい。カーグの優しさは名残惜しさを増幅させるばかりである。
 歯の裏でもつれている舌をどうにかしようとハンはもがく。準備が整わないうちから不安定に唇は開いた。発したはなの一音は失敗した。
「だんだん、うれしくないほうが大きくなった。苦しくなった。ユリエちゃんはね、死んでからもっと愛されたの。パパもケイトママも『ユリエ』『ユリエ』、ユリエちゃんのことばっかり」
 語尾が震えた。目の奥がわななくままに、
「パパの寝室はユリエちゃんの写真だらけよ。わたしはそれに向かって毎晩ごめんなさいするの。パパもケイトママも許してくれない。ずっと許してくれそうにない」
 緩んだ涙腺とともにハンの思いは堰を切って転がり落ちていく。だんだん言葉が裸になっていくのを感じる。カーグが頬を撫でるのでハンはそこから溶けていきそうだった。
 まぶたを閉じて、ハンはいっとき黒くもやもやした世界に身を浸した。
「そんなとき、ようやくパパは見つけたのよ。ドロワーズの下に走る無数の赤い線をね。パパとケイトママの仲はさらに悪くなったわ」
 うっすら笑みを浮かべながら、ハンはゆっくりと確実にささやきかけた。
「そこでわたしはパパに言ったの。『どうしてケイトママを殺してくれないの』って。パパがケイトママを病死に見せかけて殺すことはたやすかった」
 こみあげる笑いと不安が入り交じり、ハンは渋るような顔でカーグの様子をうかがった。
 “ふたりめの殺害”にカーグは戸惑い、目を白黒させている。ハンの心に耳を澄ませようと、自身の興奮を落ち着かせようと、なにも言えないカーグはハンにしがみついた。カーグの鼓動は早鐘を打つようにハンの身体へ鳴り響いていた。
「ハンナ、落ちつくんだよ」
 カーグは自分に言い聞かせているのだった。
「それからカーグがパパの愛人になって、わたしの虐待は止まったわ。でも、わたしは独りになった」
 ハンはカーグを見上げて無機質にまばたきした。カーグは冷や汗の滲む顔をひきつらせ、しまいにはハンから顔を背けてしまう。
「ハンナ、そんな目で僕を見るな」
「おねがい。さいごまで聞いてほしい」

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